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第2話 小鳥遊晴希の秘密

 先週まで、香野勇也は自分の部屋の布団で寝て、小鳥遊晴希は食卓脇の小さなスペースに寝ていた。 でも、今晩は違う。 香野の布団の隣に、小鳥遊の布団を敷いて、二人で並んで寝た。 並んでというのは、少しお行儀が良すぎるかもしれない。 香野が小鳥遊を抱きかかえようとして、小鳥遊が逃げて、後ろからつかまって、そのままくっついて寝た。 どきどきする胸が痛くて、寝られないんじゃないかと思ったけれど、背中にくっついた香野の胸や、腹に回された腕が暖かくて、いつの間にか眠っていた。 目が覚めると、小鳥遊の目には天井が見えた。仰向けになっていたようだ。 隣を見れば、ぐっすり眠っている香野がいた。こちらに背を向けて、小さく肩が上下している。 小鳥遊は、できる限りそっと布団から出た。 香野が起きる前に、身支度をすませたかった。  金曜日の晩に、いつも勝手に来ているけれど、先に寝てしまうことが多い。 そんな時、香野は小鳥遊を起こしたりしない。 必然的に先に起きる小鳥遊は、やっぱり香野を起こしたりしない。 軽い食事の用意をして、メモ書きを残して家を出る。 朝の空気の中を、サンダルを引きずりながら自分の家に帰るのだ。 何が楽しくて、香野の世話を焼いているのかと聞かれれば、元々はストレス解消のためだった。 愛していると思った女性と結婚をして、その関係は失敗に終わった。 結婚生活は続けられなかったけれど、自分が愛情を注げる相手がいなくなったことが、とても寂しかった。 だから、香野からメールの返事が来た時には、本当に嬉しかった。 あわよくば、昔のように打ち解けた友達同士のような付き合いができたらいいなと思った。 たまには、一緒に食事をして、たまには、出張の土産を買うような。 そんな相手になってもらえたら、嬉しいと思っていた。 ぽつぽつとメールを送りあううちに、たまには会おうよということになった。 どちらが誘ったのかも判然としないが、小鳥遊が日程の段取りをつける勇気が出たという事は、香野からそういう話しの振りがあったのかもしれない。 会う間隔が短くなりすぎないように注意して、何度も約束をした。 互いの過去には触れずに、今の事を沢山話した。 仕事の愚痴も、ささやかな成功も、職場での人間関係も、聞いてもらいたい事を気兼ねなくしゃべった。 香野も、営業先での出来事を、面白く聞かせてくれた。 文房具の面白さも、教えてくれた。  小鳥遊は、少し欲が出た。 友達から、もう少しだけ香野の生活に踏み込みたくなった。世話を焼きたくなったといえば、まるでペットを飼うようだが、そうじゃない。 自分を、必要とされたかったのだ。 小鳥遊は、離婚後に住んでいたアパートを引き払って、香野のアパートの近くに引っ越した。 職場には、車で通勤していたので、駐車場さえ確保できれば問題ない。 そして、香野の家に上がり込むようになった。 香野は、歓迎してくれた。小鳥遊の作る食事を、旨いと言って食べてくれる。気を許して酔っぱらってくれる。 小鳥遊は、それが嬉しかった。 少しずつ距離を縮めて、回数を重ねて、とうとう毎週通うようになっていた。 いつから、これが恋になったのだろう。 劇的な瞬間はなかったのに。それとも、大人になると、ふいに自分が恋に捕まっていることに気が付いて、あたふたするものなのだろうか。 小鳥遊晴希には、明確な時期も理由もわからない。 ただ、香野勇也が好きで、彼も自分を好きだと言ってくれたということだけが、はっきりしていた。 ☆  つらつらと、昨日までを思い返しながら、顔を洗ったりポトスに水をやったりした。 