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第17話

 朝、窓を開けると雪の匂いと春の匂いが混ざった冷たい風が吹いた。三日ほど前にこの冬最後と思われる雪が降った。翌日から気温が上がり、数センチあった積雪はほとんど溶けきっていたけれど、匂いはまだ数日残るだろう。  最後の雪が降るのと同時に、国立大学の前期日程の合格発表が始まった。北斗が受けた大学の発表も今日行われる。結果は電話でも大学のウェブサイトでも確認することができるけれど、北斗は大学まで出向いて掲示板で結果を確認することを家族に事前に告げていた。家で養父母が固唾をのむ中で発表を見たくないというのが理由だった。わざわざ確認しなくても結果はわかっているのだけれど、凝り固まった固定観念を手放せない養父がそんなことを許すはずもない。  身支度を済ませて部屋を出て階下に降りると、ダイニングには養父母と湊馬がいた。諒悟は早朝から病院に出勤しているらしい。養父は新聞に目を通しているものの、明らかにナーバスなオーラをまとっている。養母も落ち着きがない。湊馬だけが淡々と朝食を食べ進めていた。 「あ、おはよー、北斗くん」 「はよ」  席につき熱いコーヒーを一口啜ると、少し気分がましになったような気がした。北斗をちらりと見やり言葉を探し始めた養父母をよそに食事に手をつけはじめる。 「今日は天気いいって。よかったね」 「なにが」 「電車とか……発表もさ、雪とか最悪じゃん。もしかして受験で滑って、道でも滑るとかさ」 「湊馬っ」  養母が慌てて湊馬をたしなめる。養父の新聞を持つ手に力が入り、薄い紙面はぐしゃりと歪んだ。北斗はこの場を一刻も早く立ち去りたくなって、トーストをコーヒーで流し込んだ。 「手ごたえあったし、分は悪くないと思いますよ」 「そうだよ。北斗くんが落ちるわけないじゃん。現役の時だって余裕だったし」  お前が言うな、と云わんばかりに鋭い視線で睨みつけた養父に湊馬はう、と顔を引き攣らせすぐに黙り込んだ。 「結果確認したら連絡しなさい」 「……ネットで見るんじゃないの?」 「念のためだ」 「あぁ……はいはい」  緊張でいつもより声に張りがない養父をあしらい、北斗はサラダとヨーグルトを一気に片付け立ち上がった。もう出るの、と驚く養母に曖昧に頷く。ここから大学までは徒歩と地下鉄でせいぜい三十分ほどだけれど、発表まではまだ一時間以上ある。ただ、この時空の歪んだ場にこのまま収まっているよりは早く出てどこかで時間をつぶした方がましだ。 「いってらっしゃい」  湊馬が呑気に手を振る。彼の存在が場の力学を余計に複雑にしている、なんて余計なことを考えながら北斗はジャケットを羽織り、ほとんど空のバックパックを右肩にかけてさっさと家を出た。  家から駅まではゆっくり歩いても十分程度だ。太陽の光はわずかな熱を帯び始め、これから気温上昇が見込まれるとはいえ、まだぴりぴりと冷たい風が耳を掠める。アスファルトからは灰色の雪の残り香が立ち上り、空からは春の結晶が降り注ぐ。朝、窓を開けた時と同じ匂いがして、それは北斗の中の記憶領域に触れたらしかった。するすると羅列が脳内を回り始め、北斗は不意に立ち止まった。ジーンズの後ろポケットに入れていた携帯電話を取り出して溜息をつく。 「……っ」  画面のバックライトをつけただけでロックも解除せずに再びポケットに戻そうとした北斗は、突然着信を告げた電話にびくりと身体を震わせた。 「――もしもし?」 「あ、中原? オレ、向埜。おはよ」 「向埜?」  電話の相手に改めて驚いて、北斗は携帯電話の画面を確認した。確かに由多加の名前が表示されている。夏に彼氏と揉めて破局騒動があったあと、由多加は心を入れ替え受験に専念すると言い出し、それ以降一時期ほどは顔を合わせることがなくなっていた。最後に話したのはお互いの前期試験の直前で、それも予備校でたまたま鉢合わせて挨拶を交わした程度のものだった。 「久しぶり。元気?」 「え、あー……まぁ。何だよ、急に」 「何って、祝電だよ。合格おめでとう。発表今日でしょ?」 「……いや、まだ発表されてねぇけど?」  意図が読めず訝しさを隠さない低い声で聞き返すと、電話の向こうで由多加がけらけらと笑った。そういえば、由多加の第一志望の国立大学の発表は一昨日だったはずだ。合格したうえでの陽気さなのか、空元気なのか図りかねるけれど、おそらく合格したのではないかと北斗は予想した。 「だって中原、どうせ落ちないじゃん?」  湊馬と同じようなことを言う。北斗自身確信しているとはいえ、他人に対して、万が一にも落ちていたらどうするつもりなのか。