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第1話 幼馴染

 仕事帰りの電車の中、香野勇也はぼんやり窓を眺めていた。 窓には、くたびれた自分が映っている。 朝ちゃんと整えたはずの髪は、なんとなく崩れ、緩めたネクタイがだらしなくぶら下がっている。 家に帰れば、やっぱり小鳥遊晴希はいるだろうか。 ちゃっかり、風呂を使ってるかもしれないし、無暗に料理を作っているかもしれない。 文房具の営業をしている香野と違って、小鳥遊は公務員だ。 今時の市役所は、残業も日曜出勤もあって意外と拘束時間が長いはずだが、小鳥遊は金曜の夜だけは死守すると言って、定時で退庁するらしい。 そういうわけで、金曜の夜、香野は外で飲みもせずに、自宅に帰る。 きっと、いや多分、いや絶対、小鳥遊晴希が家にいるから。 どうして、こんな事になったんだったかな……。  そもそも、香野と小鳥遊は幼馴染だ。 家が近くて、保育園から中学まではずっと同じ場所に通っていた。 2歳年上の小鳥遊が、先に小学校を卒業する時には、淋しくて淋しくてずっと怒っていた。 自分より、先に中学の制服を着た小鳥遊に、「晴希だけ、ずるい」とぐずぐず言って困らせた。 おっとりした小鳥遊は、いつだってそういう香野の傍にいて、気が収まるのをじっと待っていた。 「勇也」と呼ばれていた。 自分が中学にあがれば、小鳥遊は三年生だ。気軽に声をかけることは、できなかった。呼び名も、「小鳥遊さん」と「香野」になった。 それでも、家に戻って、回覧板を回したりゴミ出しで顔を合わせたりする時には、目を合わせて笑いあうくらいのことはできた。 小鳥遊が高校にあがると、さすがに生活時間帯も行動範囲も完全に違ってしまって、顔を合わせることも少なくなった。 母親同士の付き合いから、互いの様子がわかるくらいだ。 ただ、香野が中学を卒業して高校に入った頃、母親伝手に、小鳥遊からお祝いの品が届いた。 それは、ちょっといいシャーペンだった。 今から思えば、子どもの持ち物としては値の張る文房具だった。 小鳥遊の懐具合には思いが及ばず、ただ喜んだ。 なんとなくくすぐったいような、照れるような、嬉しいような、気恥ずかしいような。 「ちゃんとお礼を言っておけ」という母親の言葉には、生返事をしてばかりだったけれど、プレゼントと一緒に入っていたカードに描かれたメールアドレスに短い礼を送った。 高校合格の祝いに、親が買ってくれた携帯電話に小鳥遊のメールアドレスを登録した。 「おめでとう」という短いメールが、嬉しかった。 それからは、本当に暫く会わなかった。 先に小鳥遊は大学に進み、公務員試験を受けて市役所職員になった。 香野も大学に進み、その後文房具の会社に就職した。営業の仕事が身につくまでの数年は、驚くほどにあっという間だった。 その間に、小鳥遊は結婚して離婚して実家近くのアパートに一人暮らしを始めたそうだ。 全部、母親経由での情報だ。 小鳥遊から、メールでそういう連絡は一切なかった。 ただ、「離婚したそうよ」と知らされた後から、他愛もない話題とか季節にあった写真とかが、ふらっとメールで送られてきた。 そういう写真が送られてきているうちは大丈夫だろうと、自分から小鳥遊にプライベートな事を聞いたりはしなかった。 その代わり、何か面白いネタがあれば、自分からも勝手にメールをした。 たまには、小さい愚痴も書いた。 生きていることと元気でいること、その二つをなんとなく確認しあっているような、そんなメールをやりとりしていた。 次の年には、都合の良い時に久しぶりに会えないかというメールが来た。 それから、二月に一度くらい、二人で外で飲むようになった。 公務員と民間企業の営業と、まるで違う仕事をしていると思っていたけれど、客商売であることに違いはなかった。 共感できる苦労話と、面白い客の話しが、いい酒の肴になった。 3年目に、香野が一人暮らしを始めた。 それを機に、香野の家で飲むようになった。その頃には、呼び名が元に戻っていた。 小鳥遊は、いつの間にか香野の家の合いかぎを持っていた。どういう経緯だったか、もう思い出せない。 4年目。小鳥遊は、毎週金曜日の夜に香野の家に来るようになった。 勝手に来て、勝手に掃除をして、勝手に料理をする。