多分、今日はこのまま、もう少しここに居てもいいだろう。 寝室に戻って、香野の寝顔をのぞき込めば、まだ眠っている。 そっと、髪をなでてみた。 くせっ毛だけれど、硬くて少しごわついた、男の髪だ。手の平に当たる感触が妙に刺激的で、そっと手をひっこめた。 指の背で、顎をなぞってみた。 薄い皮膚の下に、すぐに骨が感じとれる。シャープな顎から首の曲線が、かっこいい。 「勇也、朝だよ」 小さな声で、呼んでみた。返事はないかと思っていたが、んんんと小さく唸って、寝返りをうった。 顔をこちらに向けて、目が薄く開いた。 「晴希、いる。えらい。良かった」 ずるずると布団の中から腕が伸びて来て、胡坐の小鳥遊の膝を掴んだ。 「今日は、いた方がいいかなと思って。おはよ」 「ん。おはよう。あの、すぐ、起きる、がんばる、から、ちょっとだけ、待って…」 「いいよ。寝てな」 「んんん、がんばる……」 小鳥遊は、膝に置かれた手をそっと布団に戻して、寝室を出た。 いつものように、朝ごはんを少し用意しようと、ヤカンに湯を沸かし始めた。 冷蔵庫を開けて、トマトとベーコンを取り出していると、寝室の襖が空いて、半分ゾンビのような香野が起きだしてきた。 「相変わらず、寝起きはすごいな。そういうところは、子どもの頃と変わらないもんだなぁ」 「かお、あらって、くる」 絞り出すようにそれだけ言って、香野は洗面所に向かった。 寝つきはいいが、寝起きにぐずる。こういうものは、持って産まれた性質なのか。子どもの頃から変わらない。 反対に、小鳥遊は、寝つきは悪いが寝起きはいい。なんなら、目覚ましが鳴る直前に起きる。大人になってからは、その性質で得をすることの方が多い。 ……さて、ベーコンをレンジでかりかりにして、トマトにかけるドレッシングに混ぜなくては。 小鳥遊は、とりあえず手を動かすことにした。 洗面所から戻ってきた香野は、ぐびぐびと水を飲んで、頭をぶんぶんと左右に振った。 「あーーーー。起きた。うん。起きた。晴希、おはよう」 「やっと、目が開いた。おはよう。朝ごはんにするよ」 「はーい」 旨い旨いと、香野は食事をする。 おいしそうに食べるのも、一種の才能だ。小鳥遊は、この「旨い」に乗せられて、毎週ここに来てしまう。 その言葉がある限りは、来ていいんじゃないかと思っていた。 それが、ちょっと状況が変わってきた。これから、僕らはどうしたらいいんだろう。 食後のお茶をと、小鳥遊はコーヒーを入れ始めた。 その背中に、香野がぽつぽつと話しかける。 「あのさぁ。あの、昨日のこと、覚えてる?よな?」 「覚えてるよ」 「この年になると、なんか、『付き合う』っていうのも、変な感じなんだけど、その、さ。晴希が嫌じゃなかったら、俺のになってよ」 「俺の?」 コーヒーを入れたマグカップを食卓に置きながら、小鳥遊は真顔で聞き返した。 あれ?と香野の眉が、情けなく下がる。 「あ、の、だから、俺ら、好きあってるって、なったよね?昨日」 「……うん」 「だから、あの、晴希のこと、幼馴染だけじゃなくて、俺の恋人、だと、思ってもいい?」 「昨日は、あんなに強気だったのに、今日はずいぶん腰が低いな」 「なんだよ。晴希だって、昨日はあんなに赤くなって可愛かったのに、今朝は余裕じゃん」 「んー……余裕なわけじゃないんだけど。勇也は、昔の僕と、今の僕しか知らないだろ?高校からまた会うようになるまでの、10年くらいのこと」 「まぁ、そうだけど。それ言ったら、晴希だって、同じ10年分、俺のこと知らないじゃん。これから、穴埋めしてったんじゃだめ?」 「そういう間柄になってからって事か。順番、は、気にしなくていいのかな。