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ケニモハレニモ1

 丁寧に糠を洗い落とした一本のキュウリ。やや形の悪い弓なりのそれをまな板に置き、包丁を入れる。しなやかな手応えと共に、すとん、と刃が落ちる。 ヘタを除き、厚めに切った一枚を口に運ぶと、最初に強い酸味が広がり、塩辛い後味が残る。  決してまずくはない。  が、一ヶ月手をかけている糠床だというのに、いまだに味が安定しない。毎日かき混ぜればいいくらいに思っていたが、糠漬けとはそう簡単なものではないと知る今日この頃だ。 「まあまあだな……」  言い訳するような気持ちで呟く。ちらりと見やった時計は、八時になろうとしている。ずいぶんゆったりとした朝であるなと、まだ少し慣れないでいるのが本音だった。  午前七時起床は変えずにいようと思っていた。A.M.7:00という文字列そのものにこだわりがあるわけではなく、そもそもは出勤時刻から逆算して導き出された起床時刻でしかなったのだが、努力によって長年維持した規則的な生活サイクルは、崩すより維持するほうが有益だと考えている。  出社という行為と無縁になって一ヶ月経ったが、変わらず七時に起きている。  A型気質と、言いたいなら言えばいい。血液型判断という地球上で最も悪質な人間差別に関して、どれだけ理論的に否定しても……いや否定すればするほど、A型認定が確実なものとなるばかりなのには辟易していた。  ヒュー、と、古い笛吹きケトルがか弱い音を立てる。  晴美(はるみ)はつまらない物思いを絶ち、コンロに手を伸ばした。か弱い笛音が、やはり弱々しく鳴り止む。熱くなった取っ手を布巾で包み、熱湯を急須に注ぐ。ふわりと漂う香ばしい番茶の香りが好きだ。  在職中から、朝食を抜いたことはほとんどない。  以前はパンとインスタントコーヒーで簡単に済ませることが多かったが、あくまでその頃に比べれば、少しはバリエーションが増えてきた。今朝のメニューは――メニューと言うほどではないか――白米に生卵、わかめの味噌汁、キュウリの糠漬け、三日目の筑前煮だ。セッティングした粗食の前に座り、手を合わせる。いただきますと口の中で唱え、茶碗を掴んだ。   鷲津晴美(わしづ・はるみ)、三十五歳と三日。元・証券アナリスト、現・デイトレーダーもどき。誕生日の一ヶ月前、四月一日付けで退職し、現在は主に早期退職金を食い潰しつつ、株の売買をしつつ、生活している。休職中と言おうか、求職中と言おうか。  簡単な朝食を済ませ、食器を洗い、一日一度かそれ以下の頻度でしかする必要のない一人分の衣類を洗濯機にかける。しばらく稼働音をに耳を傾けていたが、いつの間にかそれにオーディオから流れるFM放送が混じる。  決して不愉快なものではない。  九時台から十時台への変わり目に流れるお決まりの交通情報も、今の自分には情報を持たないただのBGMだ。南向きの部屋は、春らしいというにはきついくらいの日光をたっぷりと湛えている。  昨夜届いたまま梱包を解かないでいた、通販のダンボール箱を開けていた時だった。  被せるように二度、インターホンが鳴る。  来客の予定はない。セールスか何かだろうと思いながら、膝に乗せていたダンボールを退かして立ち上がる。サンダルに片足を突っ込んでドアスコープを除くと、軽装の男が映っていた。ぱっと目に入ったのは、淡く鮮やかな黄色のTシャツ。その上に、若い男の顔が乗っかっている。 「―――有坂(ありさか)?」  思わず疑問形になったのは、元部下の見慣れない私服姿に戸惑ったせいだ。開けたドアから聞こえてきたのは、予想外の再会への驚きを帳消しにする程度には耳馴染のある、快活なテノールだった。 「ご無沙汰してます、室長」  それはかつての役職名であり、今の晴美にはふさわしくない。 「もうお前の室長じゃないだろ?」  とは言え、つまらないことを諌めてしまったろう。 「どうした?仕事は?」  怪訝に出迎えた元上司に、元部下は屈託なく破顔し、軽く頭を振った。 「噂通り、ほんっとに隠遁生活なんですね。