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ケニモハレニモ2
帰りしな「また連絡します」と言われて思わず「しばらくするな」と答えたことに、「しばらく」の間わずかな罪悪感を抱くことになった。
罪悪感というか、良心の呵責というか。
思ったより冗談めいて聞こえなかったかもしれない、とか、だとしたら不必要に傷つけたかもしれない、とか考える。
気を遣う恋愛は嫌いだ。
相手の態度で一喜一憂するのも、されるのも、煩わしい。
刺激や変化は、あくまで適度が望ましい。
(恋愛……ねえ)
滑稽な気持ちにもなる。
想うより想われるほうがいい。何も非現実的なことはないだろう、求めているのはそれだけの、我ながらつまらない男なのに。
ただ、元部下の――いや問題はそこではない、元部下の男、に想われるのは想定外だった。現実のなんと圧倒的なことよ。自分のキャパシティなど、簡単に凌駕する。
パタン。冷蔵庫の扉と同時に、物思いの扉も閉じる。
金曜の夕暮れ時、開け放ったベランダから夕食の匂いが漂ってくるような時間だ。今夜は冷奴でもつまみながら呑もう。夕食は晩酌メインで、軽くつまむだけのことが多い。
ふと、背後から静かなバイブ音が聞こえる。豆腐のパックを開ける手を止めて見回すと、ソファーの上で携帯電話がチカチカと点滅していた。
何気なく拾い上げたそれに、有坂拓馬の文字が浮かんでいる。
躊躇わなかったと言ったら嘘になる。
「はい」
「あ、お疲れさまですー」
ゼロ距離の朗らかな挨拶に、一瞬でも躊躇った自分を呪いたくはなったが。
「……おつかれさん」
「今、だいじょぶですか?」
「うん」
「こないだの、あの本、読みました?」
「え?あー……ああ」
先週買った本のことだと、遅れて思い出す。ベストセラーの政治哲学書は、読んだままソファーの上に置きっぱなしになっている。
「どうでした?」
「まあ、よかったよ」
「お借りしたいんですけど」
「うん」
「今から行ってもいいすかね」
見え透いた口実だった。
「……うん」
「三十分くらいで着きます」
しばらくというのは、ほぼ一週間と三十分くらいだったらしい。どっと疲労感に襲われるとともに、晴美の物思いも終わったのである。
インターホンが二回鳴る。
ドアスコープを覗きもせず、勢いよくドアを開ける。
「はい、本」
「へ?」
「返すのはいつでもいいから。じゃあな」
有坂は押し付けられた本を受け止めながらも、隙間に片脚を滑り込ませることで、閉まるドアの阻止に成功した。
「鷲津さん」
「なんだよ」
「怒ってます?」
怒った声が出ていたのだろうか。見上げた先には、眉尻を下げた苦笑顔がある。
質問には答えず、晴美はゆっくりと再びドアを開けた。
「お邪魔します」
仕事帰りのまま来たのだろう。
きっちりとセットした髪、黒に近いグレーのタイトなスーツ、Yシャツは無地、ネクタイは細めのストライプ。有坂お決まりのスタイルだ。私服の彼を迎え入れた時、その見慣れなさに戸惑ったが、見慣れたはずのスーツ姿も今となっては異質に感じる。前者の原因はどちらかといえば晴美に、後者の原因は間違いなく彼にあった。
見る目を変えたのは、あの告白のせいなのだから。
「撤回しに来たの?」
「はは、どっちかって言うと逆です」
希望的観測は、一笑に伏されて終わる。
「……そうか。飯は?」
「まだです」
「冷奴とビールならあるぞ」
「わざわざ用意してくれたんですか?」
「馬鹿言うな。100パーセント俺のついでだ」
「でも」
「何?お前の遠慮のボーダーラインは、どこなの?」
「あ、怒ってます?」
「お前なあ」
口元を隠しても、小刻みに揺れる肩で判る。笑っているのだ。この男、単なる愉快犯に思えてくる。
晴美は冷蔵庫から、冷えた缶ビール二本と、二人分の冷奴を出した。
