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第16話

 大嫌いな夏が終わると、季節の移ろいは加速した。秋が過ぎて年が明けても、隼瀬の所在は不明なままだった。養父は自分の顔に泥を塗った隼瀬がよほど許せなかったらしく、早々に隼瀬の部屋の私物をすべて処分してしまった。その様子にはさすがの養母と諒悟も閉口し、時が経つほどに隼瀬の抜けた穴の輪郭がはっきりして家庭内の溝が深まっていっている。けれどそれを家族の前で口にする者はいなかった。 冷たさが耳の後ろを掠めたような気がして、北斗は本のページをめくろうとした手を止めた。視線を上げて息を吸い込むと、わずかに雪のにおいを感じる。  センター試験が数日後に迫っている。毎日あれだけ詰まっていた予備校の講義日程は、センター試験対策クラスが終了したことでぼこぼこと穴が空いている。いよいよ緊張感がピークに達した予備校の自習室はとても過ごそうと思えるような場所ではなくなり、北斗は部屋で自習と称しただぼうっと過ごすことが多くなっていた。 時刻は午前一時を回っていた。本を読み始めたのは十時ごろだったので、もう三時間が経過していることになる。古いホラー小説はとても回りくどい英語で書かれており、集中して時間が過ぎるのを待つには最適だった。最近は暇つぶしに図書館の洋書コーナーの本を読み漁っている。 「……、」  喉が渇いていた。北斗は無視して小説の続きに戻るか、キッチンに飲み物を取りに行くか少しの間迷って、それからやっぱりコンビニに買い出しにでも行こう、と立ち上がった。クローゼットからジャケットを出し、ポケットに財布と携帯電話をつっこみながら部屋を出る。廊下はしんとした静けさに包まれていた。真夜中を過ぎると空気の音が変わる。一年を通してそれは不変だけれど、真冬のそれが一番顕著だと北斗は思う。体積は変わらないのに、密度が小さいような軽さがある。それでいて硬質で枯れ木のようにもろい。触れた端から乾いた結晶になっていくようなこの空気が嫌いじゃなかった。 「っ……!」  階段を降りふとキッチンの方に視線をやると、暗闇にぼんやりと浮かぶ人影が飛び込んできて、北斗は驚き思わずのけぞった。咄嗟に手を伸ばして明かりをつける。人体の組織間の信号伝達系統は意外とよく作られている。 「んだよ……諒悟兄さんか」  そこに佇んでいるのが諒悟だということに気づき、北斗ははぁ、と息をついた。まさかホラー小説を読んでいたせいだとは思わないけれど。こんな状況、誰だって驚く。 「……北斗か」 「マジ……何してんだよ。電気もつけないで」  驚いて不満を漏らす北斗から目を反らし、諒悟は何かを考えこむようにじっと一点を見つめた。視線の先にあるのは家の固定電話だ。着信を示すオレンジ色のランプが点灯している。 「なに、病院から……だったら、携帯にかけてくるか」  北斗は一人呟いて諒悟のそばに寄った。ディスプレイに見覚えのない市外局番の電話番号が浮かんでいる。北斗は直感的に電話の相手を思い浮かべて、言葉を飲み込んだ。 「さっき俺が降りてきた時にちょうど一回だけコールして切れた」 「……」 「隼瀬だな」  同じ答えを出していた北斗は、けれど何も言わなかった。諒悟はそれを同意と受け取ったらしかった。今時こんな時間にワンコールのいたずら電話は考えづらい。隼瀬なら両親は必ず寝ていること、起きている可能性が高いのが誰かもわかっているはずだった。 「あいつ……番号非通知の方法も知らないんじゃないだろうな」  諒悟は少しの間瞼を押さえて、それから意を決したように着信履歴を全消去した。ランプが消え、電話機は沈黙に戻る。諒悟が履歴を消したのは番号を記憶したからというわけではなさそうだった。必要ないと判断したようだ。 「連れ戻すチャンスだったんじゃないの?」  他に人の気配がないことを辺りを見回し、諒悟は短く息づいて頭を掻いた。 「今戻ってきたらあいつが大変な目に遭うのは目に見えてる」 「そりゃ、ね。でも兄さんはそれよりも手柄あげたいのかと思って」  諒悟はむっとしたように口を開いたけれど、言葉を飲み込み首を振った。 