世の中ゴールデンウィークですよ」 「あー……ゴールデンウィーク」 「ゴールデンウィーク」  おうむ返しにおうむ返しを重ねて、有坂が頷く。 「……まあ、入んなさいよ」  促す晴美にもう一度軽く頭を下げ、彼はサンダル履きの足で一歩、こちらへ踏み込んだ。   「このマンションって、築何年ですか?」 「んー、十年越えてるだろうな。俺が入居してからは、三、四年」 「もっと、超高級マンションに住んでるのかと思ってました」 「チョーコーキュー、ねえ」  特に、付き合いの浅い関係ではなかった。晴美は新入社員であった彼の最初の上司であったし、よく呑みにも行ったし、まるきりプライベートの話をしなかったわけでもない。互いの部屋を訪れる機会こそなかったが、同じ沿線上に住んでもいた。退職の日、他のメンバーがそうだったように、彼もまた目に涙を浮かべて送ってくれた。と言うよりも、一番惜しんでくれたのが彼だったのではないか。 「鷲津さんのラフな格好って、初めて見たかも」  差し障りのないコメントを、肩越しに聞いている。コットンシャツにイージーパンツという姿だ、そりゃ、ラフくらいしか表現のしようがないだろう。 「家でくらい好きな格好させてくれ」 「かっこいいすよ」  振り返ると、ひげ伸びましたね、と、きれいに剃刀の当てられた自らの顎を撫でながら、有坂が笑っている。 彼もまたスーツ姿ではなく、アースカラーのTシャツ、浅履きのジーンズと革サンダル、自然に任せた髪型も見慣れない、ごくごくラフな姿をした一人の青年だった。  久しぶりにこの明るい笑い顔を目の当たりにし、久しぶりだなあと改めて感じるにつれて、反作用的に時間が巻き戻ったような感覚に陥る。そう、それまで毎日のように顔を合わせていた人間の一人である彼と、退職日から一ヶ月と三日、一度も連絡を取らなかった。携帯メールのアドレスも知っているが、女子高生でもあるまいし、「今なにしてる?」なんてメールを送り合う趣味はお互いないということだ。 「はー、きれいにしてますね」 「いいよ、無理やり評価ひねり出さなくても」 「や、ほんとに。さすが鷲津さんって感じで……A型っぽいなぁ」  おそらく顔に、「ムッ」という文字が浮かんだのだろう。失言を悟った有坂が、上目遣いにちらりと舌を出す。 「すいません」  悪びれないO型め。晴美の血液型迷信嫌いは、良く知っているだろうに。 「あ、その本買ったんすね。読んだら貸してください」 「読んだらな」 「俺、アマゾンって、ついお急ぎ便にしちゃうんですよね」 「あー、あれな、意味ない時あるよな」 「そうなんですよ」  梱包材を剥いたばかりの書籍を手に取り、しげしげと見ている。  招いたわけではない客だ、今朝の番茶の出がらしを淹れてやろうかと考えたが、自分も飲むのでやめておく。 「座ったら?」  大人しく椅子に腰掛けた有坂の前に、淹れ立ての番茶と、今朝の残りの糠漬けを出した。 「何すか?糠漬け?手作り?」 「うん」 「へー、すげー……。いただきます」 「どーぞ」  ひょい、と口元に運ばれたキュウリが咀嚼される瞬間を狙って、 「ちょっと漬けすぎてね」  先制しておく。一、二度噛んだ程度でごくりと飲み込み、番茶を啜った後、そ知らぬそぶりで有坂は述懐した。 「俺は、このくらいしょっぱいのが好きですね」  先制のタイミングと方法、そもそもお茶請けの選択を間違えたことに、気付かないふりをしてもよかったのだが。 「有坂」 「はい」 「糠漬け嫌いだろ」 「嫌いじゃないです、苦手なんです、克服します」 「負けず嫌いだよなぁ」  相手の嫌いな物を勧めてしまった申し訳なさより、子供じみた負け惜しみの可笑しさが勝る。晴美は小鉢を引き寄せ、処分のチャンスを逃した余り物の糠漬けを、再び冷蔵庫に戻すことにした。 「……で、有坂」 「はい?」 「何しに来たの?」  さて、と。改めて向かいに座り、本題を切り出したつもりだが。きょとんとした顔をされてしまう。 「用がなきゃ、来ちゃいけないんですか?」  有坂のわずかに傾げた首の角度につられ、晴美の首も傾く。 「いや。用があって来たと思ったから……てっきり、さ、仕事のこととか」 「去る者は追うなって、鷲津さんが残した言葉でしたよね?」 