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第5話 夏の呪縛

気怠い体をなんとか奮い立たせ、布団の上で身を起こす。  水分不足のせいか、散々鳴かされたからか。喉と口の中がカラカラだ。  隣では裸でタオルケットに包まっている遥がスースーと寝息を立てている。  こんな子どもと、何をしているのだろう。  だが、そんな後悔は今更だ。  初めて抱かれてからの三日間、蜜月を過ごしてしまったのだから。もうこの体には遥が染み込んでいる。  布団の横のくずかごには、昨日買って封を切ったばかりのコンドームが、全て使い切られて捨てられていた。  全く。セックスを覚えたばかりの十代の性欲は、とどまる事を知らない。  遥を起こさないように、そろりと寝室を出る。  冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出して、コップ一杯一気に呷る。冷房で冷えてはいるが芯には熱が残った体が、キンと引き締まるようだ。  その後は風呂で汚れた体を洗い、歯を磨いて髭を剃った。  体のどこもかしこも重だるい。特に、尻の穴は熱を持ってじくじくしていた。肛門科の世話になるような事には、ならなければいいが。  そこも綺麗に洗って、遥を受け入れる用意をしておく。  今日は、最後の日だ。  もう、この短い蜜月は終わる。  今日の夕方には、遥は由紀の元へ帰るのだ。  だが、その前にやらねばならない事があった。  遥と共に、過去の亡霊と決着をつけるのだ。 「雅之さん」  シャワーの音に紛れ、脱衣所から遥の声がした。  扉を開けてやると、照れくさそうにしながら遥が中に入ってくる。 「起きたなら、起こしてよ」 「まだ寝ていて良かっ……んんっ」  問答無用で唇を奪われ、首筋に吸い付かれる。諦めて、雅之はシャワーを止めた。 「するなら……布団でしよう。風呂から上がるまで待っててくれ」 「んー……やだ。ここで一緒に体洗いながらする」 「遥……」 「だって、一秒だって離れたくない。今日で最後だから」  そう言って、遥は雅之の裸体をきつく抱きしめてくる。  寂しいのは、遥も同じだ。  愛おしさに雅之は笑みを浮かべ、遥のしたいようにさせてやる。 「雅之さん、好きだよ……大好きだ」  甘い睦言も、今日限り。  今日、全ては終わる。  そう思うと、浴室だというのに雅之も淫らな声を抑えられなくなった。  ※※※※※※  雅之が住む街から電車で二駅。敏朗が晩年を過ごした街がある。  その郊外の霊園に、敏朗の墓はあった。  本来なら敏朗は、故郷にある先祖代々の墓に入るはずだった。だが由紀が離婚し本家の不興を買ってしまったため、敏朗は死んでも故郷に戻る事はできなかったのだ。  墓参りに来たのは、初めてだった。  由紀の家にある仏壇と位牌に手を合わせに行ったことはある。だが、敏朗の骨が埋まっている場所に、平常心で立てる自信がなかったのだ。  盆には少し早いからか、墓参りに来ているのは遥と雅之だけだった。  少し寂れた霊園の片隅に立つ、質素な墓石が敏朗の墓だ。  菊の花と、線香。そして、敏朗の吸っていた煙草と缶ビールを供える。 「じーちゃんの……浅井のじーちゃんはさ。よく雅之さんの話してたんだ」  墓に手を合わる雅之の横で、ポケットに手を入れたまま不機嫌そうに遥は言った。  キャップのつばの下で、ギラギラと燃えるその目には見覚えがある。  五年、敏朗を焼いたあの火葬場で。 「じーちゃん、言ってた。雅之さんは、ずっと自分を好きだったんだって。なのに、自分を置いて村を出て行ってしまったって。でも、ほんとは違うんだよな」 「違う?」 「うん。なんかさ……体が勝手に動いたりしてた時……じーちゃんの気持ちが、おれにも伝わってきたんだよ」  遥は自分の胸を押さえ、Tシャツの上からそこを鷲掴みにした。  苦しげだが、憎々しげでもある。遥にとって、敏朗はどんな祖父だったのだろうか。 「じーちゃんの方が、ずっと雅之さんを好きだったんだ。子どもの頃から、死ぬまでずっと」  ジージーと、耳をつんざく蝉時雨。  言葉が失われ、夏の日差しに魂ごと焼かれるような。何も考えられず、何の感情も浮かんでこない。  ただ、蝉の声の向こう側から敏朗の呼ぶ声が聞こえる気がした。  ああ。あの幼い日の夏。  入道雲の浮かぶ紺碧の空を背負って、白い歯を見せて笑う敏朗。