「鷲津さんが作ったんですか?」
「ねぎ切って、生姜おろしただけだけどね」
「俺、料理しないんですよねえ」
「料理、ねえ。突っ立ってんなら、かつぶしかけといて」
片手に鞄、片手に本を持っていた有坂は、一瞬途方に暮れたような顔をしたが、すぐに荷物を下ろすという選択に思い至ったようだった。
「手、洗えよ」
「はーい」
もう一度冷蔵庫を開け、ホウロウ製の小さな器を出す。
蓋を開けると、平らに均した糠床が現れる。今日の糠漬けは、なす。スーパーの安売りで買った小なすを、今朝漬けておいたものである。
視線を感じて、横目で隣を見る。
「お前も食う?」
「……いただきます。ぜひ」
「負けず嫌いだよ、ほんと」
今度は晴美が笑う番だった。
糠をよく洗い落とし、縦半分に切る。あとは適当に一口大に刻めばいい。
「鷲津さん」
「なんだ、かつぶしならそこ」
「気付いてます?」
「なんだよ」
「ちょっと態度が優しくなってます」
「俺は、昔から優しいだろ?」
「腫れ物に触るような、ですよ」
黙り込む晴美の耳元で、ため息、そしてやはり失笑の気配がした。
「まあ、こんな扱いも悪くないですけど」
「お前、マゾっ気あったんだな」
「鷲津さん専用」
そこでネクタイをゆるめないでほしい。
「や・め・ろ」
性質の悪い冗談だと思ったから、大げさに拒否してみせたのだが。すぐに、言い知れぬ罪悪感が訪れる。
「……悪いな」
だから、気を遣う恋愛は嫌いだ。向いていない。
「何がです?」
「俺が知るか」
(恋愛……ねえ)
糠漬けを小鉢に盛れば、慎ましい夕餉の準備は完了だった。
水道のレバーを上げた有坂が、ようやく手を洗い始める。ジャー。
「A型は面倒見がいいですからね」
「できれば、他のA型当たってくれないもんですかね」
「室長がいいです。てゆーか、室長じゃなきゃ嫌です」
上目遣いで見下ろされる、という経験は、この男以外を相手にしてはなかなか経験できない。意志の固さは長所、頑固さは短所。しかしてこの元部下は、こんなにも子供っぽい口をきく男だったろうか?
「室長なんてここにいないよ」
「鷲津さん」
濡れた手が肩に触れる。
反射的にそれを掴んだ自分の手も、濡れている。
「俺」
「有坂は、俺に抱かれたいのか?」
口をついたのは突然だったが、突然思いついたわけではない。少なくとも一週間、浮かんでは消えていた思いだ。これが恋愛だとすれば、考えない方が不自然だろう。
有坂は眉一つ動かさなかった。
「抱きたいの?」
なんとなく、予感があった。
目は正直だ。
「そう思ってたの?五年も?」
「だとしたらどう思いますか?」
反問は肯定に等しかった。
今まで何もなかった。これからも何もなかっただろう。彼の告白さえなければ。
静かに瞼を閉じ、開き、有坂が低く言う。
「俺の顔は嫌いですか?」
「嫌い……ではない」
いい男だと思う。眉目のすっきり整った顔には、クールさと愛嬌が同居している。ひたむきな目にはいつも、好奇心だったり使命感だったり時には深い試案の色だったりをたっぷりたたえている。ポーカーフェイス、と言われることの多い晴美にとっては羨ましくもある。
「性格は?」
「そりゃ時と場合にもよる」
「今は?」
「聞きますか」
難はあるが、ビジネス面では極めて優秀。今は、これい以上ないというくらい厄介。
「嫌いですか?」
「嫌い……ではないよ」
手首を掴み返される。
「じゃあ。手、繋いでいいですか?」
「いやいやいや」
「だめ?」
「いや、だめというか、もう繋いでるよ?」
事後承諾も甚だしかった。冷たいような温いような、不思議な温度は人肌だ。痛いくらい力強いといことだけは、軋む手首が確かに教えてくれる。
「繋ぐっていうのは、こうですよ」
長い指が、手のひらへ這うように侵入してくる。指が絡み、そっと、しかし強引に肩から手を剥がされる。
「俺、知ってます」
