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第2話 忍び寄るもの

「なに。このジジくさいメシ」  ダイニングテーブルに並べた夕食の献立を見て、遥はあからさまに不機嫌な顔をした。  鯵の開きに、豚汁、キュウリの梅和え。遥には、市販のものだがミートボールも付けた。  良い食事だとしか思えず、雅之は首をかしげる。 「……だいたい、なんでごはん茶色いんだよ」 「玄米だからだ」 「ゲンマイ? マジかよ、そんなの食えねーよ」  ぶつくさ言いながら、ドスンと椅子に座る。これが自分の息子なら、文句があるなら食べるなくらい言うところだ。 「なら、明日はお前の好きなものにしよう。何がいいんだ」 「別に。じーさんの手作りとか、キモいから。ハンバーガーでも買ってきてよ」 「ハンバーガー……」  ハンバーガーなんて、長い間食べていない。息子の正晴が若い時は、たまに一緒に食べることもあった。  だが、今はわざわざファストフードを食べようとは思わない。小腹が減れば喫茶店に入り、コーヒーを飲みながらトーストかサンドイッチをつまめば十分だからだ。  久しぶりにハンバーガーというのも悪くないかもしれない。 「分かった」  頷くと、何故か遥は目を丸くする。昼間も、何かの拍子にこんな顔をしていた気がする。  まじまじと雅之を眺めていた遥は、ふんと鼻を鳴らした。 「なに? 怒りもしねーの? そうやって、おれのご機嫌とりしてんの? そういうの、マジでキモいから」  なるほど、と雅之は納得する。  不思議そうな顔をしていたのは、雅之が怒らないからだったのだ。 「そうだ。ご機嫌とりをして、なにが悪い。一週間一緒に暮らす相手だ。お互い気分良く生活するために、相手に気を使うのは当然だ。わざわざ嫌われる事をするよりかは、幾分マシだろう」  シレッとそう言ってやると、遥は少し鼻白んでいた。そして、黙ったまま箸を手に取る。小声で「いただきます」と呟いてから、豚汁に口をつけていた。  遥は、本当は素直な少年なのだろう。  やはり、敏朗とは少し違う。  敏朗なら、さらに文句を言い返してきたはずだ。  その後は二人とも一言も発さずに、黙々と食事を終えた。  遥は魚の食べ方も綺麗だし、不満たらたらだった割には完食している。  しつけのしっかりした、食べ盛りの素直な少年。それが、思春期の呪いにかかるとこうも面倒な生き物になってしまうのだ。  普段なら、食後はソファに腰掛けて本を読んだりするのだが、今夜は遥がソファを占領している。まるで、ここは自分の陣地だとでも言いたげだ。  いや、もしかしたら他に居場所がないだけかもしれない。  仕方なく、ダイニングテーブルで本を読んだ。雅之は、本は手当たり次第に読む。活字ならなんでもいいのだ。遥がダラダラとスマホをいじるのと変わらない。  ふと気が付けば、いい時間になっていた。慌てて浴室に飛び込んで、風呂の用意をする。  湯張りボタンを押すと、暖かいお湯がザバザバと出てきた。  昔は、こうじゃなかった。田舎では薪やガスの風呂釜だった。湯船に水を張ってから、それを釜で沸かしていたのだ。こんな風にお湯が出てきはしないから用意に時間がかかっていた。  だから、今の時期ならそのまま水で体を洗うことも多かった。  朝から敏朗と二人で外を駆けずり回り、汗と泥まみれになる。お茶を飲みに家に帰ると、母が二人の首根っこを掴んで風呂場に放り込んで、頭から水をぶっかけてくるのだ。  敏朗は笑いながら、びしょ濡れの雅之の背中を流してくれた。お互い洗いっこをして、水風呂で遊んで――。  またノスタルジーに浸っている自分に気付き、雅之は風呂場から出る。  今日はどうも調子が良くない。すぐに意識は敏朗との思い出に引きずり込まれてしまう。 「先に風呂に入ってきなさい。じじいの後はイヤだろう」  そう言うと、遥は眺めていたスマホを置いて、億劫そうに浴室に向かった。  ザーザーとシャワーを浴びる音がしはじめると、雅之はやれやれとソファに腰をかける。  少し疲れていた。遥に疲れたのか、思い出に振り回されたせいなのか。  ボンヤリと、何も考えずにただ俯いて座りこんでいると、ひたひたと足音が近づいてくる。 「じーさん?」  なんだ。もう上がったのか。湯船には浸からなかったのか。もっとゆっくりしてくればいいのに。  そう思い顔をあげると、ガンと頭を打たれた気がした。  湯上りで、濡れた髪を額に張り付かせた遥は、まごうことなく敏朗だった。日焼けしてパンのような色になった肌も、鹿のようにしなやかで引き締まった体つきも、水滴を玉にして弾くみずみずしい肌も。