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第1話 夏の日の再会
全ての音を飲み込むような蝉時雨。
夏を謳歌する虫の声と、肌を炙る太陽の光が、生の実感を思い出させてくれた。
そうでなければ、今の自分は死人と大差ないだろう。
「父さん、大丈夫か?」
息子の正晴が、冷えたペットボトルの麦茶を差し出してくれる。しかし、それを受け取る気にはなれない。
目の前には、灰色の箱のような建物がある。その屋根に取り付けられた長い煙突からは、黒い煙が上がっていた。焦げ臭い匂いに、目の奥が痛くなる。
「浅井さんと父さん、幼馴染だもんな……」
そう呟くと息子は肩を並べてきて、そっと背中を支えてくれた。よほど、ひどい顔になっていたのだろう。
幼馴染の、浅井敏朗が死んだ。
まだ、四十七歳だった。
最後に顔を見たのは、敏朗が離婚した年の夏だ。あれから、五年になる。
棺桶の中の敏朗はひどく老け込んでいて、若い頃のはつらつとした姿は見る影も無かった。
空へと吐き出される煙から、地上へと視線を戻す。
すると、火葬場の前で、少年が一人佇んでいるのが目に飛び込んできた。まだ、十ほどの少年だ。
『おい、雅之!』
敏朗の呼ぶ声が聞こえる気がする。少年の頃の敏朗の、少し甲高い声だ。
だが、それは遠く過ぎ去った日の残響だった。
どきりとするほどに、その少年の横顔は、同じ年の頃の敏朗によく似ている。
まるで、子供の頃に戻ったような気すらして、雅之は軽いめまいを覚えた。
「由紀さんも、離婚して帰ってきてすぐにお父さんが亡くなるなんて……大変だよな」
「ああ。あの子は、由紀の子か……随分と大きいな」
「ほら、由紀さんは十六で結婚したろ……あれだ、本家の次男の後妻にって……」
「……そうか。そう、だったな」
少年の額からつぅっと汗が一雫、眦の涙と混ざって頬を滑り落ちた。
祖父を焼いた釜を、仇のように睨みつけるその眼。ギラギラと燃える真夏の太陽のように熱くて、雅之は直視できなくなる。
田舎のしがらみの中で早くに結婚し子を産んだ、敏朗の娘由紀は、弔問客の世話をして回るのに忙しい。父の死を悼む暇などないようだ。そのか細い背中を、正晴がじいっと見ている。
雅之は少年の方に目を奪われていた。
一人取り残された少年の背中に、そっと歩み寄る。
肩に触れてみると、ゆっくりとこちらに振り返った。
丸く大きな目を見開いた彼は、ぽつりと何か呟く。
だが、その声は小さすぎて、蝉時雨の中へ溶けて消えた。
※※※※※
「まて、今なんと言った?」
「だから、父さん。俺結婚するから。由紀さんと」
突然の息子の告白に、雅之は目を剥いた。
普段は寄り付かない癖に、久しぶりに雅之が一人暮らしをしているマンションを訪ねてきたと思ったら。
手土産に持ってきたデパ地下の惣菜を箸でつついて、正晴は照れくさそうに笑う。
「ほら、五年前のさ。浅井さんの葬式で会っただろ? あん時連絡先交換して」
「待て、お前……由紀は子供が居ただろう」
「なんだよ。子連れ女と結婚なんて、とかいうつもりか?」
「そうじゃあないが……簡単じゃないぞ、血の繋がらない子を育てるなんて」
「分かってる分かってる! だから、五年も付き合って、ちゃーんと遥君とも仲良くなってからプロポーズしたんだからさ! 大丈夫だって」
自信ありげな息子に、雅之は嘆息した。
昔から、息子の正晴は楽観的だ。妻を亡くして父子家庭になってからは、この明るさに支えられて来た。だが、もういい歳した大人なのだから、もう少し慎重さや年相応の落ち着きを持って欲しいものだ。
「その……遥だったか。由紀の子は、今は難しい年頃なんじゃないのか? 母の再婚に、本当に納得しとるのか?」
「父さんは、ネガティヴ過ぎるんだよ。結婚しちまえば、なんとかなるって」
カラカラと笑ってビールを呷る息子から目を逸らす。確かに、雅之は後ろ向きな人間だ。そのせいか、あまり人付き合いも得意ではない。
雅之も、結露の付いたグラスを手に取る。節だって細い年寄りの指を、水滴が伝った。
昔は息子のように大きく逞しい手だったのに。五十歳を超えてから、めっきり老けた気がする。