「ん?」
「しつちょ……鷲津さん、そんなに貞操観念固くないでしょ?」
「失礼な」
「知ってますよ。何年、部下やってたと思ってるんですか」
有坂の顔が近づく。
「五年です」
それでもまだ若い。彼と最初に会った時ですら、晴美は三十だった。今の有坂のほうが若かったのだ。深い色の瞳に、ぼんやりと自分の顔が映っている。良くも悪くも大した特徴のない、三十五歳独身無職の男の顔だった。これが、彼にとって見つめるほど価値のあるものだという。
「刺激、好きでしょ?」
答えを待たず、乾いた唇が触れる。
無精ひげの生えた顎をかすめ、唇へ。
軽く押し付け、離れた後、
「ふ」
今度は強く。
二度、三度、四度と吸われて、ちらちらと舌先で誘われるうちに、結んだ唇は緩む。
有坂の舌が前歯に触れ、その奥を求める。少し開いて、挿し込まれた先端を噛むと、切ない鼻息が上がった。
やがて舌が絡む。
ねっとりした熱の塊に口内をなぞられ、晴美もまた鼻息を上げる。
くちゅ……と音が漏れたのはどちらの唇からだろう。
次第に音は大きく、速くなっていく。
それに合わせて、絡んだ指も強く弱く、しきりに動く。
「ふ……」
首筋を撫で、耳をあやし、頬を抱く有坂の手。気付けば晴美は、有坂のスーツの縫い目を何度もなぞっている。背中の中心を走る縫い目を、人差し指で何度も。
舌を開放し、また、唇に吸い付く。
有坂は下唇を特にしつこく吸ってから、ゆっくりと晴美の体を押しやった。
ちゅ。
離れ際、ぐずつくように音が鳴る。
酸欠で痛むこめかみを押さえながら、晴美は呟いた。
「俺は流された……」
「わかってます」
「好奇心に負けたことを、後悔もしてる」
「はい」
唇もじわりと痛みを持っていて、シャツで拭った程度の摩擦では何も感じない。
「あと……」
「はい……」
「お前のこれには」
「んっ」
「なんて声出すんだよ。これ(、、)には若干引いてるだよ、俺は」
「だって。触るから」
膝を入れて確かめた有坂の脚の付け根は、錯覚でも何でもなく、硬く勃起していた。
「お前は俺で勃つのか」
「身も蓋もない言い方、しないでください」
「他にどう言えばいいんだよ。俺だって恥ずかしいんだよ」
猛烈に襲う羞恥の半分は、頬を赤らめた有坂を目の当たりにしたことによる。と思う。
「何とか言え」
その、はにかんだ頬を軽く叩いて促す。
「室長」
「誰?」
「鷲津さん」
「うん」
「好きです」
人懐こい笑顔はしかし、今にも泣き出しそうだ。
「――わかったよ」
晴美は笑いながら、崩れ落ちるように預けられた有坂の体を受け止めた。
何故こうまで惚れられたのかは、順を追って聞くことにしよう。
五年かけて分析したらしい晴美の恋愛観を、彼はこれから身を以て理解することになるだろう。貞操観念のあたりは、まあ、そう間違っていないかもしれない。
刺激や変化も、適度ならば歓迎だ。
「有坂」
「はい」
「で、どうすんの、これ」
もう一度、膝を入れて揶揄うと、短いまつ毛を震わせる。
「……あ、今、ぞくっとした」
「はは」
目と目が合う。
そのまま、唇を重ねて、離す。もちろん、有坂は追ってくる。
「駄目だ」
「何で」
「ビールがぬるくなるだろ。冷奴も、糠漬けも」
「……わかりました」
もちろん彼は、子供じみたむくれ顔で頷くのだった。
「負けず嫌いだよなぁ」
終わり
褻にも晴れにも
(1) 普段にも晴れの時にも。いつでも。
(2)ただ一つだけであるさま。あとにも先にも。いいも悪いも。
大辞林 第三版より引用
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2012年10月8日 J.GARDENにて発行した本を、web公開しました。
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