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第18話
バスは一時間ほど走り、二つほど市を越えた先の港街へと北斗を運んだ。有名な漁港がすぐ近くにあるせいか、終点まで来てもバスの三分の一ほどは乗客で埋まっていた。
「……」
最後の乗客としてバスを降り、停留所の地名を確認すると北斗は長い溜息をついた。他の乗客たちはバスを降りるなり散り散りになり、あっという間に一人取り残される。
この地方では観光地として比較的規模が大きいにも関わらず、とても静かな街だ。この場所に隼瀬がいることを知っているのは、諒悟と見たあの電話番号をインターネットで調べたからだった。それはこの街で美容院兼花屋という珍しい形態で営業している店のものだった。店のウェブサイトには締め切ったあとの従業員の募集要項のログデータがまだ残っており、どうやら隼瀬はそこで働いているようだった。
隼瀬の居場所がわかっても、まだ自分がどうしたいのかわからなかった。正直に言って、合格発表を蹴って一時間もバスに揺られてこんな僻地まで来た今になってもよくわからない。降り注いだ欠片が足に集まって、それに身体を動かされているような、そんな気分だ。もうずっと、感情が形を変えながら激しく波打っている。発散するばかりのそれを持て余しているだけ。
もう何度、同じ場面を頭の中でリピートしたかわからない。何も信じられず、自暴自棄にもなれず、ただ疲弊して中原の家に漂着した。そこで見た隼瀬のきらきらした笑みにとどめを刺されたような気分になった。確かにあれは隼瀬だけだった。隼瀬だけが特別だった。でもどうしても、腕の中で震える彼の背中に手をあてられなかった。全てを認めたその瞬間に、全てが終わらざるを得なくなるのが怖かったから。
海岸沿いの通りに近づくにつれ海のにおいが濃くなり、やがて眼前に細い青と消波ブロックのな曲線が広がった。北斗の住む土地も大概田舎だけれど、この場所に比べれば都会といえるだろう。潮風がぴりぴりと肌を傷つける。北斗はほとんど無意識に通りを渡ってコンクリートの防波堤に両手を置き、一面の太平洋を見つめた。観光地化した漁港がすぐ近く、人々のざわめきがかすかに聞こえてくる。ずっと一人だった。それでよかった。一人でいることは、強くいられるということだから。
「――北斗?」
目を閉じてノイズを聴いていた北斗は、静寂をまっすぐに突き破るガラスのような声にはっとして振り向いた。漁港とは反対の方向、数メートル先に隼瀬が目を丸くして立っていた。黒いエプロンをしていて、右手には小ぶりの黄色い花束が入ったビニールをぶら下げている。空っぽの空間に液体が注がれて、光の欠片が流れの中を泳ぎ出す。
「え……本物?」
隼瀬の間の抜けた質問に、北斗は想定外のタイミングによる緊張から脱力して溜息をついた。人の気も知らないで。
「誰が何のために俺のなりすましになんかなるわけ?」
「っ……そうじゃなくて。夢かと思って……あ、寝てたわけじゃなくて……え、あれ?」
隼瀬は相当混乱している様子でこめかみを押さえた。北斗は身体の向きを変えてコンクリートに寄りかかる。
「北斗?」
「……そーだよ」
「どうしてここに……え、ていうか、今日大学の合格発表じゃ……?」
混乱を極めている最中にその質問が出てくるということは、隼瀬は前もって発表日を調べていたらしい。北斗の受験番号を知る由がないので、確認することはできないにもかかわらず。
「受かった」
携帯電話で時刻を確認して、ちょうど九時を回ったところであることを確認し、北斗はそう告げた。
「本当?」
「いや、知らないけど。落ちてるわけねぇし」
「……、」
隼瀬は数回瞬きを繰り返して、それからふ、とほんの小さな笑いを零した。驚きに強張っていた肩から力が抜けたのが見えた。
「本物、だね。はは」
今度ははっきりと、おかしそうに隼瀬は笑った。最後に会った時、もともとミディアムだった髪の毛を見合いのために耳の辺りまで切っていたけれど、今はそれよりもさらに短い。柔らかな髪が冷たい風にさらされ、かすかに揺れる。
「あー、びっくりした……でも、じゃあ、これ、あげる。合格おめでとうございます」
隼瀬は微笑み、持っていたミニブーケを北斗に差し出した。その笑みはあの夏の記憶と重なり、北斗の胸は締めあげられるように痛んだ。何度繰り返しても、隼瀬の笑みは変わらない。まるで初めて会ったみたいに、傷つけられたことなんて一度もないといわんばかりに。
「今日近くの高校の卒業式で配達行ってきたんだけど、一個多く作りすぎちゃったみたいだから……あ、おれ、花屋でバイトしてるんだ今。花屋っていうか、美容室も一緒になってるんだけど……」