「……そうだな。俺がなにを言っても、お前はもう決めちまってるんだろう。それに、結婚は当事者の問題だ。好きにしたらいい。――おめでとう、正晴」
息子はにかりと笑って、力強く頷いた。
しかし不思議な縁だと、雅之は苦笑いを浮かべる。その薄い唇でグラスに触れると、温くなったビールを口に含んだ。
由紀は、雅之の幼馴染だった敏朗の娘だ。
そして、雅之は――少年の頃、敏朗に淡い感情を抱いていた。
それは気の弱い自分とは違う、喧嘩っ早いガキ大将だった敏朗への憧れから始まり、やがて性に目覚める年頃になるとはっきりとした劣情に変わった。
敏朗を組み敷く妄想で、雅之は自慰を覚えた。
だが、敏朗に女が出来ると、その想いは泡のように消えた。
この男を抱き締める事など、永遠に叶わない。それを、思い知ったからだ。
それから三十年近く経って、敏朗の離婚をきっかけに友情が壊れるまでは、ずっと良き幼馴染だった。
その敏朗の娘と、雅之の息子正晴が結婚する。浅井由紀から、出水由紀になる。
なんだか、妙な気分だ。
孫でも産まれたら、もっと複雑な気持ちになるに違いない。
「父さん……で、さあ。その……頼みがあるんだよな」
珍しく言い淀む正晴に、少し嫌な予感がする。
「なんだ……さては、結婚式の金か? それなら、少しは」
「あー、いや。それもあるけど、そうじゃなくてだなぁ……実は、明日から新婚旅行っていうか、まあ、婚前旅行っていうか」
「婚前旅行? あ、明日?」
雲行きが怪しくなってきた。
惣菜を隅に押し退けてからテーブルに手を付くと、正晴はがばっと頭を下げた。
「父さん! 遥君を、一週間預かってくれないか!?」
「なっ!?」
あまりに突然過ぎて、言葉を失う。
この身勝手な息子は、いきなり何を言い出すのか。
「明日、明日だと!?」
「頼むよ! 父さん以外居ないんだ! 遥君まだ中3だぜ、一人で留守番出来ないだろ!?」
「お前、わざとだなっ! 断れないようにギリギリにっ!」
「べ、別にわざとじゃないって、偶々だよ」
怒鳴りつけるが、子供の頃悪戯を咎められた時のようにむくれて見せるので、いっそ呆れてしまった。
椅子に沈み込んで、こめかみを押さえる。
「……学校は……」
「今は夏休みだって。なあ、父さんは仕事も在宅だから、一人にしなくていいし安心だろ? だから、頼むよ」
そういえば、もう七月も末だ。世の学生は夏休みだろう。
小説家を生業にしている雅之は、すっかり休日祝日から縁遠くなってしまっていたので、夏休みの事など頭から抜けていた。
「連れてけばいいだろう……」
「……三人での旅行は、これから何度も行くんだよ。最初で最後の、二人きりでの旅行なんだ。父さん頼む」
そんな言い方をされて、断れはしない。
息子の作略に嵌ったようで悔しいが、雅之は渋々頷いたのだった。
※※※
ジージーと五月蝿い蝉の声を聞きながら、雅之は額の汗を拭いてハンチング帽を被り直した。
腕時計を見ると、約束の十四時を過ぎている。
雅之は最寄り駅の前で、義理の孫となる遥を待っていた。
両親の出発を見送ってから、一人で電車に乗ってくる事になっている。
「暑いな……喫茶店で待ってると言えば良かった」
携帯は持っているが、遥の番号は知らない。入れ違いになる訳には行かないから、仕方なく駅の改札前でぼうっと立ちん坊だ。
酷く喉が渇いている。
熱中症になる前に退散せねばと思っていると、電車がガタゴトと揺れながらホームへ入っていくのが見えた。
しばらくして、ワラワラと改札口から人が湧き出してくる。その中に、少年の姿を探して……雅之は、凍りついた。
そこには、死んだはずの敏朗が居た。
いや。正確には、十五の頃の敏朗だ。雅之が敏朗を諦めた、あの頃の敏朗。
その少年はキョロキョロと辺りを見回して居たが、雅之を見つけると不機嫌そうな顔で近づいてきた。
思わず逃げ出しそうになるが、気力で堪える。
「……出水のじーさん?」
かろうじて頷くと、詰まらなそうな顔で「ふーん」と言った。手にしたキャリーバッグをカラカラ言わせて押し引きしながら、雅之を睨みつけてくる。
背丈は雅之より頭一つ低いから見上げる格好になるが、本人はこれで威嚇しているつもりなのだろう。
「あちーから。家、どこ」