そして、勝手に飲んで、勝手に寝る。そして、翌日帰っていく。 香野がいてもいなくても、同じだ。 なぜ?と聞けば、「ストレス解消」だと言って笑っていた。 自分がやりたいだけだから、良かったら好きにさせてほしいと言う。 香野は、よくわからないなりに、小鳥遊の好きにさせることにした。困ることはなかったし、旨い飯が食べられるなら文句はない。小鳥遊も、線引きはきちんとしていて、香野のプライベートには立ち入らなかった。 そして、5年目。今である。 もう、電車が最寄り駅に着く。きっと、今日も小鳥遊はいる。もはや、今週はどんな旨いものを食わせてもらえるか、という思考パターンに陥っている。 餌付けされてるなと、思わないでもない。 それでも、小鳥遊がいる空間が心地よいので仕方がない。 生意気に「晴希」と呼び捨てにして、追いかけて走って転げまわった小学生の頃と何も変わってないなと苦笑いが浮かんだ。 改札を抜けて、自宅に向かう途中で煙草を買い足した。 晴希は吸わねんだから、うちの換気扇まで洗うことねーのにな……。 反省しつつも、小鳥遊のことを考えて自分の好きなことを止めるのは、きっと何か違うのだろうと思い直す。 「すんませーん。KENT一つ」 小銭と交換した煙草をポケットに押し込んで、香野はまた歩き始めた。  玄関の戸を開くと、見慣れた小鳥遊のサンダルがあった。 一度家に帰って、楽な恰好に着替えた小鳥遊は、素足にサンダルをひっかけて、ふらりとやってくるのだ。 顔をあげて「ただいま」と言えば、当たり前のように「おかえり」と返ってきた。 「晴希、飯、ある?」 「今作ってるとこ。今日は早かったね」 「うん。晴希来てるかなと思って、とっとと帰ってきた」 「定着してきたねぇ。いいことだ」 台所で手を動かす小鳥遊は、手際よく野菜を洗ったり刻んだりしている。 「晴希は、風呂入った?」 「これから」 「ん」 香野は、台所をぬけて寝室に入ると、スーツを脱いで部屋着に着替えた。 台所では、きゅうりの千切りが山のようだ。 「手が空いたとこで、風呂行って来たら?」 「そうだね。じゃ、家主よりも先に使わせてもらおうかな」 「何言ってんだよ、飯作ってるじゃん。行ってきな」 ありがとうと答えると、小鳥遊は包丁を閉まって、風呂に向かった。 香野は、煙草と灰皿をもって、南向きの小さなベランダの窓を開けた。 そこには、小さな鉢植えが置いてあった。 蔓性の植物らしく、茎から伸びた蔓がぐるりと鉢を囲むようにゆるく巻き付けられている。 よく見れば、ハート型の葉には緑に白のすじが入っていて、涼し気だ。 煙草に火をつけて、深く吸って吐く。街灯を見下ろすと、通りを近所の猫が歩いていくのが見えた。 この、鉢植えは何だろう。後で晴希に聞いてみよう。 晴希がここにいることも、何かをすることも、何かを持ってくることも、嫌なことは何一つない。 兄弟のように育った時期があるからだろうか。 晴希が優しいからだろうか。 晴希の作る飯が旨いからだろうか。 小さな鉢植えがここにあるということは、きっと小鳥遊晴希は、しばらくこの家に通ってきてくれるということだろう。 それなら、一つはっきりさせておきたいと思っていることがある。 香野勇也は、今日それを確認しようと、何となく決めた。鉢植えが、言い訳の一つになれば助かるなと思っていた。 煙草を灰皿に押し付けて、それからやっぱり煙草を止めようと思った。せめて、本数を減らそうと思った。 ☆  二人で、向かい合って食卓を囲む。 金曜日は、いつも小鳥遊が来ているけれど、香野の帰宅時間がまちまちなので、こういう事は珍しい。 食卓には、棒棒鶏と焼きナスと漬物と酒。 ピリ辛のたれで食べる蒸し鶏が旨くて、ナスに浸みた出汁もうまい。 「これ作るのって、どんくらい手間かかんの?」 「手間じゃないよ。そうだなぁ、1時間くらいかな」 「俺、帰ってくるかどうか、わかんないのに?」 「置いておけば、後で食べられるし。作りたいだけなんだから、いいんだよ。料理と掃除はストレス解消にもってこいだし、喜んでくれる人がいたほうが張り合いあるからね」 小鳥遊はおっとりと笑っているけれど、香野は困ったなと口の端をゆがめている。 そのままチューハイを一口飲んで、小鳥遊を見た。 「ん?」 どうしたのかと小鳥遊が、首を傾げる。 その頃、香野は最後のふんぎりをつけようと、腹に力をこめていた。 