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【6】

 俺は、すぐそばに人の気配を感じて銀縁眼鏡のブリッジを押し上げて、のそりとPCの画面から顔をあげると、隣りに立つ長身の男を見上げた。 「相模くん、この後の予定は……?」 「ん?」  優しく微笑みかける端正な顔立ちをぼんやりと見つめ、意識しなくても出てしまう甘いため息に困惑する。 (相変わらずいい男だな…)  三つ揃いのブランドスーツに身を包み、自分に投げかけられた妖艶な笑みは他の誰のモノでもないと再認識させられる。  片手にタブレットを持ちながら、俺の返事を待つ男――鳴海拓未はわずかに首を傾けた。  あのプレゼン以降、何かと用事を作ってはこの営業部に顔を出すようになった彼に戸惑ったのは部長をはじめとした同僚たちだった。  寡黙で根暗な俺が、社運がかかったプレゼンを成功させ、大口の契約受注に貢献したことにも驚かれたが、何より俺と拓未の距離が一気に近づいたことが意外だったようだ。  そのおかげで、雲の上の存在であった拓未を間近で見られると女子社員たちは歓喜したが、彼が来るたびに嫌な緊張感に包まれていたフロアも自然と受け入れる耐性がついてきたようだ。 「――鳴海専務、何かご用ですか?」  何事も動じることなく小さな声で応えた俺の耳元にすっと顔を寄せる。 「用事があるから来たんだけど…」 「予定はありますよ。大事な約束ですから、譲れませんよ?」  ちらっと彼に視線を向けると、形のいい唇が優雅に弧を描いた。 「――今、ここでキスしたいって言ったら?」  俺よりも年上で、しかも専務という立場でありながら時々こういった無茶を言い始める。  そういう大人げないところも彼の魅力ではあるが、未だに根暗キャラを突き通している俺としては対応に困る。  これ見よがしに大きなため息をついて立ち上がる。 「打ち合わせ行ってきます」  これまた耳を澄まさないと聞こえない小さな声で言ってフロアを出る。専務との打ち合わせだと分かっているせいか、誰も咎める者はいない。  拓未はそんな俺のあとをニコニコしながらついてくる。  開放的な廊下を抜け、奥まった場所にある階段室へと向かう。社員はエレベーターをメインに使用するため、日中この場所に人通りはない。  階段の手摺に凭れて、ため息をつきながら眼鏡を外す。  待っていましたと言わんばかりに、壁に手をついて俺を見下ろした彼は嬉しそうに微笑んだ。  目を閉じて背伸びをすると、自然に唇が重なる。クチュリ……と音を立ててすぐに離れる。 「お前といると仕事にならないな。――ったく」  拓未はまんざら嫌そうでもない口調で、長い前髪をかきあげる。  甘い香水がふわりと香って、俺は上目遣いで睨みつける。 「――あなたが誘ったんでしょうが」  本来であれば、俺は営業部から専務秘書へと移動になる予定だった。  だが、それを断ったのは俺自身だ。  プレゼンテーションがあったあの日――腰が立たなくなるほど抱かれ、溢れるほど注がれたあとで、俺は自分の気持ちに気付いたのだ。  鳴海拓未を愛してしまったことに……。  薄れる意識の中で何度も「愛している」と聞こえたのは夢ではなかったようだ。  もちろんプレゼンは成功し、大手企業との契約は成され、営業部としての業績は上がった。  その本人である俺を、拓未は超個人的な理由で自分の秘書に任命しようとした。  それを断った理由――そんなの言わずもがな、彼のセクハラだらけの日常が予想できたから。  仕事は仕事で割り切りたい俺。仕事にも私生活を持ち込みたい拓未。  二人でさんざん言い争った挙句、俺は会社を辞めることを口にした途端、彼はあっさりと折れた。  離れていても同じ社内にいることで納得してくれたと思っていたのだが、こう毎日フロアに顔を出されると、仕事もやりづらい。  神経質そうな銀縁の眼鏡に、きっちりセットされた髪、そしてヨレヨレのスーツに猫背もやめていない。陰湿な振る舞いも話し方もそのまま……。  そんな男のどこがいいのか?と聞きたいほど、拓未は懐いてくる。 「大事な約束って……誰かとデート?」  野性的な瞳が何かを探るように問いかけてくる。  俺は少しだけ微笑んで「えぇ」と短く答えた。 「――へぇ。また俺以外の男のモノを咥えに行くのか?本当に懲りない仔猫ちゃんだな」  不機嫌になるかと思いきや、拓未は余裕ありげに俺の唇をペロリと舐めた。  社内の誰かにこんなところを見られたら大騒ぎになるのは間違いない。だが、そんなスリルも相まって、俺は彼の舌先を唇でそっと挟み込むと、チュッと音を立てて吸った。 「何を言っているんですか?この後の予定は――お前との打ち合わせだったよな?」  クスッと笑うと、つられる様に拓未も笑った。  そして、どちらからともなく唇が重なる。  俺の腰を抱き寄せる彼の手に力が入り、体が密着すると、下半身がズクリと疼いた。 「――まだ仕事があるんだから、手加減しろよ」 「また……あの店には行くのか?」 「――行くよ。ただ酒を飲みにね。――ったく、お前がオーナーだとは思わなかった」 「奥に俺専用のVIPルームがあるんだが……。そこでお前を啼かせてみたい」  耳をゆっくりと舐められて背筋が震える。このままでは本当に仕事にならない。 「おい、ここは会社だぞ。仕事しろよ!お楽しみはその後だ……」  俺はネクタイを締めなおし、彼から離れるとコホンと咳払いをする。  ここまでベタ惚れされると公私混同も甚だしい。  今日は金曜日――。  後から知ったことだがあの店は拓未がオーナーを務めている店だったのだ。  俺は最初から彼の罠に嵌っていたのかもしれない。  もう自分を偽ることはない。他の男を誘う必要もない。  そのままの俺を愛してくれる人がいる。  だから、あの店には一人では行かない。俺と拓未、二人で酒を飲みに行こうと思う。  上質な空間で、恋人同士の愛の囁きを交わす。  ふっと自嘲気味に笑って、彼を再び見上げると俺は唇を舐めてみせた。 「――今夜こそ俺を孕ませてくれよ」  彼は満足そうに微笑むと深く深く唇を重ねた。  業務終了のチャイムを心待ちにしている俺は今までと違う。  野暮ったい仮の姿を脱ぎ捨てて飛び込めば、両腕を広げて裸の俺を受け止めてくれる大切な人がいる。  今夜もまた彼の腕の中で快楽に溺れる。  この先も、ずっと一緒に――――

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