日焼けした肌に、汗の雫がキラキラ輝いていた。  あの夏が、呼んでいる。 「そう……ずっと、好きだったんだ。雅之」  吐き出された呟きには、疲れた大人の悲哀が滲んでいた。  顔を見なくても、どんな顔をしているのか分かる。敏朗の声だ。  やっと、気が付いた。  敏朗を呼び寄せたのは、雅之自身だ。  雅之が遥を見て敏朗を思い出すから、敏朗はその思い出に引き寄せられて黄泉の国から帰ってきたのだ。 「ガキの頃からずっと……大人になれば、あの退屈な田舎から二人で逃げ出して、二人で一緒に……そう思っていたんだ」 「でも、お前は女を作ったじゃないか」 「それは……だから……わかるだろ。あんな田舎じゃ、普通を装うには、ああするしかなかった」  思わず、笑ってしまった。  彼女達は隠れ蓑だったのか。なんて、くだらない。 「いつか二人で暮らせる基盤が整えば、お前と一緒に田舎を出るつもりだったのに。お前は一人で進学して街へ出ていっちまって」 「お前、俺が大学生の内に結婚したろうが」 「だから、お前がオレを置いてっちまっうからだろ」 「つまり……お前は、自分は女と遊んでいたくせに、何の約束もしていないのに、お前の準備が整うまで俺が黙って待ってると思ってた訳か」  嘲り笑って、雅之は墓石を見下ろした。身勝手な男だ。本当に。  墓石に蹴りを入れてやりたいくらいだったが、流石にそれはしなかった。由紀が建てた墓だ。彼女に悪い。 「それの何が悪いんだ!オレは信じていただけだ、お前との絆を、お前との思い出を!お前の気持ちは変わらねぇと、信じてただけだ!」  嘆く敏朗の声は、まるで蝉が短い命を燃やし尽くすような声だった。  もうすぐ消える敏朗の、精一杯の叫びだ。 「あの夏祭りの夜……二人で、花火をした夜だ。オレはお前にキスをしたかった。抱きたいと思った。ずっと、後悔してたんだ。あの夜、お前をものにしちまうべきだったんだよな。だけど、勇気がなかった。……なあ、雅之。もしそうしていたら、オレはお前を手に入れられたのか」 「ああ、きっと」  だが、そうはならなかった。  敏朗にも雅之にも、一線を越える勇気はなかったのだ。  だから、二人の初恋は、どこまでいっても決して成就することはない。 「でも、それをしたのは遥だった」  ふうっと。敏朗が息を飲んだ。そして、堪え切れないと言うようにくっくっと低い笑い声をこぼす。その声は次第に甲高い哄笑へと代わり、霊園に木霊した。驚いた蝉がジッと鳴いて飛び立つ。  敏朗の方は見ないようにして、墓石だけを睨みつける。見たら、連れていかれそうな気がするからだ。  それに、見なくても分かる。今敏朗がどんな表情なのか、雅之には分かるのだ。 「ハハハ! 残念だな、雅之! 遥の初恋はニセモノだ。オレが中にいるから、オレの感情を自分のものと勘違いしちまったんだ。あとは、セックスに溺れてるだけだろなぁ。自分んちに帰ったら消える。他の女を抱けば、お前とのことも忘れちまうぜ」 「それでいい」  そんな事は百も承知だ。  雅之は、自分のへその下あたりにするりと指を這わした。ズボンの布地越しに、陰毛の生え際あたりをなぞる。 「この辺りまで、遥のが届くんだ」 「……な、」 「俺を抱いたのは、遥だけだ。それがこの体には消えずに刻まれているから、遥が忘れても構わない。俺は絶対に忘れないからだ。俺は冥土の土産に、遥の初恋の思い出を貰っていく」  ザリッと後退る音がして、敏朗の気配が離れる。  はあはあと荒い息遣いが、蝉の声に紛れていた。 「……敏朗、お別れだ。もう俺はお前を思い出さない」  かすれるような声で、雅之、と。敏朗が呼んだ。だが、それは過ぎた日の残響なのだ。  ふいに熱い体が背中側から抱きついて、強く雅之を抱きしめてきた。  汗を吸ったTシャツが肌に張り付き不快だが、悪い気はしない。  だが、内腿に硬いものが押し付けられると、さすがに困ってしまった。 「雅之さん……」 「遥、ここでは駄目だぞ。人が来る」 「じゃあ、キスだけ。見せつけてやりたいから。じーちゃんに、雅之さんはおれのだって」  雅之が頷いてやると、遥は抱擁を解いた。遥に向き直ってみれば、雅之を見上げる遥はすっかり雄の顔をしている。  キスしやすいように少し屈んでやると、遥は雅之の首に腕を回して引き寄せ、雅之の唇を奪った。  唇を舌でなぞり、開けてくれとねだる。答えてやれば、ぬるついた甘い舌が口内に潜り込んできた。  