「……俺は別に、隼瀬を疎んでるわけじゃない。ただ、あいつは要領が悪いし、誰かがレールを敷いてやったほうが楽だろうと思っただけだ」 「それは俺もそう思うけど、でもそれで、見合い?」 「遅かれ早かれだと思った。父さんの目の黒いうちはどうせ兄弟全員結婚相手なんて自分たちで決められない。独裁一家だしな」  あまりにもちっぽけな独裁政権の馬鹿馬鹿しさに北斗は思わず笑いを零した。乾いた笑いが静寂をころころと転がって消える。 「……お前から見たら、俺たち一家はさぞ滑稽だろうな」  諒悟が疲れ切ったように自嘲を零した。錆びた歯車と、かみ合う相手のない欠陥品の歯車と、どちらが滑稽だろう。溜息で笑いの余韻を吹き飛ばしながら、北斗はそんなことを考えた。 「別に……しいて言うなら人間が生きてること自体、滑稽だ」 「いつも俺たちを見下してるくせに」  諒悟の口調に軽蔑や怒りの感情は確認できなかった。北斗よりも諒悟自身が滑稽だと感じているのだろう。中原の家は壊れている。そう思う。でも当人たちはそれぞれ必死だ。必死で、機能の一部であることを実感したがっている。隼瀬も同様だと北斗も思っていた。 「……でもどうしても欲しいものはいつも手に入らないんだけど」 「どうしても欲しいもの、」  唇で三日月を描くと、答える気がないことを察したらしい諒悟は腕を組みもう眠りについている電話機を再び眺め、それからふと笑った。 「そういえば昔、隼瀬がスケートボードを欲しがったことがあったな」 「スケボー?」  隼瀬とスケートボードがあまりにも不似合いで、北斗は思わず顔を歪めた。 「学校で流行ってるからって頼んだら、親父があんなものは不良が遊ぶものだってキレて、あいつは殴られた。でも結局あいつは諦めなくて、その後こづかいこっそり貯めて買ってた。一年くらいかかってたんじゃないか。よっぽど欲しかったんだろうと思ったけど……あいつが使ってるところは結局一回も見なかった」 「……」  記憶を探り、そのスケートボードが最終的に自分のところに回ってきていたことを思い出す。あれは北斗が中学に上がったかどうかの頃だ。周囲に溶け込むことに必死で、目立つクラスメイトたちを観察し真似ていた。スケートボードもその一環で、けれど養父が不良の象徴と思っているようなものを買ってくれるとも思えず、ただテレビや雑誌の特集を眺めては知識を得ていた。隼瀬はそれを知って、北斗にスケートボートを買ってやろうと思ったのだろう。  隼瀬から傷ひとつないお古のスケートボードがこっそり回ってきたのは諒悟の言う通りだいぶ後になってからで、その頃には学校での短いブームはすでに下火になっていた。北斗もほとんどそれで遊ぶことはなかったけれど、隼瀬はなにも言わなかった。本当に昔から要領が悪かった。 「昔から大人しくて、周りの言うこと聞いてばっかりだったけど……あいつにも譲れないことはあって、そういう時は確かに強情だった。本当に欲しいものは自分で手にできるし、嫌なことは絶対受け入れない。今回のことも……」  諒悟はまた電話機を一瞥して、それからそっと目を閉じた。諦めるような、何かを願うような仕草に、けれど北斗は彼の内心を読み切ることはできなかった。 「でかけるのか?」 「え、あー……ちょっと、コンビニ」 「センター試験まで日もないのに、ずいぶん余裕だな」 「まぁ……兄さんの時に比べれば多少はね」  いつも通りの諒悟の嫌味にいつも通り反撃すると、ようやくいつもの間合いを取り戻したことに北斗は少しほっとした。棘のある言葉を交わした方が緊張がゆるむというのもおかしな話ではあると承知しているけれど、これが諒悟との関係性なのだから仕方がない。諒悟も肩の力が抜けたようだった。 「出る時電気消していってくれ。俺も部屋に戻る」 「……ん」  諒悟があくびを噛み殺しながら階段を上がっていく間、北斗は階段の手すりに寄りかかり冬の夜の音を聴いた。空疎な結晶の中を響かせる。頭の中で羅列が単調なメロディを奏でた。

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