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義弟になる前の話

 流吾(りゅうご)は最初から「義弟」だったわけではない。  生まれてから6年は弟と妹もいたし、さらに言えば資産家の跡取りとして早期から相応の教育を受け、使用人に傅かれ、厚遇されていた。そのおかげか生来の性質か、非常に利巧で沈着な、諦観と紙一重の達観を身につけた子供であった。父親の仕事の場に連れ回され、「同じ年頃の子より賢くてしっかりとした口を聞く自慢の息子」として自慢と共に紹介された。だがどんなにほめられようが、おだてられようが、年齢に不釣り合いなほど冷めていた流吾を、あまり可愛げの無い子という陰口が叩かれていることも、知っていた。父親すらうっすらそう感じているのも知っていた。  貿易業をしていた父親は威風堂々とも、財力にあぐらをかいて傲慢とも言えた。  父親は大戦景気の恩恵を受け、先代である、流吾が2歳の時に亡くなった祖父よりも財を増やした手腕を誇っていたが、主に年配の客人からかなりの確率で耳にする「先代には大層世話になりまして」という言葉から、丁稚から着実に出世し、奉公先の一人娘を嫁にし、自ら築いた人脈も広かったという祖父の威光も効いているのだろうな、と流吾は薄々感じ取った。それらから鑑みるに、あの居丈高な態度が祖父へのコンプレックスの裏返しだったのかもと、当時の父親と同じ年齢になってから思い至った。  没落華族の令嬢だったという母親は病弱で、それでも優しかった。体調が良いときには物語の読み聞かせをしてくれ、自分に代わり、人恋しがる幼い弟や妹の世話を焼いてくれる流吾に感謝を述べた。  父親への感情は希薄だが、母親のことは慕っていた。  しかし、器量望みで娶られたという、生きているうちからこの世のものではないように儚くすらあった母親は、5歳の春に病没してしまった。  あまり悲しんでいるようにも見えなかった父親は、葬儀が済んでからはますます家のことは使用人に任せたきり、仕事にのみ向かっていた。情が無いのだと父親への見方は冷ややかになっていったが、しかし当時の情勢のせいもあったのかも知れないというのは成長してから知った。  あれほど規模を誇っていた会社は、熱病の如く世界に広まった恐慌の煽りを喰らい、呆気なく失われた。父親に待っていたのはなす術なく消える財産、社員や幹部連中からの泣き言、罵倒、使用人すら辞める者が相次ぎ、見る間に憔悴していった。 一から財を築いたのでは無く、先代の富を踏み台にしたからなのかどうか、君主ぶっていた割には存外打たれ弱かった。  秋が深まる頃、珍しく朝食の時間に姿を表さない父親を不審に思った流吾が二階の寝室に向かうと、階段を登りきった頃には既に異様な匂いが漂っていた。その時点で何かを察した流吾は、それでも寝室の扉を開けた。  人が物体となって梁からぶら下がる様を、奇妙に冷静に観察した。しかし、結局親子らしいことは何一つしなかったのが残念だとも思ったのが自分でも意外であった。  自分たちに累が及ぶことを恐れて腰をあげた親戚の援助で、屋敷などの持ち物、父親の趣味であった芸術品などを処分したおかげでなんとか借金の方はついたが、無一文かつ身寄りを無くした3兄妹を引取ろうという者は見つからなかった。裕福であったが、何かと優位をひけらかすような父親をよく思っている人は少なかったし、皆自分のことで精一杯ということだった。ただ、最後まで勤めてくれていた使用人の夫妻が、涙ながらに一緒に夫の田舎に渡りましょうと申し出てくれた。文句なしに働き者で善良な夫妻であったが、3人を養うのは難しいだろうと幼いながらに遠慮した流吾は、わけもわからぬままに環境が大きく変化し、暗い顔をしている弟と妹のみを引き取ってやって下さいと告げた。そんなことを仰らないで下さい、お金のことは大丈夫ですからと涙ながらに言われたが、しかしその態度に、微かな安堵と後ろめたさを見てしまった。  どの親戚に頭を下げるか、と諦めていた時、どこから聞いたのか、今まで会った事の無い人物が夫妻の元を、正確には身を寄せていた流吾を訪ねてきた。 「君のお祖父様に世話になった者です」  そう流吾に挨拶をした篠生と名乗る身なりの良い壮年の紳士は、流吾を引取ろうと持ちかけた。  聞けば、祖父の人脈の助けもあって、小さいながら会社をいくつか持っており、煽りを喰らった企業の共倒れとなることもなく仕事を続けられているのだという。 「私のところに一人、男の子がいるんだ。優しい子だから君ともうまくやれると思うよ」  突然の提案に、夫妻が不安がるように胡散臭いものを感じないではなかったが、不思議と下心も、安易な哀れみすら見られなかったし、実の子たちとの扱いの差が最初から見えてる親戚一同よりはましかと淡々と承諾した。とはいえ、よく知らない人の養子になろうとするとは、冷静になろうとして、結構自暴自棄だったのだろうと、ずっと後になってからその時を振り返った。  何かあったら必ず連絡をしてくださいとこっそり新しい住所を教えてくれた夫妻と、泣いて嫌がった弟と妹に別れを告げ、加賀流吾は篠生流吾と名を改めたのであった。  ここからは蛇足のような話。 「おかえりなさい!」 弾むように駆け寄ってきた同年代の子供の姿を一目見て、使い古された表現かも知れないが、天女かと思った。思うと同時に混乱した。男と聞いていたはずだが?  質素だが清潔そうな着物は淡い柄が入った女の子が着るようなもので、彼の美しい黒髪は肩にかかるほど長く、これまた長い睫毛に縁取られた目は大きかった。 「すまないが、簡単に案内してやってくれ。仕事に行かなければならなくなった」 「はあい」 紳士が身を翻し、乗ってきた車に引き返してしまうと、玄関先に二人きりになった。 「……流吾といいます」 「どういう字?」 指先で手の甲に文字を書きながら説明した。 「流れる吾子(あこ)、です」 「そっか。僕はあした」 朝日の朝って書いてあしたって読むんだと言う表情に見惚れ、名前まで綺麗だと感心したのを誤魔化すように呟いた。 「(あした)に道を聞かば(ゆう)べに死すとも()なり」 「そんなにスラスラ言える人、初めて会った」 楽しげに笑う様子に、鈴を転がすような声はこういうのだろうかと涼しくて微かに甘い声に聞き惚れた。 「お兄ちゃんって呼んで?」 「えっ」 「嘘。いきなり呼べないよね。……でも、仲良くしてくれると嬉しい」 いたずらっぽい笑みと共に差し出された手を恐る恐る握れば少し冷たくて、白さも相まって陶器のようだなといやに心臓がうるさかった。 「部屋はこっち」  そのまま手を引いて歩く彼を、確かにすぐには兄弟とは思えなかったし、すでにうっすらとそれ以外の感情が芽生えていたが、ただ目の前の美しい人を喜ばせたいという、初めて抱いた感情のままに言葉にした。 「……よろしく、兄さん」

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