舌を、上顎を、遥の舌が撫で回す。この数日で、すっかりキスが上手くなった。 「んぷ、あっ」 「あ、ふぅ、雅之さん……忘れないよ……おれ、絶対忘れない……」  泣きたくなるような、胸の痛みと愛おしさ。忘れてくれ、俺が敏朗を忘れたように。その言葉を、雅之は二人分の唾液と共に飲み込んだ。  ※※※※※※  クリスマスが終わり、商店街は年末の掻き入れどきに活気付いていた。  この商店街を歩くと、花火大会の日を思い出す。  あの時は、今のように一人ではなかった。楽しげに笑う少年と共に歩いていた。  寂しさに白いため息をつく。あの夏の日々を思うと、へその下あたりがじくじくと甘く疼いた。  それが辛くはある。だが、体がちゃんとあの夏を覚えているという事が、嬉しくもあった。  忙しない人の流れに乗って商店街を歩き回ったが、結局餅屋で鏡餅を買っただけだった。一人だとおせちの用意などもわざわざしない。餅は好きだから、それだけあれば良かった。  鏡餅の入った袋をぶら下げて、凍えないうちにと足早に自宅のあるマンションへと戻る。 「あ……」  十階でエレベーターを降りると、雅之の部屋の前に三人の人影があった。 「あ! 親父!」  こちらに気付いた正晴が、ニコニコ笑って駆け寄ってきた。少し唖然としている雅之から鏡餅を取り上げると「重いだろ、持つよ」とウインクをしてきた。 「おい、正晴……いきなりなんだ」 「お、お義父さん……ご無沙汰してます……あの、いきなりって……あなた連絡してなかったの?」 「あー! 忘れてた。でも、いいだろ別に。近くに来たからさ、寄ったんだよ。晩飯一緒に食おうぜ。由紀が作ってくれるからさ」  申し訳なさそうに頭を下げる由紀は、結婚から数ヶ月で少しぽっちゃりとした。顔色もいいし、どうやら幸せにやっているらしい。  だが、やはりこの不詳の息子には困らされているのか、自分の夫を手のかかる子どもを見るような疲れた目で見ていた。 「ほら、遥。挨拶しろよ。久しぶりだろ、じーちゃんに会うの」  そんな正晴が、後ろで所在無さげにしていた遥の背を押した。よろけながら前に出た遥は、うっとおしげな目線を正晴に向けてから、チラッと雅之を見る。  胸が、ずきりと痛む。  その目には、あの夏の暑さなど残ってはいないように見えたからだ。 「……どーも」 「……ああ」 「は、遥。ちゃんとご挨拶しなきゃだめよ……お義父さんすみません」 「ああ、いいんだ。気にしなくていい」  ぷいと顔を背けおざなりな挨拶をする遥に、雅之はどうしたらいいのか分からずただ頷いた。  慌てて由紀は遥をたしなめていたが、正晴は不思議そうに首を傾げているだけだった。全く、この息子は。  とりあえず雅之は玄関の鍵をあけ、中に三人を招く。  遥はまっすぐにソファに向かうと、以前と同じようにそこへ横になる。そしてイヤフォンをつけてスマホをいじり始めた。 「お邪魔しますも言わないで、遥は」 「由紀。構わないから、そっとしておきなさい」 「でも……」 「前に来た時も、あそこがお気に入りだった。うちでは、遥は好きなようにしていいんだ」 「父さん、意外と孫バカだな」  カラカラと笑う正晴に、作り笑いを返す。  孫バカどころか。体まで差し出したのだ。この老人の身も心も、遥の好きにさせたのだ。  だが、当の遥はそんな事は忘れたらしい。  あの墓場で敏朗が言っていた通り。  敏朗が遥の中から消え夏が終われば、遥のまやかしの初恋は跡形もなく消え去ったのだろう。  その晩は、由紀が鍋の準備をしてくれた。一人では鍋など中々できないから、ずいぶんと久しぶりだ。ちゃんこ風の寄せ鍋で、魚介や肉、豪快に切った野菜や薄揚げなんかがどっさりと土鍋に詰め込まれている。  ふて腐れた顔の遥も、食欲には勝てないようだ。無言のまま、人一倍食べていた。 「父さん、由紀って料理上手だろ」 「ああ、そうだな」 「ほら、つみれ煮えてるぜ。あ、遥もほら」 「うざ……自分で取るから。箸つけたの入れんなよ」  ニコニコと鍋をつついていた正晴は、浮いて来たつみれを雅之と遥の器に取り分けた。しかし、遥は煩わしげにそれを器から取り出して、正晴の方へ放り込む。  正晴は気にした風ではないが、由紀はハラハラした顔をしていた。  まだこの家族の間のわだかまりは、消えた訳ではないようだ。 「はっはっは! 細かいこと言うなよ遥!」 「うっせーよ……」 「なかなか、懐かないんだよなー。