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着込んだままの厚いコートの袖口から覗く月岡の腕を見遣る。そこから視線で撫でる指は、三十年前と変わらない形をしているように思えた。
三十年前の冬の日、古びた畳の上に敷いた布団に転がっていた月岡の手首には、自分が締め付けた五指の痕がくっきりと残っていた。自分の意に沿わない激しい情交から開放された月岡は、室田の残した痕跡を無防備に晒しながら、しばらくただぐったりと横たわっていた。
「…夏だったか、」
「あ?」
世界が滅亡するのは7月だと預言した男はその預言が外れたのならどうするのだろうと考える。落とし前や、詰め腹だけでは済まされまいと思うその途中で、預言者はとうに鬼籍に入っているのだと気が付いた。明後日の方向に向ける意識の中、脳裏には未だに若い月岡の背が留まっている。
あの時、布団の上に放り出されていた指を思い出す。
赤黒く痕の付いた手首のその先の指に触れ、握り締めたい衝動を抑えていた。
お前は俺のものだと思い続けるその一方で、室田はその思いを1度たりとも口にしたことはなかった。そして、月岡が自分に向ける感情の種類も、1度も確認したことが無いことに気が付いた。
気が付いてしまうと一層、思いは口には出来ないものだと知る。お前に惚れているなどと口にするその前に、あまりに大きく聳えた自尊心が立ちはだかる。
自分のものだと口にしていたのなら。
自分への感情を確かめていたのなら。
自分は、こんな風に月岡を力で捩じ伏せるような抱き方はしなかったのではないだろうか。
自分の知らない、もっと穏やかに熱を交わせる時間を築けたのではないだろうか。
この男はきっと、自分のものなどではない。
自分だけが1人、この男を自分のものだと信じて疑わなかっただけのこと。
ただ、それだけの事だ。
布団の上で身動ぎした月岡が、気だるげな眼差しで室田を見上げた。その気配に気付きながらも、室田は顔を上げられずにいる。目が合ってしまえば、自分の抱える全てを見透かされてしまうような気がした。
「……、駿」
月岡の目がゆるゆると瞬く。自分はどんな目をしているのか。お前に惚れている。その一言を言おうとする傍からプライドが邪魔をする。他の男と寝るな。お前は俺のものだ。
お前に、触れたい。
「…んな顔すんなよ。駿」
眉間に皺を寄せ、じっと口を噤む様子を見上げた月岡は、呟くように名を呼んだ。布団の布地を手繰り寄せるようにして指を這わせ、室田の指先にそっと触れた。
「ーー…、」
もどかしさと焦燥感と独占欲に支配され、ともすれば、泣き出してしまいそうな自分の指に月岡は触れた。
あの時、あの指を握り返すことが出来ていたのなら。
お前に惚れていると口にすることが出来ていたのなら。
今現在、月岡が幡野に向ける忠誠心の1部だけでも、自分のものになっただろうかと考える。いつかもし、月岡が幡野に捧げようとするような時が来たのならば。命を投げ出そうとするその刹那、自分がいることで命が惜しいと思わせる。そんな相手になることが出来ただろうか。
だが。
「……今更だな」
口の中で呟く。その熱を伝えるにはあまりに年月を重ね過ぎた。自分も月岡も、あの外には深く雪の積もる安アパートから随分遠い場所に来た。後戻りは出来ない。自分の感情は、前にも後にも進まぬまま、深い雪の中に眠ったままだ。
「しばれてきたな」
「ああ、」
背後のドアが開いた。ざわめきと共に似たような風貌の男達がぱらぱらと部屋を出てくる。振り返り、見遣る人垣の向こうに自分達の親分の姿が見えた。
「行くか」
「ああ」
煙草の火を揉み消す。同じように灰皿を使う月岡の指をもう一度見やった。
地球が滅亡する日が冬だったのならば、寒さを口実に自分はこの指に触れられただろうか。
だが、地球は夏に滅びるらしい。
どちらにせよ、自分はこの指には触れられない。口にすべき思いは伝えられない。
ただ、地球が滅ぶその日もまた、自分はこうしてこの男の隣に居るのだろう。
窓の外、飽くことなく降っては積もる雪を見上げた。底に埋め、取り出す機会を逸した感情は、とうの昔に固く凍り付いている。
(Fin.)
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