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第3話 龍田姫、夜這いに遭遇す
几帳の影から、男が一人突然姿を現した。
「ッ!」
咄嗟に顔を背けて、緋立は手に持った扇で顔を隠した。
一瞬しか見えなかったが、相手は夜盗などではない。直衣に烏帽子――身分卑しからぬ風情の貴族の男だった。『妹姫』の噂を確かめようと忍んできた遊蕩貴族に違いない。いったいどうやって追い返したものか。
思案する緋立の耳に、忍んできた男の低めた声が聞こえた。
「ただ一目お会いしたくて、忍んでまいったのです」
どこかで聞いたような声だ。だが気が動転して思い出せない。広げた檜扇で顔を隠しながら、緋立は囁くように小さく懇願した。
「……お帰りください……」
何者かは知れないが、名のある貴族ならば宮中で顔を合わせたこともあるだろう。顔や声を知られて正体を見破られればとんだ笑い者だ。何としても今すぐ追い返さねばならない。
「私は明日にも仏門に入る身です。どうぞこのままお帰りください……」
か細く出した裏声は、焦りで震えを帯びた。
声を上げて人を呼ぶわけにもいかず、呼んだとて、朝までこの西の対の屋には近寄らないよう言いつけてあるので来る者もない。しかも大声を出せば男だとばれてしまう。
神棚の灯りは小さく揺れて、神事の刻が続いていることを告げている。今はまだ、ここから逃げるわけにもいかなかった。
「教えてください。貴女はその若さで、なにゆえ仏門に下ろうとおっしゃる……?」
這いながらじりじりと部屋の隅へと逃げる緋立を追って、男の声も徐々に近づいてくる。
男の姿であれば、怒鳴りつけて追い返してやるものをと歯痒く思いながら、緋立は忙しなく考えを巡らせた。
「あの、そ、その……人前に出られぬような……悪しき姿を……」
たどたどしく口実を並べていた緋立は、目の前の格子に思わず舌打ちしそうになった。気が動転して這い逃げるうちに、いつの間にか部屋の端まで来てしまったのだ。
隼人が上げていったのは二枚格子の上だけで、下半分の格子は閉じられたままだった。姫姿でこれを乗り越えるのはさすがに無理だ。
要するに、緋立はすっかり袋の鼠だった。
「御姿がどうであれ、貴女の声は兄君と同じく聡明だ。何も仏門に入らずとも良いのではありませんか」
背後から迫る声はますます近い。
兄君と同じくも何も、当の本人だ。緋立は泣きそうになった。
うっかり寝入った挙句に、男に夜這いを掛けられている今の状況で、聡明だと言われても虚しくなるだけだ。それに案の定、男は緋立の顔見知りらしい。
いったい誰だ! 男の部屋に夜這いに来るような阿呆は!!
なすすべもなく手足を小さく縮めたところで、緋立はグゥと呻いた。もう一つ大きな失態を犯していたことに気付いてしまったのだ。――身軽になるために袴の紐を緩めたせいで、袴が大方脱げかかっていた。
「あぁぁ……」
絶望の溜息が漏れた。これではどうぞ奪ってくださいと誘いをかけているようなものだ。
焦って袴を引き上げようとするが、裾を男に踏まれている。
「せめて名を教えていただけませんか。何も得ずに帰るわけにはまいりませんから」
人の袴を踏みつけておきながら、男はいかにも誠実そうな物言いで迫ってくる。腰紐を必死で手繰り寄せながら、緋立は扇の影からチラリと後ろを盗み見た。
男はすぐ後ろまで迫っている。脱いだ袿は男の背後に投げ捨てられ、身に着けているのは紐が緩んだ袴と小袖だけ。下着姿以下だ。唯一武器になりそうな脇息も手の届かぬところに転がっている。
――絶体絶命。
「……た、龍田……」
絶望で頭が真っ白になりながら、緋立は名乗った。
明神に仕えるために付けられた女名、気丈な性質を表す荒々しい川の名だ。
「龍田の君……」
男が名を呟いた。
名を知れば満足して去ってくれるかと、淡い希望が胸に宿った。――だが次の瞬間、緋立の身体は男の腕に抱き上げられていた。
「や、やめよ!」
思わず素の声が口から出て、緋立は慌てて口を塞いだ。
その声に驚いたのか、あるいは嫋やかな姫君だと思っていた相手が存外大柄であったせいか、男は均衡を崩して緋立ごと雪崩れるように床に倒れ込んだ。
「アッ……」
「うっ」
投げ出された衝撃で檜扇が手から滑り落ちる。
緋立の見開いた眼に、驚愕を浮かべた青年の顔が一瞬映った。
「緋立……」
愕然としたような男の呟きと同時に灯りが掻き消えた。燈火の芯がやっと燃え尽きたのだ。
背中から圧し掛かられ、間近に男の息遣いを浴びながら、緋立はただ震えていた。
――夜這いにやってきたのは、宮中の外にいるはずもない、東宮その人だったからだ。
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