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第15話

 隼瀬の居場所が突き止められることはなかった。  ただ、多少なり準備をして家を出たのだろうという北斗の予想ははずれていた。隼瀬はほぼ着の身着のままで出て行ったらしい。養母が持っていた隼瀬名義の通帳は手つかずで、住民票も移した形跡がない。携帯電話は初期化のうえで書置きと一緒に机の上に残されていた。持って出たのは現金の入った財布だけだ。  養父はこの件で今までに家族の誰も見たことがないほど大激怒し、隼瀬とは絶縁、今後一切、家族の誰かが隼瀬を探したりコンタクトを取ることはもちろん、話題に出すことも許さない、と言い放った。隼瀬の失踪から今日で一週間、養母と諒悟は父を宥めるのに必死になり、湊馬はただ狼狽えていた。その様子を北斗は彼らの一部のふりをしてただ眺めていた。  夕立に思えた大粒の強い雨は、辺りが暗くなってもそのまま降り続いていた。ばたばたと暴力的に街を浸食する。わずかに開けた窓から雨に濡れた景色の悲しみが薫った。 「……」  ここ数日集中して読み込んでいたアメリカのミステリー小説の最後の章を読み終え、北斗はタブレットの電源を切り溜息をついた。普段あまり小説の類は食指が伸びないのだけれど、安物のセーターのようにけば立って不快な感情を忘れようとしているうちに自然と手が伸びたものだった。  机の上に出したままの参考書を開き、頬杖をついてページを指で叩く。それをかき消すようにまた雨音が強くなった。 「……はい」  目を閉じ時間が過ぎるのを待っていると、誰かが部屋のドアを叩いていることに気づき、北斗ははっとして振り向き返事をした。 「勉強中?」  遠慮ぎみにドアを開け顔を覗かせたのは湊馬だった。わけもなく身構えていた北斗は胸をなでおろした。 「……湊馬か」 「これ、夜食。母さんが持っていってって。カツサンド」  部屋に入ってきた湊馬は大きめのトレーを胸のあたりに掲げた。時刻は十一時をまわろうかというところだ。夕食を終えたのが七時過ぎなので四時間ほどが経っているけれど、この時間の間食としてはずいぶんヘヴィだ。 「夜十一時にカツサンドって……どういうセンスなわけ?」  大きめのプレートに山と積まれたサンドウィッチは、見ただけで満腹になりそうだ。思わず文句を言うと、湊馬はけらけらと笑った。 「受験生にはやっぱりカツ、ってことじゃない?」 「……食えない」 「えー、そう?」 「腹減ってないし」 「んじゃ、俺ここで食ってっていい?」 「……部屋に持ってけば。勉強中なんだけど」 「勉強なんかしてないじゃん?」  湊馬はデスクの上に視線を向けて呆れたように言う。参考書一冊とタブレットでは言い訳が立たない。 「……わかったよ」  湊馬はやった、と言って、コーヒーテーブルにトレーを置いて座ると、嬉しそうにおしぼりで手を拭いてラップをはがした。トレーにはほかにコンソメスープと冷たい麦茶も置かれている。養母はあの偏屈な養父と長年夫婦をやっているだけあって、北斗を含む息子たちにもとても献身的だ。 「いただきまーす」  最初の一個が秒で胃に送り込まれると、そのまま一口サイズのカツサンドがあっという間に少なくなっていく。湊馬とは二歳しか年が違わないので、年齢の問題ではない。個人の体力の差だろう。北斗は少しの間湊馬の見事な食べっぷりを眺めていたけれど、やがて雨音に引き寄せられるように視線を窓に移した。  街灯の灯に反射する線形の連なりは、まるで隼瀬の行方をかき消す手助けをしているようだ。  隼瀬はおそらく、今のところは誰か友人のところにでも厄介になっているだろう。仕事を探してできるだけ早く自活の道へシフトするつもりで。彼の経歴では簡単ではないことは明白だったけれど、自らこの家に戻るつもりはないことはわかる。そんな甘い考えを少しでも持っていたなら、養父を出し抜いて家出なんかしなかったはずだ。あの時の意思を秘めた瞳の理由を今になって知るなんて。 「すごい雨」  湊馬がふと呟いた。振り向くと、彼はあの山盛りのサンドウィッチをもう半分ほど食べ終えていた。麦茶を一口飲んで息をつく。 「隼瀬くん、どこ行ったんだろうね……」  まるで北斗の思考が伝染したように、湊馬は掠れた声でそう言った。養父の絶縁宣言後初めて隼瀬の名前を誰かが口にするのを聞いた。 「……さぁ。あの人ももう子供じゃないんだし、どうにかやってるんだろ」  北斗の冷静さに自分の不安が揺らいだのか、湊馬は少し怒った様子で北斗を見上げた。 「子供じゃないっていったって……隼瀬くんはまだ学生だし、ほとんど金も持ってないだろうし……行くとこなんてないと思うんだけど。北斗くん心配じゃないの?」 「探しようもないのに心配したってしょうがないし」 「しょうがなくても心配じゃん。親父も母さんも諒悟くんも隼瀬くんいなくなってもやれ見合い相手がどうとか面目がどうとか、自分のことばっかりで……この家で隼瀬くんのことマジで心配してんのオレだけ? 隼瀬くんがかわいそうだよ」  湊馬は家族への怒りと隼瀬の心配とで表情を歪ませながら、サンドウィッチを口に運ぼうとして、それを思いとどまり大きな溜息をついた。 