今日もな、みんなで出かけるってのに、勉強したいから残るって言うんだよ。むりやり連れ出して来たけど」 「正晴。遥は受験生だろう。勉強したいに決まってる」 「まあ……でもたまには気晴らししないとさ」  この調子で遥の受験勉強を邪魔していないだろうなと、少々心配になる。  険しい顔で口をもぐもぐさせる遥を見つめていると、遥もこちらの視線に気づいた。しかし、やはり目を逸らされてしまう。 「遥、夏休み終わってから急に志望校変えたから……」 「あー、そうだったな。医者になりたいとか言い出して」  息子夫婦の会話は耳を素通りして、鍋がくつくつと煮える音だけがやたらと頭に響いた。  もはや、遥はこちらを見ようとすらしない。  だが、これでいい。夏は終わったのだから。  そう自分を納得させて、雅之はただの祖父の顔をして味のしない鍋を食べた。  ※※※※※  ようやく暗く冷たい土の中から這い出て来た蝉たちが、一斉に命の歌を歌いはじめる。  そして、ぐらぐらと燃える太陽の火を浴びて、アスファルトが焼ける匂い。  また、夏が来た。  ほとんど毎日、雅之はベランダに出てその暑さを噛み締める。  汗が吹き出し体を濡らす感触は、遥に抱かれる感覚を思い出させてくれた。  甚平の上から、へその下、遥の欲望を受け入れていた場所を撫でる。 「……は、あ……」  思わず、甘い吐息が漏れた。  年のせいか自慰をする習慣はすっかりなくなっている雅之だが、こうして遥を思い出すと体が疼いて仄かな快楽を得た。  ベランダの手すりにもたれて、うちももを擦り合わせる。 「は、るか……」  もう、雅之の中で夏の思い出は、敏朗とのものではなく遥とのものになっていた。  蝉の声も、夏の匂いも、暑さも、あの田舎の少年時代ではなく遥との秘め事を思い出させる。  瞼を閉じ遥の思い出に浸っていると、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。  回覧板だろうかと、ベランダから冷えた室内に戻る。  温度差にぶるりと身ぶるいしながら、玄関に向かい扉を開けた。 「……は……」  そして、言葉を失った。  そこに立っていたのは、今しがた瞼の裏で雅之に微笑みかけていた……遥だった。  大きなキャリーバックをカラカラと押し引きしながら、遥は暑さのせいか真っ赤になった顔で、雅之を見つめている。 「……は、遥」 「……夏に、なったからさ」  遥は、背丈が伸びていた。  もう目線は雅之とほとんど同じ高さだ。  きっと、もうすぐ追い抜かれるだろう。 「また、呪われにきたよ」  戸惑う雅之の体を手繰り寄せ、遥は雅之を硬く抱き締めた。  首筋に浮いた汗をペロリと舐められ、思わず甘い声が漏れる。 「……どうして……遥……」 「今日から、夏休みだから……終わるまで泊めてくれる?」 「それは、構わないが……だが」 「良かった。な、雅之さんはまだおれのだよな」  少年から青年に変わり始めた遥は、少し声も低くなった。雅之の背中を撫でる手も、一年でずいぶん大きくなったように思う。  雅之が恋をしていた頃の敏朗を追い抜いて大人に近づいた遥に、雅之はくらくらするほど胸が高鳴った。 「ああ、遥のだ……全部遥のだ」  拒まなければならないのは分かっているが、甘い衝動を堪えきれなかった。  満足そうに頷いて、遥は雅之の髪を撫でる。孫にそんな事をされているというのに、雅之はうっとりとした気分になった。  もう遥は立派に男で、自分はその女なんだとはっきりと自覚する。 「今、自分がどんな顔してるのか分かってる?」 「分からない……」 「誘ってるみたい。やらしー顔」  ごろりと、遥の喉仏が上下する。一年前はほとんど目立たなかったのに。  その喉仏に口付けをして、遥の硬くなり始めた欲望に手を這わした。 「そうだな、誘ってる」  激しく唇を奪われ、もつれ合うようにして玄関になだれ込む。  お互いの汗で湿った服を脱がせあいながら、二人は玄関マットの上で体を絡ませあった。  もはや、番う事しか頭にない動物のようになっていた。  夏が終わるまで、ずっとこうなのだろう。遥の夏は俺だけのものだと、雅之は薄暗い喜びに浸る。  ガチャンという扉が閉まる音と共に、二人はまた夏の呪縛に閉じ込められた。

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