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第2話
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ぱっと目が開いた。自分でも驚くくらいに。
スヌーズ殺しの異名を取るオレが、微睡の余韻もなく目覚めるなんて……が、
「……」
目は開いていたがまだ夢を見ているのだと思った。
いつもと景色がまったく違っていたからだ。
横たわったまま見上げる天井……知らない。うちの天井は白いはずだが、今見ているものは灰色だ。
眼球だけ動かし見た壁……知らない。こちらも灰色。
空間を四角く切り取る窓の横には、何もない。本来そこには花柄ピンクの壁掛け時計があるはずだ。二十歳の誕生日のときに莉緒ちゃんからプレゼントされてから九年間、オレの部屋で時を刻んでいる。それがない。
怪訝に思いつつ身を起こすも、視覚的情報が増えたところでやはり見知ったものはない。ただのひとつも。
かたいマットレスに薄っぺらい掛け布団。こぢんまりとしたベッド。
窓辺には直線だけで描けそうな愛想もクソもない机があり、その上には数冊の本が立てられている。並んだ本のすぐ横には使いかけの蝋燭が刺さった燭台。てか燭台て。
見上げた天井に照明はなく、四面の壁にはエアコンもない。
部屋の片隅にはこれまた無愛想な箪笥がある。お洒落にカタカナ呼びする気も起きないような代物だ。
また別の隅にはごくささやかな給湯スペースっぽいものがあるが、冷蔵庫や電子レンジはないっぽい。
その給湯スペースっぽいもののすぐ横には……木の扉がある。
「……つめた」
そっとベッドから降り、ひんやりとした床に驚いた。
土足の部屋なのか、若干砂っぽい。
降ろした足のすぐ横に靴があったので、取り敢えずそれを履いた。もちろん、見覚えのない靴だ。
誰のものかもわからない。でもぴったり。
両足踏みしめ部屋の中央に降り立つと、違和感はますます膨れ上がった。本当に本気で知らない部屋だ。
「どこだここ……」
やけに丈の長い白シャツ。着ているのはそれだけで、パンツすら穿いていない。お陰で寒い。
冷たい空気に縮こまるのがわかる。どことはいわないけど。
なにか上に羽織るものが欲しい……そう考え、箪笥を開いてみる。すると、中にはずらりと黒い衣装が並んでいた。
全部黒。しかも全部同じデザイン。こだわり派にしたって度が過ぎる。
とはいえ、寒さに震えているよりはましだと袖を通した。でもまだ寒い。
コート的なものはないものかと探してみたものの結局見つからず、吐く息で指先をあたためながらも部屋を出る。
ちなみに、パンツも見つけ出せなかった。アラサーのノーパン。人にばれたら即通報案件だ。
オレは今、一体どこでなにをしているんだろうか。
幾度となく頭を捻りながら、今にも踏み抜いてしまいそうな木の階段を降りる。
薄暗い階段を照らす光源はやはり蝋燭のようで、ぽつりぽつりとふたつ、壁に燭台があった。が、火が点いていないので現状ただの壁飾り。
ギシギシ、ギシギシ、一段降りるごとにあちこちから軋んだ音が聞こえてくる。なんとも陰気な雰囲気で、まるでお化け屋敷に迷い込んだような気分になってきた。
階段の下にあったのは扉ひとつで、他に外に繋がりそうな通路及び窓はない。
ゾンビでも飛び出してきたらどうしよう……そんな気分で恐る恐る取っ手を押し開くと、唐突に視界が開けた。薄暗い階段を降りてきたせいで余計に眩しく感じ、思わず目を瞑った。
再び瞼を開いた先に見えたのは……なんだ? 礼拝堂? 教会?