「知ってる」
「え?」
「調べた。何回か家に電話かけてきてただろ」
「あ……、」
「携帯からかけておけば見つからなかったのにな」
「……つい最近まで携帯持ってなかったんだ。家賃と食費でいっぱいいっぱいで……電話はずっと店の使わせてもらってた」
「なんで電話なんかしたんだよ」
隼瀬は表情を強張らせて、花束を持つ手をわずかに引いた。
「あれは……、聴きたくて。あの……声だけでも……って」
「声?」
「っ……おれ携帯置いていったから、家の番号しかわかんなくて……」
「それだけ?」
「……もう、会えないと思ってたし」
「ば……っかじゃねーの?」
脆い結晶が音を立てて崩壊していく。ただ、北斗はそうすること以外できず、隼瀬を抱きしめた。受け取らなかったブーケが隼瀬の手から滑り落ちる。淡いブルーのリボンが風に揺れて、空と海とを視界で区切った。人生で初めて自分の感情を完璧に美しい関数で近似できたような、そんなある種の清々しさがあった。
「っ……、」
温かな波が広がっていく。漏れた吐息は軽かった。安堵は、まるで綿菓子かのような感情は、ただむくむくと広がるものらしい。限界まで体積を圧縮して、濃い密度で積み上げていく感情しか知らなかった。ネガティブなものも、ポジティブだと自分が思っていたものも、全て。こんな軽いものはこれまで触れたことがなかった。
「……北斗のことずっと好きだって、言ったよ、おれ」
隼瀬の細い腕と手のひらが背中に触れると、二つの波が重なり、干渉した。安堵は混乱の渦に降り注ぎ、混ざり合って更なる混沌を生む。北斗はたまらなくなって、けれど身体は脳の命令に背き隼瀬を抱きしめる腕に力をこめた。
「なんでだよ……」
「え?」
「今さら急に現れたりしてなんのつもりだって言えよ。もう二度と会いたくないとか、もう嫌いだとか……言えばいいだろ。あんだけ嫌がらせされて、泣かされて、それでなんでまだ好きだとか言えるんだよ……」
言っていることとやっていることがめちゃくちゃだ。身体の制御系統が完全に停止している。剥がれ落ちたと思った抵抗物質がまだ残っていたのか、新たに生成されたのかわからない。わかるのは柄にもなく緊張しているということだけ。
「突き飛ばして逃げろよ。そしたらもう二度とこんなバカみたいな真似しない……っ」
混乱の波の振幅を和らげる衝撃があった。隼瀬が北斗の背中をそっと撫でて、抱きしめ返した。
「もう逃げないよ。逃げないし、突き放したりもしない」
「……」
「北斗は、どうしてそんなに自分のことが嫌いなの?」
ごうごうと渦巻く濁流に、ぱらぱらと光が注がれて、触れたところから一気に質が変わっていく。思考が止まって、反動では、と息が漏れた。そんなの、決まっている。
「あんたたちが……俺を嫌いだから」
思考がゆっくりと逆回転を始め、たくさんの嫌な記憶が鮮明によみがえる。他人の悪意に涙を流さなくなったのは、いつからだろう。すべては憎しみだった。すべて、いつも。
隼瀬はほんの小さな笑いを零して、北斗の肩口に顔をうずめた。
「でも、おれは北斗のことが好きだって、何回も言ってるのに。何回言ったか知ってる?」
「六回」
思わず答えると、隼瀬がまた笑った。首筋に温かな液体の感触があった。
「そうなんだ。たった六回か……もう何千回も言ったような気がしてた」
「……」
「ずっと迷ってた。言葉にしたら全部壊れて……もう二度と目を見てもらえないような気がして……もっと早くに言えてたら何か変わってたかもなんて思わないけど……」
視界の端で鮮やかな黄色が震えだす。
「好きだよ、北斗。もう逃げないし、おれの一生かけて、絶対、嫌いになったりしない。約束する。だから北斗も、もうおれの気持ちから逃げないで」
「……んだよ、それ」
「そばにいたいよ」
「っ……隼瀬のくせに」
吐息のような小さな涙混じりの笑いが耳元をくすぐる。
「なんだよ」
「隼瀬って、初めて呼ばれたなぁと思って」
「……」
隼瀬を追ってこんなところまで来たこと、抱きしめずにはいられなかったこと、全身を揺蕩う波。その理由を説明できる日が来ると、今はまだ思えなかった。棘だらけの薔薇の花を前にした子供のように。
けれど安堵を知った。それは見えない未来を描くよりもずっと大切なことのように北斗には思えた。初めての感情は、胸の傷を癒し空虚を埋める。まるで夏の白い雲が空を飲み込むみたいに。閉じ込められていた小さなガラスの箱から出て、いつか景色がすべて変わりゆくなら、それも悪くない。
風にそよぐ黄色い花弁を目の端で捉えながら、北斗はそんなことを思った。
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