10年分を知ったら、幻滅するかもよ?」 「5歳や6歳の頃をお互い知ってるのに、何を今更。あれより恥ずかしい時期なんて、なくない?」 「そっか。そういうもんかな。じゃ、そうしてみようか」 ぎこちなかった小鳥遊の表情が、ふっと緩んで、笑みがこぼれた。香野は、やっとほっとして、大きく深呼吸をした。 「晴希、好きだ」 「……あ、の。僕も、好き、です」 照れた小鳥遊は、赤い顔で、マグカップをにらむことしかできなかった。  照れ笑いと甘やかな視線が、食卓の上を交差する。 朝の早い時間には、少々色っぽすぎる。小鳥遊は、すいと立ち上がって、マグカップを洗った。 「話しもできたし、一度家に帰るよ」 「は?なんで?これからじゃん!」 「えっと、まさかこんな事になるとは思ってなかったから、家の中放ったらかしなんだよね」 「んー、じゃ、俺も一緒に行く」 「え!?だから、家の中、ひどくて」 「晴希の家が、ひどいってのが想像できない。いつも、こんなにきれいにしてくれてるのに。掃除が必要なら手伝うよ。いつものお返し」 「いや、でも、ほんとにひどいから」 「大丈夫。晴希がここに来るようになった頃の俺の部屋、思い出してよ?ひどかっただろ?みんなそんなもんだよ」 さぁ、行こう行こうと、香野は支度をしはじめてしまった。 小鳥遊は、小さく溜息をついて、さっそく自分の粗を見られる状況に肩をおとした。  徒歩5分程度の距離だからと、小鳥遊だけでなく香野も、着慣れた部屋着とサンダルで家を出た。 「ほんとに、ひどいからね?」 何度も念押しする小鳥遊に、香野は呆れ顔だ。 「そこまで言うなら、一応覚悟しとく」 小鳥遊は、伝わっていないと溜息をつく。しかし、伝わらないのも無理はない。今の家に住んでから、自分の部屋に香野を呼んだことはないし、子どもの頃はお片付け上手で通っていたからだ。 どうしようかと悩む間もなく、アパートについた。 しぶしぶ鍵を開けて部屋に入ると、後から入ってきた香野が、声にならない声をあげていた。 振り向けば、目を丸くしている。 「……だから、言ったろ?」 「ひどいっていうより……なんか、こう、荒んでる?」 ああと納得して、小鳥遊は首をたれた。そうだろう。荒んでいるだろう。自分の部屋なんて、どうでもいいんだから。 小鳥遊は、少々ぶすったれた気分で、玄関から入ったすぐの場所で立ち尽くしていた。 そのすぐ横をすり抜けて、香野が部屋の中に入った。 「なぁ、窓開けるよ?」 そう言って、カーテンレールにひっかけっぱなしのハンガー類を外して、カーテンと窓を開けた。 玄関脇の小窓を開ければ、風が抜ける。 そのまま、香野は、スーツや洋服がかかったままのハンガーをクローゼットにかけなおし、吊るされたままの洗濯物を、はずした。 「晴希、これ、しまえ。あと、掛け布団干すぞ。」 「いいんだよ。僕のとこなんて」 「なんで!?俺のとこで、してくれてることと、違いすぎんだけど」 「勇也のとこは、きれいにするよ。きれいにしたい。でも、ここなんて、どうでもいい」 「……晴希。なんで?何があった?」 小鳥遊は、唇を噛んでそっぽを向いたまま、答えない。 「んー、じゃ、理由は今はいいや。とにかく、この部屋をきれいにするか、俺の部屋に帰るか、どっちかな」 「どっちか?その二者択一なの?なんで?」 「こんな、荒れたとこに晴希を置いてくの、嫌だから」 ついでに、冷蔵庫も見せろと、狭い台所の小さな冷蔵庫を開けた。 案の定、酒と水以外、何も入っていない。 「晴希、もしかして、ここでは料理しない?」 「しないよ。食べる人もいないのに、何で手間暇かけて作るんだよ」 「もしかして、俺と飯食う意外は、全部外食?」 「っていうか、弁当屋かコンビニ」 「……そんな…って、煙草?」 