いとこの帆香ちゃんが結婚式を挙げた場所とよく似ている。
広間には三人がけの椅子が縦に三つ、中央の通路を挟んで二列並んでいる。満席になっても二十名も座れない、ハコとしての規模はかなりちいさい。
観音扉からまっすぐ伸びた最奥には、それっぽい祭壇と聖女の像がある。
聖女といってもマリアじゃない。なにせ下半身が魚だ。人魚と呼ぶべきか魚人と呼ぶべきかはわからないが、とにかく卵しか産めそうにない。
それでも「それ」が聖像であることだけはなんとなくわかった。
きらきら綺麗なステンドガラスの光を背負って、なんともいえない神々しい雰囲気を醸し出しているからだ。
目を覚ました部屋から繋がっていた階段は、そんな祭壇の傍らにある扉に続いていた。
「……」
あの半魚人、なんか見覚えがあるような……ふとそんな気がして、聖堂の上座に君臨する像を見上げる。
教会なんて帆香ちゃんの結婚式のときにしか行ったことがないのに、この既視感はなんだろう。
不思議な気分でまた頭を捻る。と、背後で蝶番の軋む音が聞こえた。どうやらこの教会はだいぶ年代物らしい。
そういえば、目を覚ましたあの部屋もやたらと古臭かった。
「おはよう、シア!」
音に引かれて振り返ると、相手の顔を認識するよりも先に声をかけられた。シア、と。
扉を開き中に入ってきた相手が、こちらに声をかけてきたのだということは理解できた。なにせこの礼拝堂には、現在オレしかいない。とはいえ、おはようと挨拶を返すことはできなかった。
理由は簡単。オレは「シア」ではなく「山田保」だからだ。
なんだこいつ……と訝しく様子を窺うも相手はこちらの警戒心もなんのその、颯爽とした足取りで近づいてくる。
背が高い。しかも髪がまっかっか。ヤンキーだろうか。にしては服装が多少地味。
というか、やけに二次元だし……なんだろう、見覚えのある顔だ。
「……」
どこで見たことがあるんだろう。わからない。
でも確実に、オレはこの男の顔を知っている。なんなら職業だって知っている。
好きな食べ物も、秘密の場所も、ふたりきり夜空に輝く星を見上げどんな愛の言葉を囁くのかも……
「……ッ、あ……ッ!」
瞬間、頭の中で風船が破裂した。
同時に、まるで他人事のようにやけに鮮明に、男との思い出が脳裏によみがえった。
「あ、アサド……?」
嘘みたいな名前が口をついて出た。
対面する男にそう呼びかけた自分の頭が信じられなかった。
が、赤毛の男……アサドは、一瞬不思議そうに小首を傾げたものの、すぐににこりと微笑み頷く。肯定した。
アサドで正解だといった。
「アサド……羊飼いの、アサド?」
「そうだよ。なんだよ急に改まって」
「……」
お前は「アサド」か、と、不躾に指した指がわなわなと震えた。
一体なにが起こっているのかわからず、もう片方の手で力いっぱい頬を抓った。とても痛い。
「おい、なにやってんのシア。大丈夫かよ」
こちらの奇行に驚いたアサドが、抓り上げた頬を撫でてくる。それに身体が飛び上がり、勝手に一歩退いた。
目の前の赤毛はアサドで、そのアサドが対面している相手……つまりオレは、オレが、シア。シア?
「し……え? し、シア……?」
オレが?
アサドを指していた指を百八十度回転、自分へと向ける。変な質問だ。が、アサドはまた小首を傾げながらも「ちがうの?」と問い返してきた。違う。山田だ。オレは山田で「シア」じゃない。
が。
「……ッ?」
違う、と叫ぼうと開いた口が……いや喉が、正確には声帯が、凍りついたように動かなくなった。声がでない。驚き喉を押さえながら「あー」と声を出してみる。出る。
それなのに「違う」のひと言が口にできない。
狼狽えてアサドを見ると、お人好しな羊飼い……という「設定」の赤毛も困惑した様子でこちらを見ていた。
「シア、どうした。どっか具合でも悪いのか? お前身体弱いんだから、無理したらまた寝込むことになるぞ」
「……」
労るように、アサドの掌が背中を撫でてくる。振り払いたかったが、正直それどころじゃなかった。
どういうことだ、で思考が埋め尽くされていく。と同時に「シア」はまずいと警鐘が鳴り響く。シアはまずい。本当にまずい。シアだけは……
頭の中と同じく視界までぐらぐらしてきて、結局そこで意識は途切れた。
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