どこからどう見ても、小鳥遊晴希は男で、幼馴染で、二つ年上の公務員だ。 でも、旨い料理を作ってくれて、いつでも香野を見ていてくれて、困った時には傍にいてくれる。 小鳥遊と再会して足掛け五年。家に通い始めてからだって、ゆうに一年は超えている。そろそろ、うやむやにしないで確認したい。小鳥遊の気持ちを聞いておきたい。 のんびりした食事も、だいたい終わっている。香野は、意を決して口を開いた。 「あのさ、晴希。もしかして、俺が、好き?」 「勇也とは、長い付き合いじゃないか。好きか嫌いかっていえば、そりゃ好きだよ」 事もなげに、小鳥遊は返事をした。 「……聞き方、悪かったか。あの、ベランダの鉢植え、あれ、どうした?」 「あれ?ポトスっていう観葉植物。丈夫で育てやすいんだよ。勇也は煙草を吸うから、植物があるといいよ」 「俺、面倒みれる?晴希が、面倒みてくれんの?」 「たまに水をあげて、固形肥料を足すくらいだから、面倒なんてほどのことはないよ。もちろん、僕が持ってきたんだから、僕がするよ」 「あれって、長生きする?」 「する…ね。多分」 「じゃ、長生きしてる間は、晴希はうちに通ってくんの?」 「……あ、あ、そう、いう事になる、ね。ちょっとめんどくさいか。ごめん」 「じゃなくて、そうしたいと思ってくれたんだろ?そういう風に、俺のこと、好き?」 「そういう風に?」 「長くここに来る理由を作りたくなるくらい、俺が好きかってこと。俺と、一緒にいたいかってこと」 笑っていたはずの小鳥遊は、徐々に顔色を悪くして、困ったと眉を下げる。 最後のダメ押しが効いたのか、完全にうつむいてしまった。 「ごめん。ここに来るの、楽しくて。子どもの頃とは違うけど……」 「なぁ、なんで謝んの?俺、晴希の飯食うの、楽しみにしてる。鉢植えも、理由きいたら、何か嬉しい。俺と晴希と、ポトスっだっけ?鉢植えとで、仲良く暮らしていけないの?」 「え?仲良く?」 顔を上げた小鳥遊晴希は、赤い顔で目を丸くしている。見開くと意外と大きくて、目の玉が落っこちそうだ。 「そう。仲良く。なぁ、もう一回聞く。俺が、好き?手つないだり、触ったりしたいくらい好き?」 「す、き、です」 香野勇也は、ほっと大きな溜息をついて、体の力を抜いた。 それから、小鳥遊と目を合わせて、にやりと笑って見せた。 「俺は、晴希とちゅーしたいくらい、好き」 はじけるように、首まで真っ赤にした小鳥遊晴希は、食卓に突っ伏してしまった。 ……なんだよ。晴希、可愛いんじゃん。 香野勇也は、大きな手で、小鳥遊のさらさらした髪を撫でた。突っ伏したままの頭は、少しぴくりとして、そのままじっとしていた。  暫く突っ伏していた小鳥遊は、情けない事に、首が痛くてその姿勢に耐えられなくなった。 でも、顔を上げるのは、恐ろしく恥ずかしい。 食卓に手をついて、ゆっくり上体を起こそうとするけれど、そのまま体を後ろに引いて、顔はあげられないままだ。 頭に乗っていた香野の手が、離れた。 それは、とても残念だけれど、仕方がない。 「晴希」 「うん」 「聞いてる?俺も、晴希が好き。晴希も俺が好き。なら、なんにも問題ないじゃん。顔あげてよ」 熱くなってきた耳が、じんじんする。 そっと目をあげれば、にやりと笑う香野が、甘い目をして自分を見ている。 その状況が、信じられなくて、小鳥遊はやっぱり目を伏せてしまう。 「しょうがねぇな。ほら、こっち来て」 軽く溜息をついた香野は、立ち上がって小鳥遊の手をとった。 引かれるままに立ち上がった小鳥遊は、そのまま香野にゆるやかに抱き寄せられた。 「なぁ。だめ?好き同士なら、おかしくないだろ?」 「でも、僕は、あの、二つ年上で、バツイチで、えっと……」 「ダメな理由なんて、なんで考えなきゃなんねーの?好き?嫌い?」 「す、き」 「じゃ、難しいことはちょっと置いとこうぜ」 香野は、小鳥遊の顎にそっと指をかけた。 「してもいい?」 小鳥遊の唇が、小さく動く。声にはならないけれど、その唇は香野を待っていた。 香野は、目を細めてその唇にそっと触れた。 幼馴染みの晴希の唇は、柔らかくて、可愛くて、自分より1センチ背が高い。香野の背中に回った腕も、しっかりしている。 なのに、その指先は小さく震えている。 可愛くて、可愛くて、何で今まで気づかないふりをしてきたのか。