礼儀のなってないガキだ。
だが、敏朗もこんなだった。大人には意味も無く噛みついていた。
妙な懐かしさと、焦燥感が胸を焼く。
「……こっちだ」
言葉少なに答えて、雅之は歩き出す。何故か、遥は少し目を丸くしてから、パタパタと付いてきた。
家に向かい無言で歩いていると、遥は小声で「車ねーのかよ」等とぶつぶつ言いはじめた。何か文句を付けずにはいられない年頃なのだ。
コンビニに寄って遥の間食用の菓子とアイスを二人分買い、自宅のあるマンションへと向かった。十階建ての最上階へと、ガタガタと揺れるエレベーターに運ばれる。遥は少し体を強張らせていた。
「ボロボロじゃん……」
そんな呟きを聞き流す。
越したばかりの頃は新築で、どこもかしこもピカピカだったのだ。だが、二十年も住めば住人同様建物も歳をとる。
エレベーターが止まったとたんに、遥はぴょんと廊下へと飛び出した。そんな遥を追い抜くと、むっとした様子でついてくる。
「ふーん。中はマシだな」
部屋の鍵を開けてやると、挨拶もせずにズカズカと上り込んだ。だが靴はちゃんと揃えていったから、少し微笑ましく思う。
「冷房付けるから、リビングにいろ」
遥は黙って頷いてリビングのソファに座ると、アイスキャンディの封を開けて齧り付く。
ポタポタと汗の雫が垂れ落ちて、ハーフパンツに染みを作った。その光景に、めまいがする。
ああ、敏朗の、あの懐かしい夏の幻影を見ているようだ。
小遣いなんてろくにもらえないから、二人で金を出し合い駄菓子屋でアイスを一本買って、半分こにして食べたのだ。照りつける太陽から逃げるように木陰で身を寄せ合って。一本のアイスを、交互にかじり合う。その、ひそやかな楽しみ。
敏朗の汗と、乾いた土。深い緑の匂いが、雅之にとっての夏の匂いだった。
「じーさん?」
訝しむ声に、時間が現代に戻ってくる。あの昭和の、田舎の、あの時間の中に潜り込んでいた雅之は、ハッとなって数回瞬きを繰り返した。
「あ……すまん。少し、くらくらしてな」
そう言い訳して、冷房の電源を入れる。
ぶーんと音を立て動きだした冷房を、遥はつまらなそうに睨んでいた。
遥の隣に座る気にはなれず、雅之は立ったままアイスの封を切る。
ソーダ味のアイスを齧ると、身体の中からひんやりとした。やはり、暑い時は内側から冷やすに限る。
アイスの棒をくずかごに放り込むと、遥は勝手にテレビを付け、ソファに乗り上げて寝転んだ。
行儀が悪いと叱る気にはならない。遥と目を合わせる事すら、ためらわれた。
とにかく、一人になりたい。
「……仕事をするから、書斎にいる。さっき買った菓子と冷蔵庫のものは、好きに食べなさい」
この年頃の少年が好む食べものなどよく分からないが、一応前もってスーパーでジュースやゼリーなどを買っておいた。
中三なら食べ盛りだ。食べものさえ与えれば、おとなしくしていてくれるだろう。
「いいの?」
遥は一瞬きらりと目を輝かせたが、すぐに目を逸らしてまた斜に構えた表情に戻る。
反抗期というのも、面倒なものだ。わざわざ不機嫌なフリまでしないといけない。
「構わんよ」
頷いて見せると、さっそく遥は冷蔵庫からコーラを持ってきて、ポテトチップスをボリボリ齧りながらスマホで動画を見始めた。
初めて来た血の繋がらない祖父の家だというのに。すっかりリラックスしているように見える。
敏朗も、こんな風に図太かった。
夏休みなどはいつの間にか雅之の家に上がり込んで、縁側で昼寝をしていたりしたものだ。まるで、自分の別荘だとでも思っているようだった。
この様子なら、放っておいてもいいだろう。
まず雅之は寝室で、外出用の洋服から部屋着の甚平に着替えた。夏は、だいたい甚平だ。この格好が楽で涼しい。
そして、仕事場でもある書斎に籠る。
パタリと書斎の扉を閉めて、いつものデスクチェアに座る。冷房の効いていない室内は蒸し暑いが、ようやくホッと一息つけた。どうやら遥よりも自分の方が緊張していたようだと、雅之は自嘲する。
冷房のスイッチを入れ、背もたれに体を預けて部屋が涼しくなるのを待った。
ワークデスクの上には仕事用のノートパソコンが置かれている。それと、数冊のノートと万年筆。アイデアを書き留めるためのものだ。
