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第13話 小さな天国

 ドライブの行き先に、ここはどうだろうかと画像がメールに添付されてきた。 香野は、その画像を見て湖の色に驚いた。こんな色の湖があるのか。名前だけは知っていた。湖があるらしいことも、なんとなく覚えはあった。でも、こんな色をしているなんて、思いもしなかった。 是非、ここに行ってみたいとメールの返信をした。それから、山と湖について少し検索してみた。 ……そっか、活火山なんだ。生きているっていうと変だけど、でも、なんかそんな感じがするんだよな。 香野は、火山から吹き出す溶岩とその熱さを思い浮かべる。そして、やはり連想は小鳥遊に行きつく。 普段は、穏やかで静かで怒ったりもしなくて、周囲に気を配って暮らしている。そして、エネルギーが臨界点まで達する頃に、自分の元に帰ってくる。小鳥なんて、可愛いもんじゃない。静かで、熱くて、情が深い。温泉かけ流しだな、なんて呑気に考えていたけれど、案外活火山なのかもしれない。このきれいな湖の側まで行ったら、どんな風に感じるだろうか。 休憩室での煙草も、二本目に火を点けて、スマホをポケットにしまった。ふーっと煙を吐き出して窓の外を見上げると、高い高い秋空にすじのような細長い雲が浮かんでいる。しばらく晴天が続くだろう。こういう事は、先延ばしにすると実現しない。早めに計画を立てようと、もう一度スマホを取り出して、日程相談のメールを作り始めた。 ☆  夜、小鳥遊から電話がかかってきた。 「今、平気?」 「平気。日程?」 「うん。勇也の言う通り、さっさと日程決めたほうがいいなと思って。山は道路の冬季閉鎖もあるから、うっかりしてるとすぐ行けなくなるんだ」 「え?そんななの?あー、じゃ、もうすぐ行こうよ。今週末でもいいくらい」 「土曜の早朝に出ないと、渋滞すごいと思うんだ」 「早いって、どんくらい?」 「んー、5時とか?」 「……お、おう。早いな」 「勇也は、助手席で寝てたらいいよ。途中のSAで朝飯食ったらいいし」 「それはいいけど、かなり早く着く?」 「渋滞なしで、3時間半くらいかかるから、休憩入れて4時間だろ?で、山とか湖とか見て、散歩して、早めの昼飯食って、早めにでれば、夕方には戻ってこられる」 「ああ、帰りの渋滞もあるのか」 「あると、思う。運転は慣れてるけど、渋滞を楽しめるほど、車が好きなわけじゃないしな」 「了解。頑張って起きるっ!」 「期待しないでおくよ。起きなきゃ、蹴り飛ばすだけだ」 「起き抜けに蹴るのは、やめて」 しょうがないなと、電話の向こうで小鳥遊が笑っている。その楽しそうな様子に、香野の顔も自然に綻ぶ。 「それにしても、すごい色だな」 「だろ?きっと、すごくきれいだと思うんだ。この水の縁に立ってみたい。世界にお前と俺の二人しかいないような、そんな感じになる気がするんだ」 「二人?」 「すっごくきれいな場所に、二人でいたら、天国に行ったみたいな気がするんじゃないかなって」 「……晴希?え?なんで?ずっと一緒にいるんだろ?ちょっ…すぐ、そっち行く!家にいるんだろっ!待ってろ動くなっ!」 電話は、乱暴に切られた。 小鳥遊は、呆然としていた。俺は、今何かまずいことを言っただろうか?湖がとてもきれいで、一緒に見たいというような事を言っただけだと思うけれど。 首を傾げて、会話を思い出しているうちに、玄関の鍵が開いた。 「晴希っ!」 ばたばたと家にあがりこんできた香野は、怒ったような焦ったような顔をしている。寒空の中を急いで走ってきたようで、肩を息をしている。 「……あ、の、勇也、ごめん。俺、何かまずい事、言った?」 「や、だって、天国って」 「え?……あ……」 自分の言葉を思い出して、驚いたような顔をしている小鳥遊に、香野は、ほっと安堵の息をついた。 