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第1話 近衛の少将は隠し事をする

「――歌の才までお隠しとは、九重の少将殿はまったく油断がならぬ」  嫌み混じりの嗄れ声が部屋に響き、続けてさざめくような密やかな嗤いが起こった。  扇の内側で声を低めて嗤っているのは、いずれも名のある貴族たちだ。その視線は末席に座る若者に向けられている。――四位以上の黒い袍を纏った公卿たちの中で、ただ一人鮮やかな緋の袍を身に着けた見目麗しい青年に。  近衛府少将の九重(ここのえ)緋立(あけたつ)は、嘲笑を迎え撃つように切れ長の目を細めて微笑んだ。 「これは恐れ入ります、大納言様」  透き通った声と玲瓏たる笑みに呑まれ、笑い声が掻き消えた。  沈黙が下りた部屋の中、緋立はとどめの視線を重臣たちに投げかける。目が合いそうになると、どの公卿も頬を赤らめてあらぬ方を見るのが面白い。  緋立は最後に当て擦りを口にした大納言に視線を向け、一際華やかな笑みを浮かべて見せた。 「隠すほどの才もなく、ただ恥入るばかりにございます」  老人が顔を赤くして黙り込んだのを確かめてから、長い睫毛を伏せて言う。静かな室内に見惚れたような溜息が零れ落ちた。  ――二十歳を過ぎたばかりの九重緋立は、宮中で『近衛府の凍る君』とあだ名されている。  すらりとした細身の長身に、豊かな射干玉の黒髪と雪のような白い面。冷たいほど整った美貌を飾るのは、黒曜石のように黒々とした切れ長の双眸。凛々しい武官束帯で初めて宮中に現れた時から、女官達の溜息は尽きることがない。  恋のきっかけを掴もうと、出仕の際には女房達が御簾の向こうに列を成す有様だ。屋敷には溢れんばかりの恋歌が届くと音にも名高い。しかし当代一の貴公子は、やんごとない姫からの歌にも宮中一の才媛からの誘いにも、まるで応じる気配がなかった。女房達は恨みと嘆きを込めて、あの氷のような美貌と同じくきっと心も冷たく凍っているのだと噂し、先の二つ名を緋立に授けた。  そんな女房たちの恋慕の視線とは対照的に、貴族たちが緋立に向ける目は決して甘くない。  出自家柄が物を言う宮中に於いて、噂にも聞かれぬ家の主が出世を重ねているのだから、見る目が厳しくなるのは自然の成り行きである。どこぞの名家に通っているのを隠しているのではと、当て擦られるのも日常だった。 「歌の達者である大納言様に、是非とも御指南いただきたく……」  大輪の花のように微笑んで、緋立は件の大納言に頭を下げて見せた。まともに相対した老人は、もう言葉を出せない。『凍るような』と評される緋立の美貌は、笑みを浮かべると一変して息を飲むほどの艶やかさを帯びる。やわやわとした女たちにはない、挑みかかるような色香に襲われて平静でいられる人間はほとんどいなかった。  緋立はそれを心得ているので、敵意を向ける相手には敢えて最上の笑みを浮かべて見せる。美しい相手から微笑まれて、敵意を示し続けることができる人間は少ない。  おかげで緋立は後ろ盾を持たぬ身でありながら、今のところ順調な出世を重ねることができていた。  それに――。 「そう言うな。若く瑞々しい歌を私は好ましいと思うぞ」  その時、御簾の向こうから軽やかな笑いとともに擁護の声が放たれた。声の持ち主は、この場に武官である緋立を誘った東宮だ。  東宮は十ほど年下の武官を弟のように思うようで、機会あるごとに緋立を引き立ててくれる。今日の歌合に誘ってくれたのも、目をかけている若者がいると公卿たちにお披露目する心づもりだったのだろう。  それ自体は、出世を望む緋立にとってありがたいことではあるのだが――。 「それにしても……」  東宮が急に声音を変えた。  次に何を言い出すか予想がついて、緋立の笑みが強張りそうになる。