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第2話 近衛の少将は女名を持つ

「――ああもう、まったく! 東宮様にも困ったものじゃ!」  荒々しく吐き捨てて足を踏み鳴らす緋立に、袴の紐を結んでいた家人は苦笑を漏らした。ここは緋立の屋敷で、膝を突いて着替えを手伝うのは乳兄弟でもある家令の隼人だった。  不機嫌な主に、隼人は手を止めることなく穏やかに返す。 「まぁまぁ。これで恋文の嵐も収まるでしょうから、却って良かったではありませんか」 「良うないッ!」  宮中での貴公子ぶりをかなぐり捨てて、緋立は怒鳴った。  緋立の生まれた九重の家は、元はと言えば京を遠く離れた吉野に本家を持つ田舎貴族である。  若輩の身で出世したため宮中では澄ました顔をしているが、実際の緋立は結構気が強く、腹を立てれば直ぐ顔に出る直情的な性格をしている。腹の探り合いのような宮中の嫌み合戦が本当は大の苦手で、自宅に戻って隼人に文句を聞いてもらうのが一番の癒しだった。  乳兄弟の隼人もその辺りは良く知っているので、顔を赤くして怒る主人を『はいはい』と軽く受け流す。緋立は苛々と床を踏みながら嘆いた。 「ああぁ、明日には二目と見られぬ醜女だの、頭が不自由だのと噂されるのじゃ。悪し様に言われる私の身にもなってみよ」  鬱憤をぶつけるように愚痴る緋立を、長年の従者は慣れた様子でいなす。 「噂されるのは『緋立』様ではなく、『龍田』姫様でございます」 「どっちでも同じことではないかッ!」  結んだばかりの袴の紐を揺らして、緋立は憤懣やるかたなしと再び足を踏み鳴らした。 「『龍田』も『緋立』も私じゃ!」  怒りを露わにする緋立が身に纏っているのは、練り絹の白い小袖に濃色の打袴の姫装束だ。背は黒々とした長い髢で覆われ、色白の面には薄く化粧が施されていた。宮中での凛々しい束帯姿と打って変わって、花のように可憐な姫君姿だった。  そのなりで怒鳴る緋立を、隼人は呆れたように窘めた。 「では、龍田さま。姫君はお声を荒げるものではありません。御姿に相応しいお振舞いをなされませ」  小袖の肩に袿を着せかけながらぴしゃりと言われて、緋立はムッと口を尖らせた。  色鮮やかな重ね袿に袖を通しながら、緋立は姫君らしく小さな声で不平を漏らす。 「暑いゆえ、袿は着とうない」  暦の上ではもう初秋のはずが、今年は蒸し暑い日が続いていた。  宮中へは堅苦しい束帯で出仕しているのだから、家の中では寛いだ楽な姿でいたいものだ。そう訴えたが、日頃従順な家人は断固とした口調で切り捨てた。 「なりません。女房達を見習いなさいませ」  緋立が隼人には言いたい放題言うように、隼人の方も主人に遠慮がない。裳唐衣(十二単)の女房達よりマシだと言われれば、それ以上は文句も言えなかった。  鮮やかな緋色の地に金糸銀糸で紅葉を描き出した袿を、大人しく肩に掛けられる。と、蒸し暑さを癒すような清しい菊花の香が立ち上った。緋立が好きな香を焚きしめておいてくれたのだ。  家人の心遣いを感じながら、緋立はしぶしぶ脇息に凭れかかった。  渋面の主を後目に、隼人は明神の依り代となる銅鏡を鏡台に飾り、その前に酒の入った瓶子を置いて準備を進めていく。今宵は九重家が祀る明神の祭日なのだ。  これより、西の対の屋は当主と明神が一夜を過ごす神聖な場となる。他の者はすでに母屋へと移り終えた。刻限が近づき、手早く道具を片付けて出ていこうとする家人に、緋立は声をかけた。 「せめて格子を上げてくれ」  少しでも涼を得ようと檜扇を使う緋立に、乳兄弟は苦笑しながらも望みの通りにしてくれた。  足音が遠くなるのを待って、緋立は神棚の灯りに照らされる鏡を見つめた。  磨き上げた銅鏡にぼんやりと浮かび上がるのは、白い面に紅を刷いた妙齢の姫。袿の裾が緩やかに広がり、その上を長い黒髪がとぐろを巻いて広がっている。非の打ちどころない女姿だ。  緋立は人知れず溜息をついた。  ――九重の家というのは、元はしがない下級貴族である。その上、何代か前の当主が権力争いに巻き込まれたせいで、京を追われて吉野に流れることになった。  当主は余程無念だったのだろう。京の都に返り咲きたい一心で吉野の山の神と契約を交わしたというのが、緋立が父から伝え聞いた話だ。この世の栄華を手にする代わりに、一族の娘を明神に捧げよう、と。  以来、娘たちは次々と良縁を掴み寄せた。吉野に大きな荘園を築いて財を蓄え、緋立の父の代にはついに念願の都入りも果たした。亡き父は昇殿を許されるまでになり、緋立もまた家柄に見合わぬ出世をして、今は正五位の近衛府少将だ。このまま東宮の覚えめでたければ、果ては四位の大弁か、運が良ければ三位の参議あたりまで望めるかもしれない。  けれどその代わり、緋立は明神に姫君姿を収めなければならない。有難い加護を受けられるのは明神に身を捧げた一族の『娘』のみで、男たちには早逝する呪いをかけられたからだ。  栄耀栄華が約束されているのは、明神に女だと思わせていられる間だけ。妻を迎えて子を為せば、加護を失うだけでなく病を得て床に就くことになる。ゆえに、緋立はまだ女の肌を知らなかった。  昼間は男として振る舞いながら、夜には女姿で明神に仕える。もう少し位を昇るまでは、次代に繋ぐことができない。――とは言え、物心ついた頃からこの生活なので、今更さしたる違和感はなかった。  銅鏡の中には咲き初めの花のような姫がいる。そこいらの女官よりよほど美しいと思うし、化粧をして華やかな衣で身を飾るのも嫌いではない。  ただ、普通の男のようにどこかの家に通うわけにはいかないので、長い夜が少々退屈なのだ。  ふ、と目が覚めて、緋立は自分が脇息に凭れかかったまま転寝していたことを知った。  顔を上げると、燭台の灯りはまだ小さく揺らめいていた。あの灯りが消えぬ間は明神との逢瀬の時刻となっている。まだもう暫く姫君姿を解くことはできない。  汗ばんだ首筋に風を入れようとして、緋立は転寝の間に扇を落としたことに気づいた。脇息の側に落ちている扇を拾い上げた時、緋立は部屋の中に誰かがいる気配に気付いた。 「……ッ!?」  何者だと誰何しようとして、緋立は思い留まった。  九重の家の者ならば、今夜は西の対の屋には決して近づかぬようきつく言われているはずだ。だとすれば、ここに居るのは夜盗以外にない。  何か武器をと身を起こしかけて、緋立は小さな悲鳴とともに脇息ごと倒れ込んだ。動きのとれない打袴姿であることを失念していたのだ。  舌打ちとともに袿を脱ぎ捨て、続けて邪魔な袴の紐に手をかけた瞬間。  ――盗賊が声を発した。 「――申し、姫君。どうぞ怖がらないでください。怪しい者ではありません」

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