「なんだよ、驚かせんなよ」 がくりと膝をついて、小鳥遊の体を抱き寄せる。 「……ごめん。言葉が悪かった。死にたいわけじゃないんだ。すごくきれいな色をしてるみたいだから……、二人でいても、誰にも咎められないようなとこに、行けそう、かなーなんて」 「咎められないところ……?」 香野は、よくわからないという顔をしながらも、小鳥遊の頭を抱き寄せて髪にキスをする 「ごめんって。死にたくないし。巻き添えにもしないし」 「巻き添えになら、なってやる。なって、そんで、お前を取り返す。死なせたりしない。晴希と一緒に、意地でも天寿を全うしてやる」 自分の不用意な言葉で、香野をこんなにも慌てさせてしまった。小鳥遊は、深く反省していた。 それと同時に、自分はなんて甘やかされているのだろうと、うっとりする。香野が、怒ってくれて抱きしめてくれる。お前が大事だと叫んでくれる。嬉しくて、つい余計な事を言ってしまう。 「お前…さ、ほんとにいいの?…っつったって、今更そんな、お為ごかしみたいなこと言ってもだめだよな」 「そうだよ。俺たちは、もうずっと一緒にいるんだ。ずっと」 「勇也のおばさんに、申し訳ない」 「あー、そこは申し訳ないけど諦めてもらう。そのうち、幸せぶりを見せつけてやる」 「あの、ほんとにごめん。勇也の気持ちを試そうとか、そういうつもりはなかったんだ。その、良い事ばっかりのところに二人でいられたらいいのになって、そんな位のつもりだったんだ」 「ああ、そっちか。俺も、早とちりだな。まぁ、でも山の頂上で湖なんだから、勘違いしたのも、無理なくね?しかも、活火山だし」 「ごめん…って、活火山?」 「だったよ?調べたら」 「富士山みたいな、休火山だと思ってた。そっか、活火山か。あー、ほんとにごめん。悪かったよ」 香野は、苦笑いをして小鳥遊の頭をくしゃくしゃと撫でた。申し訳ないと眉毛を下げていた小鳥遊も、安心したようにふふっと笑ってくれた。 やっと落ち着いた香野は、せっかく来たのだしと部屋のぐるりを見渡した。確かに、以前来た時よりも、きちんとあちこち整頓されている。生活の跡がちゃんとあって、ここで暮らしているという事が、わかる。それにしても……。 「晴希、もう遅いから、俺帰るけど」 「あ、そうだよな。こんな時間にダッシュさせて、ほんとにごめん」 「いや、そこはもういい。それよりさ、やっぱり、やっぱり、一緒にとは言わないからすぐ近くに住もう。な?」 香野は、自分の物言いが、小鳥遊には重いだろうとわかっていても、言わずにはいられない。背中に腕を回して、その体を強く抱き寄せずにはいられない。 「……勝手で、内弁慶で、甘ったれで、ほんとは面倒くさがりで、優しくなくて、淋しがりで……」 「俺が好きで、可愛いくて、すっごくきれいなんだよ、晴希」 「勇也、お前、バカだな」 「そうだよ。晴希が、いてくれなきゃ、ダメなんだ」 「湖、見に行こうな」 「うん。晴希、今日、泊まってっていい?」 「お前、朝弱いんだから、ダメ」 「えー」 「俺が、行く」 「え?」 「支度するから、離せ」 香野は、小鳥遊の背中に回していた腕を解く。 立ち上がった小鳥遊は、パタパタと立ち働いて、泊まる準備を済ませた。 「行くぞ」 香野も、急いで立ち上がる。 「ちゅーしていい?」 「ダメ。あっち行ってから」 香野は、にやりと笑って小鳥遊の頬にキスをした。 歩いて、数分。二人は寒空の深夜近くに、香野の家に戻ってきた。 香野は、約束通りにキスをもらった。もう少しと抱き寄せようとしたら、するりと逃げられた。 「せっかく家に帰ってきたのに……」 「平日に何考えてんだ。寝るぞ」 こういうそっけなさは、相変わらずのようだ。ただ、布団を並べて横になると、小鳥遊の目尻が甘くさがって小さくありがとうと言っているような気がした。 