「おう、言った」 「室長の最後の命令は、ちゃんと覚えてます」 「命令じゃなくて、お願いだぞ」 「でも、おっしゃるとおり、俺はもう鷲津さんの部下ではないわけです」 「まあ、そりゃそうですな」  左から右に首の傾斜を切りかえながら、用件を質しても、もう部下ではない男は以前ほど従順ではなかった。 「なので、ここに仕事の話を持ち込むつもりはないです……んで、これ手土産」  話題を逸らしながら身体も反らし、有坂は足元から小さな紙袋を持ち上げる。テーブルに置く動作も、仕事の話ではないと証明するような、気軽なものだ。かさりと軽い音を立て、紐製の取っ手が重力に従って落ちた。 「何?」 「ケーキ。誕生日おめでとうございました」  正確な過去形。三日前に歳をとった晴美に贈るのに、間違った言葉ではない。 「え?あれ?それが用件?」  不意打ちを食らった、というのが一番近いだろう。裏返った声は、発してしまったら取り戻しようがなかった。有坂の顔には、やはり快活な笑みが弾けるように広がる。 「だったらどうします?」 「いやいやいや。ないだろ」  三度重ねた否定のフレーズも、明るく刻まれた笑い皺を深める効果しかないらしく。 「……茶を淹れなおそう。んー、コーヒーがいいか」  腑に落ちない気分で、晴美は椅子から立ち上がった―――この男は、まさか本当に、気まぐれに元上司を訪ねただけなのだろうか。そのきっかけにたとえば晴美の誕生日があったとすると、五月一日という非常に覚えやすい日付であることを除いても、こそばゆいことこの上ないではないか。  軽く再沸騰させた湯でインスタントコーヒーを淹れ、適当な皿とフォークをチョイスする。箱の中に入っていたのは、断面にもぎっしり苺の詰まったショートケーキだった。 「室長」 「ん?」  うっかり返事をしてしまったのは、向かいの光景、迷いのない速度で刺し抜かれた一番上の苺に気を取られていたから。 「じゃなかった。鷲津さん。なんで会社辞めたんですか?」  二等辺三角形の最も鋭角な部分を削ぐようにすくい、生クリームを味わうことを優先させたのは、なにも答えづらい質問をされたからではなく、賞味を優先させたくなる程度には魅力的な外見のショートケーキだったから。外見を裏切らない、こくのあるクリームだった。 「ん。何度も説明しなかったっけ?」 「……何度も聞きましたけど」  退職まで、決して容易ではなかった。遡れば、五年も前からになる。そもそもは三十歳をきっかけに独立するつもりだったのが、それを阻止するかのごとく新設された部署の室長に任命され、とりあえずは軌道に乗るまでと五年かけて組織を作り、上司から部下まで説得して回り、三十五歳を控えた今年の四月にようやく果たした退職だ。晴美の意思は固かったが、有坂は特に、納得させるのが難しかった人物だ。何度も、というのは、比喩でもなければ大げさでもない。  飾りを失ったショートケーキを更に惜しみなくフォークで切り取り、てゆーか、と呟く彼の口調は妙に幼かった。 「本当にいなくなってみると、穴が、ものすごくでかいです」 「仕事の話はしないんじゃなかったっけ?」  可笑しな気分で混ぜ返した晴美に、反論するトーンは茶化すものではない。 「……てゆーか。主に、心の穴ですかね」 「たかだか五年、お前らの上で偉そうにしてただけだよ」 「その五年が、俺の全部ですよ」  有坂拓馬(ありさか・たくま)、二十七歳。  新卒社員として晴美の下に配属され、晴美が退職するまでその直属の部下であった男の言葉は単純な事実で、それを否定することも撤回させることも、確かに自分にはできない。優秀な部下だったと言い切れる男だ。ちらつく罪悪感と沈黙をごまかすためには、ケーキを噛み砕いてコーヒーで流し込む一連の動作はちょうどよかった。 「お前、彼女いなかったっけ?」  沈黙の限界に押し出された問いかけは、話題転換の題材として適切だったかどうかはわからない。 「どういう意味ですか?」 