全て見たことがある。数十年前の敏朗だ。雅之が劣情を抱いた、美しい少年の肢体だ。 「――う、ああ。退こう」  逃げるように、ソファから離れた。遥を見ないように視線を足元に向ける。  遥はつま先の形まで、敏朗に似ていた。 「調子、悪いの?」  そう問われて、どう返事をしたものか数秒悩んだ。顔を上げてみれば、遥は少し困ったように眉を寄せていた。勝気そうな顔立ちだが、そうしていると、まだ幼い。 「いいや……年寄りだからな、もう眠いんだ」 「まだ九時だけど」 「ああ。俺は、風呂入って寝る」 「おれはどこで寝たらいいの?」  はじめは寝室に二つ布団を敷くつもりだった。だが、それはためらわれる。  劣情を覚えていた頃の敏朗にこんなにも似ている遥と、同じ部屋でなど寝られはしない。きっと、嫌な夢を見てしまう。 「好きにしなさい。寝室でも、そこのソファでも」 「いいの? なあ、ならテレビ付けててもいい?」 「ああ、構わないが……」 「マジ? やった」  小さくガッツポーズをしてから、遥は少し気まずそうにした。 「おれんち……おふくろケチだし、おれの部屋テレビねーし、夜リビングでテレビ見てたらぎゃーぎゃー言われるから」  なら、深夜番組を思う存分見る機会などなかなかないだろう。  由紀と正晴は、今頃バリ島のホテルでのんびりしている。遥だって羽を伸ばしていいはずだし、祖父というものは孫を甘やかすべきだろう。 「この家にいる間は、好きにしなさい。ただし、朝は遅くても八時には起こすから、夜ふかししすぎないように」 「十時」 「八時だ」 「じゃあ、九時」 「……九時な」  にかりと笑うと、白い歯が薄い唇から覗いた。どきりとしてしまい、浮き足立って落ち着かなくなる。 「……おやすみ遥」  その場から逃げ出して、寝室に飛び込んだ。布団を敷くと、さっさと横になる。  寝る時に冷房をつけるのは嫌いなので代わりに扇風機を回し、タオルケットに包まって固く目を閉じた。  だが、案の定眠気なんて吹っ飛んでいる。 (敏朗は死んだ。俺の敏朗への感情も死んだはずだ。敏朗の鼻を折った時に。まだ未練があるのか、冗談じゃあない)  悔しくて、雅之はタオルケットを強く握りしめた。あの夏の残響が、敏朗の含み笑いが聞こえた気がした。  ※※※※※  ガタン!  何かが倒れる音がして、うつらうつらしていた意識が覚醒する。  一瞬泥棒でも入ったかとゾッとしたが、よくよく考えると遥がいるのだ。物音くらいするだろう。  だが、続きて何かが割れるようなバリン! という音が聞こえ、流石に布団から跳ね起きた。  寝室を出てリビングを覗いてみるが、遥はいない。テレビはつきっぱなしで、通販番組が流れていた。 「遥?」  声をかけると、書斎からカタンと音がした。  なぜ、書斎なんかに。  何故か嫌な予感がして、慌てて書斎に飛び込む。  そこには、呆然と立ち尽くしている遥がいた。  足元には、写真立てが落ちている。中に入れていた妻の写真は、無い。 「……あ……」  遥は信じられ無いものを見る目で、自分の手の中と雅之の顔を見比べる。  グシャグシャに丸められた妻の写真と、血の気が引いた雅之の顔を。 「何を、何をしてる」 「……え、おれ……本を、本を借りようと……」  言い訳がましい事を言いかけたが、遥はキッと柳眉を逆立てた。  そして、手の中の写真をビリビリと破り捨てる。 「うぜーんだよ! こんなの! いい歳して、女の写真なんか飾ってさ! キッショい! ああ、だいたい、おれはこんなとこ来たくなかったんだ! 出水のおっちゃんなんかっ、クソ! 大嫌いだ! みんなみんな、大嫌いだ!」  わめきながら、千切れた写真を撒き散らし、本棚に蹴りを入れた。バサバサと、本が落ちて床に散らばる。  涙目で怒り狂う遥は、まるで捕らえられた野良猫のようだった。手がつけられない。  それを、雅之はただ眺めているしかなかった。無理に止めようとすれば、余計に頭に血がのぼるだろう。  静かに遥を見ていると、部屋を荒らし尽くした遥はその場にへたり込んだ。  肩で息をしながら、悔しげに床に爪を立てる。  この少年の中には、寄る辺のない怒りや悲しみが渦を巻いている。それはまるで台風のようでもあるし、ジリジリを肌を焼く夏の日差しのようでもあった。 「……遥」 「……」 「遥。お前は、結婚に反対だったのか?」  小さく頷いた遥は、静かに涙を流し始めた。  やはり。正晴はいつもこうだ。  正晴が楽観的過ぎたその結果、遥が深く傷つく羽目になってしまった。  深いため息をついて、雅之は遥のそばに膝をつく。