1 / 9

雪を知らない恋人

「東京って雪、降るんだよな! 楽しみだぜ」  都内に引っ越してきて、はや半年の由宇(ゆう)の言葉に晴兎(はると)は不思議そうに首をかしげた。  由宇の住む、一人暮らしのマンション。晴兎が押しかけるのはもはや日常になっていた。  勝手にコーヒーなど淹れてすすっているくらいだ。インスタントのやつだが。  そのコーヒーがホットになるくらいには冷え込むようになってきていた。 「楽しみか? 結構めんどくさいぜ」  晴兎はあまり前向きではない。  ついでという様子全開だったが一応、由宇にも淹れたコーヒーを「冷めるぞ」と押しやりながら言った。  しかし由宇はコーヒーどころではないようだ。  なにしろ今朝のニュース。北海道で初雪が降った、というものだったのだから。  北海道が今なのだから、本州である都内で降るのはまだ少し先だろう。  それでも今から楽しみという様子全開。 「楽しみに決まってんだろ! 雪なんて二回くらいしか見たことねぇもん」 「は? 静岡って雪降らねーの?」  今度は違う意味で不思議そうな顔をしてしまう。怪訝、ともいえる表情である。 「それが降らねぇんだな。なんと雪の降らない県・ナンバーツー! 一位はもちろん、沖縄な」  由宇は何故か得意げになり、ちょっと自慢だとばかりに口に出す。自慢になるかはわからないが、なんとなく誇らしいことかもしれない。日本で二位だということは。その気持ちはわからないでもない。  静岡出身ということは最初から聞いていたし、どういう土地なのかなどは事あるごとに聞いていたけれど、雪については聞いたことがなかった。  由宇にとっては初めて東京で過ごす冬なのだから、当然かもしれないが。 「沖縄に次いで!? なんでだよ、名古屋とか神奈川は降るだろ」  しかしその事実には流石に晴兎は目を丸くしてしまう。その疑問はもっともであろう。  沖縄はあからさまに『あたたかい』というイメージがあるだろう。それに次いでだとは。  本州ど真ん中で、晴兎の言う通り、名古屋などは降る。それも場合によっては交通機関に影響が出るほど降ることもあるのだ。 「さぁ? 山とかの具合じゃね。富士山とかそのへんはそりゃ降るけどさ、平地はほぼ降らない。その証拠に実際、俺は二回しか見たことない」  またしても得意げに言った由宇であった。見ていない、ということが誇れるのかは謎であるが。 「へぇー……新たな無駄知識が増えたわ」 「無駄とはなんだよ」  余計なひとことがくっついていたのでちょっと膨れられた。  けれどそのあとに言ったことに、由宇の機嫌はすぐ直ったようだ。 「まぁ、そういうことなら楽しみでもあるか」  納得しておくことにして、晴兎はもうひとくちコーヒーをすすった。  それに促されるように、由宇もやっとマグカップを手に取った。コーヒーはだいぶ冷めている。  けれどかえってちょうどいい温度になっていた。由宇は猫舌なのだ。すぐに手を出さなかったのは、それもある。 「でもやっぱり面倒だぜ。見た目はいいけど、固まると結構滑るんだよ。積もった日は、駅まで行く間に絶対一回は転ぶ」  そのあとデメリットを言ったけれど。  静岡から大学進学をきっかけに一人上京してきた由宇とは違って、晴兎は都内生まれ、都内育ち。  ついでに実家暮らし。そのために由宇のマンションに居座っているわけだが。  夏に付き合うことになってからはよりその頻度は増えていた。  それはともかく、そのために生まれてから毎年のように雪の日というのは経験している。 「そ、そうなのか……雪の靴……なんだっけ? ああいうのが要るのか?」  由宇はちょっとひるむ様子を見せた。そこまでとは思わなかったという顔だ。  それに雪が転ぶものだという発想もなかったのだろう。あの物言いではちらちら舞う綺麗なものとしか思っていなかったはず。  けれど言われてみれば確かにその通りだろう。積もって時間が経てば固まることくらいはわかるだろうし、そして固まれば滑るというのも、想像の範囲のはず。 「いや、そこまで降るのは一冬に何回かだから……そこまでは。ちっと尻を打つのを我慢するかな」 「地味に嫌だな、それ」  由宇のテンションは多少落ちてしまった。  楽しいばかりではないのか。ちょっと残念になる。  そんな顔。 「でもやっぱ楽しみだぜ! きれーだろ」  それはそうだろう、日常の中で見られるとなれば話は別。  旅行で雪を見たことならある、と由宇は言った。  けれどそれは地元で見るのとは別物だ。いわば特別体験。  今年見られるものはそれとは違うものになる。  家で過ごしながら、窓から見られるのだろう。  大学へ通う道すがらや、教室の窓からも見られるかもしれない。  それは由宇にとってはなんと心躍ることだろう。  とはいえ、晴兎の言う通り、都内ではそれほど珍しいものではないから、あからさまにはしゃぐわけにはいかないみたいだな、と由宇は言った。  大学生にもなって、雪に大はしゃぎなど「犬は喜びなんとやら」とからかわれるだろう。  学校では明るいキャラとして通っている由宇だから、別にちょっとからかわれるくらいはかまわないのだろうけど。

ともだちにシェアしよう!