「……北斗くん、本当にどこにいるか知らないの? オレ、隼瀬くんが北斗くんに黙って出てくと思えないんだけど」  粘度のある湊馬の視線をほどき、北斗は再び窓の方に目を向けた。 「悪いけど、何も知らない」 「……」 「本当、知らねぇよ」 「……聞いてもいい?」 「なに、」 「なんで隼瀬くんに手、出したの?」  声には迷いが感じられた。けれど言わずにはいられないようだった。心臓の表面が一瞬で凍りついたのがわかった。 「……、」  一瞬誤魔化そうとも思ったけれど、おそらくそれは時間の無駄であろうことを察し、北斗はそっと息をついた。 「……知ってたのかよ」 「オレの部屋、北斗くんと隼瀬くんの間だよ?」 「……」  雨音と壁掛け時計の音がそれぞれのリズムで無言を埋める。湊馬はグラスの麦茶を一口含んで飲み込んだ。 「……オレ、ずっと、北斗くんも隼瀬くんのことなんだかんだ言って好きなんだろうって思ってたよ」 「……なんで?」 「だって、何しててもいつも余裕な北斗くんがフラットでいられないの、隼瀬くんだけじゃん?」 「フラットじゃない、イコール好きじゃないと思うけど」 「フラットでいられないこと自体は、認めるんだ?」 「……」 「“好きと嫌い”は、“好きとどうでもいい”よりは近いんじゃない?」 「一般論の話、」 「北斗くんの話。なんで隼瀬くんにつっかかるのかわかんないけど、でも、オレの知る限り隼瀬くんは北斗くんのことがずーっと好きで、北斗くんはずーっと隼瀬くんだけが特別だったよ。それってもう両想いでよくない?」 「飛躍しすぎ」  呆れた北斗にむっとした様子で湊馬が口を開いた。 「じゃあなんであんなことしたわけ? 隼瀬くんがたくさん泣いてたの知ってるよ。突き放すわけでもなくただ傷つけて、泣かせて。なんでそんなひどいことすんの?」  湊馬が北斗を睨む目に力を込めた。  隼瀬の無垢がまがい物だと暴ければ楽になれるような気がした。自分の傲慢さに世界が歪んで壊れれば少しはまともになれるような気がした。もしくはただシンプルに、隼瀬がうらやましかったから。  北斗は諦めて、息をつく。 「嫌われたかったから」  愛されたことのない人生だった。親に捨てられた事実に始まり、唯一恋した相手に最悪の失恋をするまで、ただの一度も誰からも愛されなかった。初めはきっと、ただ純粋に手を伸ばしていた。いつしか手が届かないことに安堵するようになった。多分、怖かった。  予期しない答えに湊馬は戸惑ったようで、なにそれ、と言いながら小さな笑いを零した。 「意味わかんない」 「そりゃ、お前にはわからないよ」 「……」  北斗の言葉の意味をしばらく考えていたらしい湊馬は、やがて目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。怒りよりも脱力の溜息のようだった。 「北斗くん」 「……んだよ」 「オレ、北斗くんのこと好きだよ。隼瀬くんの方が好きだけど……諒悟くんよりは北斗くんの方が好き」 「はぁ?」 「オレのこと犯す?」 「犯さない」  予想通りの回答といわんばかりに湊馬は笑い、最後のサンドウィッチを口に放り込んだ。残っていた麦茶で流し込み、立ち上がる。 「好きって感情にもいろいろあってさ、隼瀬くんと北斗くんのそれは定義が違うのかもしれないけど、でもオレは……オレには、そんなに変わんないようにしか見えないよ」 「……」 「相手が特別で、好きだと思ってても、嫌いだと思ってても、根っこは意外とそんな変わんないってこと、あると思うんだけど」 「そんな理屈知らない」 「知らなかっただけ、ってことも、あるかもよ?」 「……考えとく」  いつになくしつこい湊馬とのやりとりが面倒になって、北斗はそう答えた。湊馬は諦めるようにため息混じりに笑った。 「ほんとは、隼瀬くんと北斗くんは実は好きあってて、北斗くんが誰にも行き先がわからないように隼瀬くんを逃がした。オレが今から部屋出たら、北斗くんは隼瀬くんに電話して、何も心配いらないって言う……っていうのが期待したストーリーだったんだけどね」 「……」 「隼瀬くんに会ったら、心配してたって伝えてよ」 「だから――、」  最後まで聞かずに湊馬はトレーを持って部屋を出て行ってしまった。言いたい放題で出て行った湊馬を恨めしく思いつつ、北斗は諦めて再び頬杖をついて窓の向こうを見やる。雨脚は弱まる気配を見せない。  隼瀬が特別だった。ずっと、特別に憎かった。何もできないで愛される権利を持った彼がうらやましくて、そして怖かった。いつかすべてを認めて立ち尽くしたあとの自分の人生がどうなるか、考えたくなかった。いつも頭では自分の欠陥をわかっているつもりでも、身体のどこかにある一粒の光がぎりぎりのところで北斗を繋ぎとめていた。篤史に拒絶され無くしたと思った光は、まだそこにあるらしかった。 「……いなくなるとか、反則だろ」  無意識の独り言はノイズに紛れた。もう遅い。誰かが雨の向こうでそう答えたような気がした。

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