チクリとした痛みを感じ見てみると、写真立てのガラスの破片で膝を切ってしまっていた。 「あ……」 「危ないから、片付けておく。遥、リビングにいなさい」 「怒んねーの? どうして、じーさんは全然、怒んねーの?」 「年寄りだからだ」  そう茶化すと、遥は不思議そうに首を傾げた。怒りや悲しみに飲み込まれていた遥の瞳には、生来の素直さが戻ってきている。  つい、遥の肩に手を置いて、その瞳を覗きこんでしまった。  なんと澄んだ目だ。  これを曇らせているのは大人の身勝手さなのだ。 「……じいちゃんに……浅井のじいちゃんに似てるからだろ?」  そう問いかけられ、息が止まりそうになる。  敏朗と同じ顔をした遥は、敏朗によく似た意地の悪い表情をした。片眉を上げる、性格の悪そうな顔。 「やっぱり。オレ、じいちゃんに聞いた事あるんだ。昔、出水のじーさんはじいちゃんの事が好きだったって」  何という事を。  言葉を失った雅之に、遥は更に言葉のナイフで切り込んでくる。 「ずっと気持ち悪い目で見てたもんな、オレのこと。気付かねぇとでも思ってたのかよ?」  吐き気がする。  あの日の敏朗を思い出した。あの、友情を裏切られたあの夏の日の。 「……死ねよ、クソホモじじい」  そう吐き捨てて、遥は書斎を出て行った。  座り込んだまま立ち上がる事すら出来ず、雅之は荒れた部屋の真ん中で虚空を見つめる。 (敏朗、敏朗よ。お前はこんな形で俺に仕返しをするのか。自分に似た孫を使って)  両手で顔を覆い、嗚咽をかみ殺す。  泣いてたまるか。敏朗の思うつぼだ。だが、悔しくて情けなくて、雅之はいつまでも立ち直れずにいた。  ※※※※※  朝日が窓から差し込んできてようやく、雅之の体はぎこちなくではあるが動き出した。割れたガラスを拾い集め、紙袋に入れる。本棚には、元あったように本を戻した。  妻の写真は、とてもじゃないが貼り合わせたりはできそうにない。かき集めて、そっとくずかごに入れた。妻の写真はまだアルバムの中に残っている。特によく撮れた妻のお気に入りの一枚だったから悲しくはあるが、遥を恨むような気持ちはなかった。  悪いのは、大人だ。  ガラスの入った紙袋を持って書斎を出る。  リビングで、遥がソファに座ってぼうっとしているのが見えた。遥は雅之が出てきたのに気付くと立ち上がり、バツが悪そうに俯いた。 「……おれ、始発で帰るから」  遥からは、すっかり毒気が抜けたように見える。自分の服の裾を掴んで、所在なさげにしていた。  まだ何か言いたそうな様子だが、自身のつま先を睨み黙りこくってしまっている。 「だめだ。未成年が一人で何日も留守番なんて危ないだろう」 「でも……おれ、なんかおかしいんだ」 「おかしい?」 「あんな事……する気も、言う気もなかったんだ、ほんとは……」  衝動的な行動だったという事だろうか。確かにあの時の遥は錯乱していたようだった。 「あの写真……死んじゃった奥さんなんだよな。おれ、出水のおっちゃんに聞いて知ってたのに。破っちゃって……おれ、その」 「遥。謝ったりする必要はない」  遥はようやく顔を上げた。一晩中起きていたのか、顔色が悪い。雅之も似たり寄ったりだろう。 「自分が何をしてしまったのか。自分でちゃんと理解できていれば、それでいいんだ」  雅之がそう言うと、遥はゆっくりと瞬きをした。そして、くすりと笑みを浮かべる。 「いいカッコしい」 「ああ。格好悪いじいさんには、なりたくない」  遥は屈託無く笑ってくれて、雅之も少し気が楽になる。  きっと本心では、クソホモじじいだと思っているのだろう。  その事実は消えないが、表面上はわだかまりは溶けたように見えた。それだけで、少しは救われる。  遥は自分のキャリーバックの中から絆創膏を持ってきて、雅之の膝に貼ってくれた。気遣わしげな手つきからは、彼が本当に反省しているのだと伝わってくる。  そして、その後は寝室に布団を並べて二人で床についた。少しは寝なくては。  二人して、一晩中思い悩んでいたのだ。頭も体も疲れきっている。 「九時に起きる?」 「いや……昼まで寝ちまおう。先に起きた方が負けだ」  タオルケットに包まる遥に笑いかける。遥は照れくさそうにタオルケットで鼻から下を隠してしまった。  その仕草は幼くて、敏朗の気配なんて感じない。書斎で暴れた時とは、まるで別人だ。 「へんなの。普通、逆じゃねーの?」  やっと本当の遥を前にしている気がした。  眠たそうに細められてゆく遥の目を見ていると、雅之も吸い込まれるように眠りに落ちたのだった。

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