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雨×お風呂場×異世界転移
「ふああ。生き返るー」
乳白色のお湯にちゃぷんと肩まで浸かると、雨風に打たれて冷えきった身体がじんわりとあたたまっていく。
ほんのりと香るラベンダーの入浴剤はリラックス効果があって、うっとりとした気分で目を閉ざす。
自分んちではこういったお洒落な入浴剤は使わないから、なんだか新鮮だった。
「肌もつるつるのすべすべー」
滑らかな手触りに興奮しながら手足を擦っていると、扉の向こうから幼馴染みのお母さんであるケイコさんの声が届く。
「着替えここに置いとくわね。あの子のだからサイズが合わなかったらごめんなさい」
「ありがとーケイコさん」
予想外の雨で、俺の制服はずぶ濡れだった。さすがにもう一度あれに袖を通すのは憚られるから助かった。
天気予報では雨が降るなんてことは言っていなかったし、学校を出てしばらくも晴れていた。なのに遠くで雷の音が聴こえたかと思えば、急に土砂降りになったんだ。
さらに家の鍵を忘れるといううっかりをやらかした上、母さんは買い物に出てて家にいないというまさかのトリプルパンチ。
雷はゴロゴロ鳴ってるわ、体は冷えるわで途方に暮れてたところを、隣に住むケイコさんが見つけてくれたというわけ。
窓からひょっこり顔を覗かせて「風邪引くからこっちにいらっしゃい」と声をかけてくれたときは、本当に女神かと思ったよ。
「ケイコさんを見習って、あいつももうちょっと俺に優しくしてくれたらいいのに」
顔は母親のケイコさん似だけど中身は誰に似たのかわからない幼馴染みを思い浮かべ、溜め息をつく。
幼馴染みとは同い年で、物心がついた頃にはすでに隣にいた。
中学まではずっと一緒だったけど、成績のいいあいつはこの春、俺なんかでは絶対手の届かないような偏差値の高い学校に進学してしまった。
いくら家が隣同士といっても、学校がちがえば会う機会はほとんどない。連絡しても返ってくるのはそっけない内容だし、今はもうたまに窓の外に姿を見つけるくらいで、接点もない。
「そのうち俺のことなんか忘れちゃうのかな……」
ぽつりとつぶやいて、ぽちゃりと鼻下まで湯船に浸かる。
そんなふうに感傷的になっていたときだった。窓の外が真っ白に染まったかと思うと、数秒もしない内に耳をつんざくような轟音が響き、浴室を揺らした。
「ひえっ!」
凄まじい音が空気を震わせて肌にまで伝わってくる。
「い、今、落ちた……!?」
雷が。しかもとんでもなく近い場所で。
これまでこんな間近に落ちた経験なんてなくて、驚いて立ちあがると、今度は浴室の明かりが消える。
恐怖の上にさらなる恐怖が塗り重なって、声にならない悲鳴をあげていると、突如足の裏にあったはずの感覚がなくなった。
「!?」
それまで体重を支えていた存在が忽然と消え、体が湯船のなかに吸いこまれる。
ドプンと頭の天辺までお湯のなかに沈んだ俺は、なにがおこったのかすら理解できないうちにどんどん下へ落ちていった。
ごぼりごぼりと口から漏らした酸素が沫となって上へのぼっていく。
なにがどうなっているのか、てんでわからない。気がついたときにはすでに溺れていた。
真っ暗闇で周囲の様子もわからず、息もできない。お湯で埋め尽くされた世界は言葉を発することもできず、血の気がみるみると引いていく。恐怖から腹の底が苦しくなった。
溺れてる? なんで?
――――浴槽の底が、抜けた……?