その目に免じて許してやるかと、香野は深呼吸をして眠りについた。 翌朝、香野は電話で起きた。 もう自宅に戻っていた小鳥遊が、電話をかけて来ていたのだ。 「何回鳴らせば起きるんだよ。ほら、おーきーろー!」 「わかった、わかったよ、おはよう、晴希」 「ちゃんと仕事行けよ。じゃあな」 そっけなく電話は切られたけれど、小さく笑ってくれた声が聞こえた。 ☆  山には、車で登れるように道路が整備されていた。山道の所々に立っている標識兼温度計を見れば、どんどん気温が下がっていく。 事前に調べておいたとはいえ、ちゃんと厚手の長袖を持ってきておいてよかった。 「晴希、上着足りなかったら言えよ」 「うん。一応余分は持ってきてるけど、かなり気温低そうだね」 駐車場に車を止めて、一歩外に出ると、その気温に身が引き締まる。 「さっむっ!!!!」 香野は、一声大きく叫んだ。 「さすがだなぁ。冷える」 「あ、でも日向にくると暖かい」 「太陽ってのは、偉大だね」 「なぁ」 二人は、気温についての感想を口々に言いあいながら、頂上に向かって歩いて行った。 その道も、きちんと整備されている。まったくの普段着にスニーカーで、問題ない。山登り感がまるでない分、平地との気温の差に驚く。 「あ、晴希、あっち」 香野が、看板を指さした。 二人は、走ってその看板のすぐ下に立ってみた。 すると、眼下にすり鉢状の下り坂と丸い青緑が広がっていた。それは、写真でみた湖とは似て非なるものだった。 「……これ」 「……すげぇ」 観光地とはいえ、まだ朝早い。人影もまばらで、二人の視界を遮るものはないに等しい。 「晴希、もうちょっと、行ってみる?」 小鳥遊は、無言で頷いた。そして、香野の腕をぎゅっと握って、すぐに放した。 「行こう」 香野は、小鳥遊の目を見てそう言うと、大股で坂を下り始めた。 徐々に湖が近づいて、動かない大きなタイルのようだった青緑は、大量の水の塊だという事を実感できてきた。 風が吹けば、小さく波立つ。 火山の匂いと、硬い岩。底の見えない水は、陰になれば緑が濃くなり、日が当たればトルコブルーに輝く。 「勇也」 「ん?」 声のするほうに視線を向ければ、小鳥遊が赤い目で自分を見つめていた。香野は、どうしたのかと一歩距離を詰めた。 「どした?」 「いや。なんでもない。一緒に来てくれて……」 ゛ありがとう”の言葉が、声にならない。でも、涙の浮かんだ目じりを見れば、香野にはすぐわかる。本当は、抱き寄せてやりたい。頭を撫でてやりたい。あの涙にキスをしたい。 体は、いつだって不自由で、もどかしくもままならない。けれど、心はいつだって自由だ。ある時は視線に乗せて、ある時は指先に乗せて、互いの気持ちを伝え合う。明るい太陽の下でだって、誰にも邪魔はされない。 今も、ただじっと一緒に湖を見ているだけで、きっとちゃんと満たされている。 ふいに、小鳥遊が香野に背を向けた。 「ぐるっと、歩いてみよっか?」 腕をあげて示す先には、湖をぐるりととりまく遊歩道がある。 「おう。一周してみようぜ」 香野は、はっきりと声に出して返事をした。大きく一歩を踏み出して、小鳥遊の背を叩いて、先に行くぞとけしかける。小鳥遊も、遅れてはならじと追いかけてくる。二人は、はしゃぎながら競争するかのように、湖の周囲をぐるりと回った。 寒かったはずなのに、汗をかいて息を弾ませて、太陽の下に正直に仲の良さを晒した。きっと老夫婦や家族連れには、親友同士のじゃれあいに見えただろう。二人の心の自由は、誰にも奪えないのだから、それでいいのだ。 「暑っつ…!お前、走るなよ」 「晴希、いがいと、早いな…」 肩で息をしながら、互いの健闘を称えあう。そこには、楽しさと心地よい疲れと、大きく開けた空があった。草地なら、寝転びたいくらいだ。 それから、二人は老夫婦の記念撮影をかってでたり、家族連れに落とし物を届けたりして、車に戻った。 