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第33話
万里が桜峰と遭遇するより少し前――
久世がオフィスに戻った時、ヤスヒロは一人、パソコンの前で作業をしていた。
「おかえり」
「ああ。吉敷は?」
「休憩中だ」
苦笑するヤスヒロの指した先、観葉植物に仕切られ、入り口からは死角にあるデスクのオフィスチェアの上には、アイピローを乗せた吉敷がぐっすりと眠っている。
「……呑気な奴だな……」
脱力しながらも、怒るよりもつい笑ってしまうほど大物なのが吉敷という男だ。
これも適当なところで起こさないと、就業まで寝続け、覚醒したタイミングで謝罪もなく家に帰るような、ちょっと普通では想像できない仕事ぶりである。
神がかった投機の才能があるので置いているが、クライアントを持つファンドマネージャーへの道は遠そうだ。
「そっちは?デートはどうだった」
「デートはよかったが、下で勝又に会った」
からかいをすかして肩を竦めた久世の言葉に、ヤスヒロの太い眉が寄った。
「…弟か。あの件はすべて片付いたと思ったが」
「奴の中ではまだ終われていないんだろう。それでも新しいことを始める元手になるくらいの資産は残してやったんだ。俺に絡んでる時間があれば、株価の動向でも見ていればいいものを」
いつになく険のある言い方になってしまったせいか、見咎めたヤスヒロがニヤリと口角を上げる。
「なるほど、バンビちゃんのいるところで出くわしたんだな」
「……………………………」
久世が勝又商事を少々強引な手口で売却したことが、あの男の兄が死んだ原因の一端であることを否定する気はない。
勝又一族が会社を私物化することで、経営は傾き、一つの伝統的ブランドが失われる寸前であった。
放っておけば、優秀な人材は幹部に振り回され続け、倒産などということになれば日本経済にも悪い影響を及ぼしただろう。
いいことをしたと思っているわけではない。久世は己の信じるところを為しているだけ。
勝又は、久世の提示したみんなで幸せになる方法ではなく、自分だけが幸せになる方法を選んで自ら破滅した。
それだけのことだ。
ただ、今か、と舌打ちしたい気分になったのは確かである。
今頃はあれのせいで、大人への過渡期にあるあの少年は、己の置かれている状況を思い出して塞いでいるかもしれない。
自分がどう思われるかはそれなりにどうでもいいが、ああいう手本にならない大人を見せたくはなかった。
「そのバンビちゃんの方はどうなんだ」
ヤスヒロの聞きたいことが、先ほどのデートの話ではないのはすぐにわかった。
あまり進捗はよくないと、腕を組んで少し難しげな顔をしてみせる。
「もう少しなんだが、流石、ヤクザの総元締めが面白がって金を貸したような男だ。担当者も手を焼いてるらしい」
「……一筋縄ではいかないか」
「バンビちゃんを誤魔化しておくのもそろそろ限界だろう。少しせっついておくか……」
「彼は……今日少し話してみたが、話に聞く彼の父親とは違う、真面目そうないい子だったぞ。初めに全部話しておくわけにはいかなかったのか」
ヤスヒロの言うことは、もっともだ。
彼は突然あんなことになって、父親のことでも、金のことでも、今後のことでも、不安な想いをしているだろう。
言ってやれれば、もう少し心穏やかに日々を過ごせたのだろうが、久世は聞かれるまで黙っていようと決めていた。
例えば、『眠兎』が同じ状況に置かれていたら、先にすべて種明かしをしたかもしれない。
万里にそれをしないのは……、
「なんとなく、喰らいついてきそうな奴だったからな……」
「……悪い癖が出たな」
ため息をつかれて、笑いながら「半分冗談」とフォローを入れた。
「一応月華との間では、泳がしておこうってことで話がついてるんだ」
「それなら仕方がないか。これで潰れるような奴にも見えなかったし」
「あー…お前もそう思うか?」
それが俺のバンビちゃんの魅力なんだと、久世は何故か自慢げに悪い笑みを浮かべた。
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