そんなバカな。
どこまでもどこまでも落ちていく感覚に冷えていく肝。現状がまったく理解できず、パニックになって手足をバタつかせるも、それによって身体が浮上することもなければ、すがるものも見つからない。
「ふが……っ」
苦しくて苦しくて。このまま風呂で溺れて死んでしまうのかと考えて、愕然とした。
冗談じゃなかった。
諦められなくて、最後の足掻きとばかりに、口からごぼこぼと酸素を逃がしながらも両手両足を大きく使って浮上を試みる。
だけど、もがいてももがいても、上へ上昇するどころか体は沈む一方で。無情にも水面は遠ざかっていく。
なす術もなく、するすると底へ吸いこまれるように落ちていった。
こんな馬鹿なことがあるのかと悔しさに唇を噛みしめる。
そうこうしている間に頭の中がぼんやりとしてきた。
俺、このまま死んじゃうのか?
そんなのあんまりだ。まだやり残したことが、たくさんあったのに。
今日の夜は視ようと思っていたバラエティー番組があった。それにあと一週間もすれば一番好きなアーティストのアルバムも出る。親孝行だってなにもできていない。
なにより心残りなのは、ずっと抱えていた思いを告げられないままいることだ。
こんな中途半端な状況で、人生終えちゃうのか?
「かぼ……っ……ごぼごぼ!」
こんな終わりがあってたまるか。なにがなんでも現状を打破してやる。
そう決意した途端、あたりが光で溢れかえった。それまで落ちる一方だった身体が突然どぷりと音をたてて浮上する。
視界いっぱいに飛びこんでくる眩い光に瞼をあげられずにいる間にも、見えない力のようなものにぐんぐんからだを押し上げられる。
ザバンッ。
大きくしぶきがあがる音がしたかと思うと、肺に酸素が行き届いた。
「――っは……!」
ようやく呼吸することが適い、必死で酸素を取りこんだ。
「えほ……っ、げほげほ……かはっ」
溺れてる途中、しこたまお湯を飲みこんだせいで盛大に咽せこむ。
風呂の枠に手を添えて肩を上下させながら呼吸をととのえていると、視界の片隅に褐色の物体を捉えた。
「……はぁ……はぁ……? なに……って、わあっ!」
その正体を理解する前に、突然強い力に腕を引っぱられる。そうして襲ってきた鈍い痛み。
「い……っ!」
「×××」
鋭く硬質な外国語が、鼓膜を響かせる。
――――え。
首を捻り、後ろを振り返った俺はぽかんと口を開けたまま呆けた。見知らぬ裸の男が、ほぼ密着するようなかたちで俺の腕を捻りあげていたからだ。
でかい。男は俺よりも頭ひとつ分以上身長が大きくて、逞しい体つきをしていた。
二十代前半くらいだろうか? いまどきの日本人でも珍しいほど綺麗な黒髪の持ち主で、顔立ちも彫りが深くてひどく整っている。肌の色は黄色というより黒に近かった。
が……外国人? な、なんでこんなことになってるんだ……?
慌てて顔を前に戻すと、そこには見慣れない光景が広がっていた。
幼馴染みンちにいたはずなのに、どこだよここ……っ!?
俺はいつの間にか大浴場かと見紛う場所に突っ立っていた。床はよくあるタイルじゃなくて、大理石っていうのか? 高そうな石が敷き詰められている。
信じられないことだけど、俺はどこかの金持ちの家に流されてしまったのかもしれない。
そして、図らずもよそ様のお宅の風呂場に乱入してしまったことで、変質者とまちがわれてる。これが今の状況だろう。
なんてこった……!
とんでもない状況に、自由な方の手でぺちんと額を叩くと、掴まれていた腕をさらにきつく捻りあげられた。
「××××××」
「~~ッあたたたたっ! いたっ、ちょ、本気で痛いって!」
あまりの痛みにジタバタと暴れると、腕にこめられた力が僅かに緩められる。そして。
「××××××××××××? ×××××××? ××××××××××××」
凶悪な顔をした男から、まったく理解不能な言語で捲したてられる。
正直、なにを言われているのかチンプンカンプンだ。
まったく聞き覚えのない言語に、英語ですらなさそうだと思った。とても怒っている男の人を前にしてどうにか誤解を解きたいと考えたけど、言葉が通じないため適わない。
俺は断じて。断じて痴漢行為をしようとしたわけじゃないのに……っ!
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