予定通り、山の中腹にある大型のレストランに向けて移動することにしたが、小鳥遊は、途中で少しだけ寄り道をした。 ちょっとだけ山道を走って車を止めると、他人目を盗むように触れるだけのキスをした。 「晴希……」 驚いたように、香野が小鳥遊の目を見つめる。少し不安気に、目じりが下がっている。香野は、にっこりと笑ってみせた。 「すっげー、可愛いのな、晴希」 それから小鳥遊の頬に手を添えて、反対側の頬にちゅっとキスをした。小鳥遊は、珍しく素直に嬉しそうに目を細めた。それから、少し名残を惜しむように、車を出発させた。 「名物にも、旨いものがきっとある」 前を向いて、楽しみだというように、そう言った。 ☆  食事をすませた帰り道。県境のSAに、立ち寄った。車の外に出た二人は、駐車場から辛うじて見える山の稜線を、指でたどった。 「また、こうやってどっか行けるかな」と小鳥遊が呟いて、「行くに決まってんじゃん」と香野が答えた。小鳥遊は、「そうだね」と、にっこり微笑むだけで良かった。小さな希望も不安も全部香野が受け止めて、それは約束や安心になって帰ってくる。そういう繰り返しが、これからも続くのだ。 「じゃ、こっから俺が運転な」 そういって、香野は運転席に座った。 「久しぶりだから、安全運転ですっ!」 「のんびり帰ればいいよ。まだ時間も早いし」 「晴希、寝てていいよ」 「え……。じゃ、そうする」 シートを倒して、小鳥遊は目を閉じた。車の振動と、香野のかけた音楽と、囁くような歌声に誘われて、いつの間にか深く眠ってしまった。 気が付けば、車は見慣れた角を曲がるところだ。 「あ、れ?もう家の近く?」 「そう、渋滞なかったから、一気に帰ってきた」 「そっか。えっと、どっか寄りたいとことかなかった?」 「山も池も、見たじゃん」 「湖な」 ぼんやりする頭で、香野の物言いを訂正しているうちに、車は駐車場に止まった。 「晴希、帰るぞ」 「え、じゃ、あ、また来週……?」 「あほか、んなわけあるか。俺ん家に、帰るぞって言ってんの」 小鳥遊は、ぽわんと顔を赤くして、だまって頷いた。 「アパート行く前に、コンビニ寄るか。何か食い物と飲み物買おう」 それにも、小鳥遊は黙って頷いた。目じりがほんの少し下がって、何か言いたそうに唇が動く。香野は、その顔が、何を待っているか知っている。 「じゃ、行こう。俺んとこ」 二人は、車を出て歩き始めた。 ☆ 小鳥遊が、勝手知ったる他人の台所でヤカンの湯を沸かしている間に、香野は風呂の支度をしていた。 寒かったから、温まろうというのだ。 小鳥遊は、抵抗せず、笑って逃げたりもしなかった。香野が、そう言うなら、その話に乗ることにした。 もし、引っ越すなら、もうすこし風呂の大きいところが良いななんて思うくらいには、たらしこまれている。 香野が戻ってきたら、さきにコーヒーを渡そうか。それとも、首に腕を巻き付けてみたらどうだろうか?驚いて、それから悪い目をしてくれるだろうか。 ヤカンの湯をコーヒーフィルターに注ぎながら、少々恥ずかしい想像をしていると、ヤカンを持つ手に手が重なった。 「それ、そのままでいいよ」 ああ、先にやられた……。 ヤカンは五徳の上に戻されて、小鳥遊の体はくるりと反転させられた。 目の前には、自分をじっと見つめる愛しい男。 「晴希……」 このままじっとしていれば、小さく触れ合って、それから隅々まで一つになってしまう。そんな予感に、小鳥遊の唇が小さく震えた。 その唇が、暖かく包まれるのと、自分の腰が抱き寄せられるのと、どちらが先か。小鳥遊には、よくわからなくなってしまっていたけれど、順序などどちらでもいいのだった。 ここでは、心も体も自由なのだから。 __終__

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