養父母の過剰な心配と、由多加や湊馬の無神経さと、その中間の人間は北斗の周りにはいないらしい。 「そんなのわかるかよ。てか、向埜は? その感じだと受かったんじゃねぇの?」 「うん。受かったよ、第一志望。大阪引っ越し決定」 「そ、おめでと」  意図したわけではなく無関心そうに響いた祝福を北斗は少し後悔したけれど、由多加は気にしていない様子だった。やっと一安心、と笑う。 「それで、オレ、すぐ引っ越すからもう中原と直接会うチャンスないかもって思い立って電話してみた」 「それが、発表一時間前?」 「天啓ってやつよ」 「はぁ?」  呆れてはいたけれど、怒っているわけではなかった。むしろ時間が潰せて好都合だ。ゆっくり歩いていたつもりだったのに、もう駅前のロータリーがすぐ目の前に迫っている。北斗は立ち止まり、標識のポールに寄りかかった。雪と春とが干渉し合ってプリズムを生む。 「――中原さ、去年の夏オレが付き合ってた彼氏いたの、覚えてる?」 「覚えてるけど」 「大阪で一緒に住むことにした」  それは合格発表前の祝電よりも突拍子のない告白のように思えた。北斗は純粋に驚き、言葉につまった。由多加も北斗の反応は予想していたようで、苦く笑う。 「なんか、オレが受験頑張ってる間に異動願い出して上司説得してたんだって。受かったらより戻して同棲しようって言うつもりで……ったく、落ちてたらどうすんだっつー……」 「同棲って……向埜の親父それ許したわけ?」 「もちろんお友達ってことになってるよ、親には、まだ。でもそんなことはどうでもいいんだ。オレさ、やっぱりあの人のことすげー好きなんだわ。親とか家とか将来とか……そういうのがあって、いつか色々決めなきゃいけない時がくるってわかってて。オレはまだガキでできること限られてるけど、でも、その時がきたら全部捨てても構わないって思う」 「……」 「いつだったか、中原聞いたじゃん? 彼氏のために死ねるかって。まぁ、死ぬかどうかっていうのは極端だけど、オレあれからずーっと考えてたんだよね。結局一時的な感情の揺らぎだったのか、オレの人生かけての本気だったのかって……で、半年考えた結果、マジだって結論に至ったわけ。それで、もう一回当たって砕けるつもりで連絡して……そしたら向こうも同じこと考えてた」  あらゆる代償を厭わないことが愛であるというのは偏見だ。どうやらそれにはいろいろな形があるらしい。北斗が信じたかったものはどこにもなかった。どんなに思いを馳せても、そこにあるのはやっぱり可変のものでしかない。それでも、北斗は由多加の穏やかな声は、スピーカーから吹く幸福が満ちるような柔らかな風は、多分美しいものなのだろうと唐突に思った。空を仰ぐと、空っぽの身体にするすると理解が降り注ぐ。まるで砂時計の最後の砂が落ちきるみたいに。 「それは……一大事だな。人の大学の合格発表なんかより、ずっと」 「ごめんって」 「……」 「正直、あの時なんで中原があんなこと聞いたかいまだにわかんないけど、でもなんか中原だけには報告しなきゃいけないような気がしてさ。中原絶対受かってると思ったし。オレ、中原がなんかに失敗してるところなんか一個も想像つかないよ」 「……失敗だらけだよ」 「え?」 「なんでもない。頑張れよ、大阪」 「中原こそ、頑張れよ」 「受かってたらな」 「じゃなくて」 「なに?」 「知らないけど。なんかここんとこずっと、上の空……っていうか、迷ってるみたいだったから」 「俺は別に……」 「そ? 予備校で完全無欠のパーフェクトな王子様とか言われてる人とは思えないくらい人間らしい顔してたよ」 「お前な……」  まぁまぁ、と由多加が笑って誤魔化す。多分、迷っていたわけではなかった。ただ抵抗をしていた。いわゆる運命とか、さだめとか形容される事象について。  ふと光に促されるように右手を見やると、バスが数台連続してロータリーに入ってくるところだった。脳裏に数字の羅列が浮かび上がり、方向幕に示された行き先とリンクする。 「……と、やば。親父呼んでるから行くわ。暇あったら大阪遊び来てよ」 「考えとく」  じゃあ、と言い合って電話を切ると、北斗はバスを見据えたまま息をついた。光の欠片が内側を転がる。身体の表面に刺さっていた頑なさたちがぱらぱらと音を立てて散っていく。諦めるように、もしくは、諭すように。息苦しさに顔を歪めながら、北斗は吸い込まれるようにバスに乗り込んだ。抑揚のない運転手の声が出発をアナウンスし、ドアが閉められる。その音と同時に、抵抗物質が抜け落ち始めたのがわかった。

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