そして、二十年前に死んだ妻の写真を入れた写真立て。こうして飾っていないと顔を忘れてしまいそうだから、いつも目につく場所に置いてある。
彼女は雅之にとって最初の女で、最後の女だ。それを常に確かめていないと、心がざわつく。
壁際には天井まで届く本棚があり、ぎっしりと本を詰め込んである。半分は小説を書くために買った資料だ。
雅之はさして売れてはいないミステリ作家だが、それでも何作かは二時間ドラマになっていた。
だが、若い作家達が台頭してきている。このままでは、いずれ仕事は無くなるかもしれない。
「さて、どうしたものかな」
昔馴染みの編集者がそんな雅之を案じてか、いつもと違うものを書いてみませんかと話を持ってきてくれていた。
今までの読者層より若い、女性向けのライトなミステリ小説の企画だ。
数年前二時間ドラマになった雅之のミステリ小説。それが何故か若い女性に受けているらしい。確かに、その作品だけは今もじわじわと売れている。
先生なら若い層に受けるものも書けますよとおだてられて引き受けたはいいものの、雅之は若者受けする話などさっぱり分からない。
冷え始めた室内で、雅之は目を閉じる。瞼の裏には、遥のつまらなそうな横顔が映った。
義理とはいえ、孫から逃げて書斎に籠るような男が、若者の気持ちなど分かるはずがないのだ。
※※※※※※
『雅之、雅之』
敏朗の声が聞こえる。
ジージーという、蝉の声。頭の中まで蕩けてしまいそうな暑さ。
毛穴から吹き出した汗が玉の雫になって、敏朗の顔を飾っている。
『雅之。オレは、お前のために離婚したんだ』
床に雅之を押し倒し、腹の上に跨った敏朗が、獣のように笑いながらそう言った。
密着した下腹部が、焼けるように熱い。
敏朗は、硬くなったものを雅之のへその下に押し当て、ハアハアと荒い息を吐いた。敏朗の額から垂れ落ちた汗が、ポタポタと雅之の上に降りかかる。
『分かってんだよ。なあ、雅之。お前、ずっとオレに惚れてたよな。気付いてたのに、今まで無視してきて悪かったな。今なら、お前の気持ちに答えてやれるぜ。お互い独身なんだからな。嬉しいだろ、雅之』
べろりと、こめかみを舐められる。『しょっぱいな』と含み笑う敏朗の声が、どこか遠くで聞こえた気がした。
気が付けば雅之の拳は血まみれで、鼻が折れてうずくまる敏朗を前に立ち尽くしていた。
じーじー五月蝿い蝉の声に混じり、キンキンと酷い耳鳴りがする。シャツが体に絡みつくほど汗をかいているのに、手足は冷たく凍えたようになっていた。
『――二度と、俺に、その面を見せるな』
頬を伝うものが、汗なのか、涙なのか。雅之自身にも分からない。
尊いものが永遠に失われてしまった。その悲しみに、ただ打ちひしがれていたのだ。
※※※※※
目元がスースーして、目が醒める。
舌打ちをして、濡れたまつ毛を指先で拭った。
どうやら、うたた寝をしてしまったらしい。壁掛け時計を見ると、二時間程経っていた。
「なぜ、こんな夢を……」
忘れたかった、あの夏の記憶。
敏朗が離婚した年の、夏の出来事だ。
あの頃既に雅之は田舎を出て街で暮らしていたが、敏朗はそれまでずっと生まれ故郷の村に住んでいた。
離婚を機に隣街に引っ越してくることになり、その手伝いをしに行った。
もっと近くに越せば良かったのに、それなら、毎日でも会える。そんな軽口を言いながら荷ほどきをしていたら、敏朗は突然雅之を床に押し倒してきたのだ。
それは、たとえ未遂に終わったとしても。友情を壊すのには、十分な裏切りだった。
「遥が、敏朗に似過ぎているからか」
ゆるゆると頭を振り、雅之は椅子から立ち上がる。冷房が効き過ぎていて、少し体が冷えていた。
肩をさすりながら書斎を出ると、リビングのソファの上に若木のような足が見える。近寄ると、遥はぱかりと口を開けて寝ていた。
寝顔も、敏朗にそっくりだ。
寝室からタオルケットを持ってきて、体にかけてやる。少しもぞもぞしたが、起きはしなかった。
「……遥。お前は、敏朗のようにはなるな」
遥には聞こえていないだろう。だが、雅之は心底そう願わずにはいられなかった。
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