「この大型連休のど真ん中に、俺と向き合ってケーキ食ってるお前が気の毒で仕方ない」  要求したのはつまり、話題を変えたい晴美の意図を有坂が汲むことで、それを察したのだろう彼は、明るく破顔した。 「だいじょぶです、楽しいから。今いないし。鷲津さんは?」 「あー……俺はね、三十ん時、八年付き合った女に振られて以降―――」 「ひとり?」 「いたりいなかったり……男の甲斐性程度に……」 「それほんとに、振られて以降の話すか」  そう、本来これくらい察しの良い男だ。 「うるさいよ」  晴美はふっと失笑し、ケーキ攻略を再開した。本体を半分ほど食べたところで、飾りの苺を食べる。有坂のように真っ先に食べるわけでも、最後までとっておくわけでもなく、途中で食べるのが自分流。ケーキ本来の味→フルーツの酸味→ケーキ本来の味で終わるのが一番バランスがいいと思う。なんて、どうでもいいか。  新たな沈黙は、居心地悪く感じる種類のものではない。そう思っていたのは、しかし、自分だけだったのかもしれない。一息先にケーキを平らげた有坂が、置き場に困ったように右手を空中で泳がせ、やがてカップを掴む。  わずかに持ち上げられたカップはすぐに、カタン、とテーブルに戻される。 「……好きでした」 「うん?」  何気なく、思わず、聞き返さなかったなら。 「今も好きです」  少し口ごもるようだった告白を、再びはっきりと唱えさせることにはならなかったろうか。  口の中で最後の一口のケーキが消えるにつれて、頭の中で言葉の形が鮮明になっていく。そろりと窺った有坂の顔は、笑ってはいなかった。 「――すきです」  理解できずに黙っているのだと、まさか思っているわけではないだろうに。何度復唱されても、何度反芻しても、ベランダ越しに生い茂った欅の葉を眺めて時間を稼ごうとも、意味など変わらない。 「……ああ、うん」  答えあぐねた末の曖昧な相槌は、 「ふ」  失笑で一蹴された。  少なくとも、笑いごとではない。晴美は腕組みをしながら、有坂を睨んだ。 「確認するけどお前はさ」 「はい」 「俺がそのー、なんというかその告白に、色よい返事をすると思って言ってる?」 「思ってません」  即答だ。 「だよねえ」  はああ、と、ため息が出る。 「お前ゲイだったの?」 「その話、長くなりますけど」 「あ、じゃあいいわ」 「鷲津さん……俺のこと、嫌いになりました?」  都合が悪くなると躊躇わずに、持ち前の人懐こさを全開にする。説明できない、絶対的な人懐こさだ。  しかし、そんなふうに顔色を窺われても困る。そう、今の心境を一言で表すなら、困惑だった。 「いや……まあ、そうは言わないけど」  玄関のチャイムを鳴らされるまで、いや、向かい合ってケーキを食べていた時まで、いや、先にケーキを食べ終わったこの男が「本題」を切り出すまで、手に余ることもあるが可愛い部下(元、部下)であったのに。と思う。 「できれば、現状維持を望むよ」 「なかったことに?」 「うん」  力強く頷いてみたが、やはり即答だった。 「できません」  頑として聞かないことろも、時に腹立たしく、時には可愛くもあった。今は腹立たしい、というかやはり、困っている。  晴美はもう一度、はああ、とため息を吐き、もう一度有坂を睨んだ。 「だってさ、いくら俺が上司じゃなくなったからって、いくら顔合わせる機会が少なくなったからって。そんなこと言われたら、これから絶対気まずくなるだろ?だいたい、「これから」なんてものがなくなるくらい、関係が悪化することだって、あるだろ?」 「リスクマネジメントは基本、ですね」 「覚えててくれて嬉しいよ」 「でも」  睨んだ先には、笑っているような、怒っているような、泣き出しそうな、それでいて絶対的に人懐こい顔がある。 「室長が今、その場しのぎで思いつくようなことは、この五年間で考え尽くしてるんで」 「五年!?」  声が裏返る。 「はい」  五年は、彼にとって全てだったと言っていた。  そのことを、理解していたと思っていた。  はあああ、と、ため息が出る。 「――わからん。お前がわからんわ」

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