時間がもったいなくて、仕方がない。 取り返すように、何度も何度も唇を合わせた。 ☆  ひそやかな水音だけがしていたはずなのに、がたっと大きな音がして、小鳥遊晴希が顔をしかめた。 キスを繰り返しているうちに、姿勢が崩れて食卓を蹴ってしまったのだ。 「ああ、痛いよな、それ。こっちおいで」 香野は、足をひょこひょこさせている小鳥遊の手を引いて、ラグに座り込んだ。 「ぶつけたの、どこ?この辺?」 そういいながら、部屋着の裾をまくっていく。 「あの、たいした事ない、よ。ちょっとぶつけただけ、だから」 「うーそ。あざになってるじゃん。ごめんなぁ」 そういいながら、赤くなった脛にキスをする。 「なっ!にしてんの!」 「早く治るように?」 「なんで、そんな……勇也って、そんなんだったっけ?」 「俺、好きな子には、すげー甘いよ?くっつきまくるし。保育園でも、ずっと晴希にくっついてたじゃん」 小鳥遊は、遠い記憶を思い出して、溜息をついた。 そういえば、大きい子クラスと小さい子クラスで一緒に散歩に行く時も、昼寝をする時も、勇也は迷わず晴希の傍に飛んできた。 晴希も、それを当たり前のように思っていた。 別の子のところに行こうものなら、互いに機嫌を悪くして、他の子に八つ当たりをした。 多分、探せば互いの家のアルバムに、一緒にプールに入ったり行水をしたりしている写真もでてくるだろう。 それこそ、記憶がないほど小さい頃から小学校卒業までは、ずっと一緒に過ごしていたのだ。 「あの、何時頃から気づいてた?」 「晴希が俺のことをどう思ってるかは、しばらく自信なかった。幼馴染から、本当は一つも変わってないのかもとも、思ったし」 「じゃあ、なんで……」 「んー、俺が好きになっちゃっただけ。まぁ、言ってみれば、晴希は勝手にここに来てるだけなんだけど、俺、嬉しいんだもん。変だろ?そんなの。でさ、今日あの鉢植え見たら、ずっといてくれるんじゃないかと思って。聞いてみてもいいかなと、思った。うん」 「あれが……」 まさか、何の気なしに持ってきた鉢植えが、そんな風に勇也の背中を押すことになるなんて。小鳥遊は、あまりの事に開いた口がふさがらなかった。 自分が、今まで押し殺してきた気持ちは、いったい何だったんだ。 そう思ったら、腹の奥から笑いがこみあげてきて、肩を震わせて笑い始めた。 「なんだよ。笑いごとじゃねーよ?一応、覚悟決めて、確認したんだから」 「うん。ごめん、そうだよね。勇也を笑ってるんじゃないんだ。僕が、バカだなって、そしたら、おかしくなっちゃって」 「なんで、晴希がバカ?」 「ずっと、態度に出しちゃだめだと思って、すごく気を付けてるつもりだったけど、全部伝わってたんだなと思ってさ」 「なんとなくね。昔から、案外顔にでるだろ?」 「勇也が、上手だつただけだろ?」 「子どもの頃のことなんて、覚えてねーよ」 それから、勇也は晴希の膝にキスを一つして、裾を下ろした。 「ほんとに、俺でいいの?」 「晴希がいい。一応言っとくけど、もう何年も誰とも付き合ってないし、女も触ってないよ」 「あ、の、僕は、その、離婚したんだけど……」 「その辺は、言いたくなったらでいいよ?相手もいる事だから、複雑じゃん」 「ごめん。でも、他には何もない。ほんとうだ」 つい、身の潔白を言い募ると、目を細めて勇也が晴希をじっと見つめていた。まるで、その目で捕まえようとでもするかのような、熱くて強い目で。 「あ、の……?」 「中学生みたいだけど、今日はちゅーで我慢しとく」 「……がまん?」 「いきなり、できないだろ?」 そう答えながら、勇也は晴希の手首を掴んで、ぐっと引き寄せた。 腰に腕を回して、抱き寄せた。 目を丸くしている小鳥遊晴希は、何もできない。 「晴希、可愛いな」 勇也の顔が近づいて、そのまま深く唇が重なった。 初めましてとでも言うように、そっと差し込まれた舌は、丁寧にあちこちを撫でていった。こちらこそと応えるように、晴希の唇が、その舌を吸う。 気の置けない幼馴染は、どちらにとっても、長い片思いの相手だったようだ。 あわされた唇が離れる頃には、恋人と呼んでもいいだろうか。 小鳥遊晴希は、嬉しくて苦しくて、肺が爆発しそうだと思った。

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