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第1話
ぎしりと床が軋んだ……ような気がした。だからふと目が覚めた。
思えば、こんな些細な物音に気づけたこと自体がなにかしらの「予兆」だったのかもしれない。
本来オレは、ちょっとした物音程度では起きない。すこんと落ちればあとは朝まで熟睡コース。
あんまりすやすやよく眠るものだから、ちびの頃はよく呼吸を確認した……とは母親の弁だ。
そんなオレが、このときは何故か気づいた。ふんわりと頬が生あたたかくなったような気がした。
そこそこ混み合った電車の中で、二の腕に隣の乗客の体温を感じる……触れているわけではないのにあたたかい、あれに似ている。違和感を覚え、自然と目が開いた。
ぼんやりと霞む視界の向こうにいた顔は、暗闇に沈んでいてよく見えなかった。ただ、こちらの顔を覗き込んでいるのはわかった。
男だ。
どういうわけか直感した。
うすく瞼を開いたその先に、知らない男がいる。まるで覆いかぶさるようにして、こちらの顔を覗き込んでいる。
誰だと不思議に思ったが、やはり顔は見えない。ただ、月明かりに照らされた輪郭だけは辛うじて認識できた。覗き込んでくる頭っぽいものの形、それと色。緑のような。青のような。ささやかな月光を跳ね返すそれは、おそらく髪の色だろうと思った。
髪の色にしては……いや、仮に肌の色だったとしてもまあまあ奇抜だけど。
「……なに、」
寝ぼけ眼で問いかける。
自分の唇から出た掠れ声が、ひんやりとした空気をわずかに震わせた。
と同時に、唇にやわらかい感触がぶつかってきた。やわらかい。それでいて、しっとりとしている。
自分が吐き出した息が口内に戻ってくるような感覚がした。
温泉上がりのナメクジみたいなものが、下唇の輪郭を辿っている。下唇、次いで上唇を通り抜けたそれは歯の表面を這い、歯列の隙間を縫って、中へ
「ひぁ、ああああぁ……」
一体なにが起こっているのかはわからない。
が、ナメクジが舌先に触ったその瞬間、なんとも弱々しい悲鳴が飛び出してきた。いや、飛び出してきたなんて元気なものじゃない、じわりと滲み出てきたと表現した方が正しいだろう。
だが、そんな軟弱な悲鳴でも相手は驚いたようだ。
ナメクジがびくりと跳ね、口の中から出ていった。同時に間近に迫っていた影も遠ざかっていった。
「だ」
誰だ、と問いかけるよりも先に「それ」は身を翻し、ばたばたと逃げていく。足音を抑える余裕もないくらいに慌ただしく。
追いかけなければ。
そう考えたが、身体は動かなかった。多分眠かったんだろう。
自己防衛本能が警鐘という名の悲鳴を上げさせたが、できたのはそこまで。
追いかけなければと心の声は尻を叩いてきたが、結局意識は再び夢に沈んだ。
それが、昨夜のオレだ。
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