台所の隅に置きっぱなしの、煙草とライターを見つけた。香野の煙草と同じ銘柄だ。 「ああ、それは…」 「吸うの?見た事ないけど!?」 香野は、知らなかったことばかりが目の前に展開して、思わず問い詰めるように聞いてしまった。 押し黙った小鳥遊は、眼を伏せてぎゅっと握った右手の手首を、左手で強く掴んでいる。 香野は、小さく息を吐いた。 「俺の家に帰ろう?決定。今日も俺ん家に泊まれっていうか、俺のとこに来て」 「……そ、んな、簡単に、は、いかないだろ」 「ダメじゃないだろ?」 小鳥遊は、やはり黙って答えない。ただ、握り込んでいた右手を緩めて、開いたり握ったりを繰り返している。 「じゃ、俺のために来て。俺が、心配のあまり具合悪くなったら困るから。な?」 「……わかった」 「で、その前に、本当に少しなんとかしよう。こんなの、何か嫌だ」 香野の根気に、小鳥遊が負けた。小さく溜息をついて、やっと顔を正面に向けた。 「わかったよ。布団も干すし、洗濯物も片づける。掃除もしたいけど、いい?」 良かったと、香野がにっこり笑った。それから、小鳥遊の頬に手を添えて、反対の頬に小さく口づけた。 小鳥遊は、ぼわっと音がするかと思うくらいに、顔が赤くなった。 その顔を隠すように下を向くと、小鳥遊の手がまた、グーパーと繰りかえしていた。 「こういうの、困る?」 「こういうの?」 「その、キスしたり」 「困るっていうか、照れる…」 目尻を赤く染めた小鳥遊が、香野の目を盗み見る。香野は、今更のように照れ臭くなって、掃除をしようと手を離した。  小鳥遊は、冬物も夏物もごっちゃになっているクローゼットの中身をざっくり振り分けて、カーテンレールにかけっぱなしのスーツをきちんとしまった。 吊るしっぱなしの洗濯物も、引き出しにしまった。 香野は、風呂掃除を引き受けた。ついでに、ゴミも大袋にまとめた。 あちこちきれいになったら、やっぱりすっきりした。空気が、きれいになったような気がする。 「これで、良しっと。でさ、晴希」 「ん?」 「今日はまだ土曜日なんだし、俺ん家に帰ろ?で、泊まろ?」 「今週は日曜も休みだから、まぁ、いいんだけど、なんか、なし崩しなのは、ちょっと…」 「あー、そこか。でも、いきなり一緒に住むわけじゃないし。それに、ほら、もう少し知り合わないと」 香野は、小鳥遊の肩に腕を回して、顔をのぞき込むようにして、たらしこむ。 小鳥遊は、仕方がないなと、苦笑いを浮かべる。 「わかったよ。ちょっと待ってて」 もう、断る理由がない。小鳥遊だって、香野ともう少し一緒にいたい。必要なものを少しまとめて、スニーカーに履き替えて一緒に家を出た。  さっき来たばかりの道を、二人で戻った。 香野の横顔をそっと見れば、機嫌はよさそうだ。 小鳥遊は、ほっとしつつも、急展開についていけない気もしていた。なんとなく、呼吸が浅い。嬉しいというよりも、困っている。 あんな部屋を見て、勇也はまだ自分が好きなのだろうか。泊まっていけと言うけれど、深い意味はないと思ったほうがいいのだろうか。 昨日は、ただ寄り添って眠った。 そのつもりなら、それでいい。それでいいけれど、もしそうじゃなかったら。 果たして、自分と香野がどうなるのか、さっぱりわかっていない。 そういう事も、そのうち話しができるだろうか? 帰り道は、たった五分の道のりだ。その間に、高速で考えて考えて、考えた。そのくせ、何にも答えは浮かばないうちに香野の家に戻るはめになった。 小さく溜息をつく小鳥遊を、香野は複雑な顔で、見つめていた。

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