わざとらしいほど残念そうな声で、東宮は重臣たちに嘆いた。 「……少将が隠し事を好むのは事実だな。妹姫を出仕させてはどうかと、私が熱心に勧めておるのにいっこうに良い返事をせぬ」  ――そら来た……!  思わず顰め面が浮かびそうになるのを隠すため、緋立は深々と頭を下げて平伏した。  何かと緋立を助けてくれるありがたい東宮だが、どこから聞きつけたのか『妹姫』を宮中に出仕させよと迫ってくるのだけは困りものだ。ここの所、顔を合わせるたびにその話題を出されて緋立は難渋していた。  そっとしておいてほしいのに、東宮が興味を示すものだから、この頃は『妹姫』に宛てて兵部卿の宮や参議、果ては色好みで名高い中納言からも恋文が届く始末。緋立にとっては懸念すべき事態になっていた。  内心焦る緋立を知ってか知らずか、東宮はなおも言葉を続ける。 「其方の妹君であれば、月のような美姫に違いあるまい。慣れぬ宮仕えを躊躇うのであろうが、私は相応の身分を用意するつもりであるのだぞ」  御簾の向こうから聞こえる声には切り込むような響きがあった。今日の東宮はそうそう容易く逃さぬつもりであるらしい。緋立はごくりと唾を飲む。  『妹姫』に関しては、これまで明言を避けてのらりくらりと躱してきたが、ここらあたりではっきりさせねばならないようだ。  摂関家の力が強い当代に於いて、東宮はなかなか鋭い政治感覚を有している。初めにこの話が出た時には、こういう出世の手段もあるという助言だと思っていた。  九重家のような身分低い家の娘なら、出仕させても宮中の力の均衡が崩れることもない。東宮にとっても遠慮が要らずに使い勝手がいいのだろう。それゆえに、わざわざ声を掛けてくれただけだと思って聞き流していた。そのうち忘れてしまうだろうと高を括っていたのだ。  しかし、東宮の執着は思った以上のようだ。公卿ばかりが揃うこの場に緋立を呼んだのも、もしかすると、皆の前では断れまいと考えた末の作戦かもしれない。公卿やその子息の中には、『妹姫』に熱心に恋文を送り続けるものもいる。彼らへの牽制の意味合いもあるのだろう。  背筋にジワリと汗が滲んだ。  身内が東宮に望まれるなど、通常は殿上人にとってこれ以上ない僥倖だ。だが緋立には、この話をどうしても受けられない理由がある。  緋立は御簾に向かって恭しく頭を下げ、いかにも言いにくそうに言葉を発した。 「――勿体ないお言葉。しかしながら、我が妹は取り柄一つなく、宮仕えなどとても務まらぬ不調法者にございます。行く末はいずれ出家して尼にと本人が望んでおりますゆえ、どうぞお忘れくださいますよう……」  はっきりと断りの言葉を述べた緋立に、公卿たちが小さく騒めいた。『ああ、くそ……!』と緋立は胸中で口汚く罵る。  殿上人は噂好きだ。明日には宮中でいくつもの不名誉な憶測が飛び交うだろう。東宮からの出仕の誘いを断らねばならぬのだから、よほどの欠陥があるのだと噂されるのは間違いない。腹立たしいが仕方なかった。  東宮さえ気に掛ける姫君は果たしてどのような美姫だろうかと、怖いもの知らずの求婚者に忍んでこられようものなら、そちらの方が一大事だ。 「なんと……」  まさかはっきり断られるとは思ってもみなかったらしい東宮が、御簾の向こうで絶句した。  やがて、思い悩むような苦々しい声が届いた。 「うら若き姫がそのように思い詰めるには、相応の理由があるのであろうな……」  緋立はここぞとばかりに沈痛な声を出した。 「……口にするのも憚られることにて……」  語尾を濁せば、さすがに東宮と言えどもそれ以上の追及はなかった。視線を交わし合う公卿たちの反応が気にはなるが、これで二度とこの話に煩わされることがなければ上等だ。  緋立は密かに安堵の息を吐いていた。

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