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第15話 元中納言は吉野の姫に出会う
「ご覧ください、殿。見事に満開でございますねぇ!」
傍らで馬を並べた従者の声に、玄馬 は顔を上げて山を振り仰いだ。
鮮やかな緑の間を埋め尽くす花の群れ。薄紅に色づいたものもあれば、輝くような白もある。
天の雲が地上に降りたか、はたまた、春の陽気にも溶かせぬ雪が神秘の山に留まったか。――そう考えて、玄馬はチクリと痛んだ胸に顔をしかめた。
美しい光景だが、今は目に入れたくない。
『凍る君』と呼ばれた美貌の友が、白い雪へと姿を変えて、吉野の山に姿を隠したように思えてならなかったからだ。
「確かに見事だ」
気のない声で、玄馬は返答した。
側仕えも長い従者が、冬の間ずっと気鬱で伏せっていた主を案じているのは分かっている。美しい風景を見れば少しでも心癒されるのではと、気遣ってくれていることも。
だが今は、その気遣いに応える心の余裕がない。
一日でも早く吉野の里へ入りたいと、玄馬は馬上から道の先を見つめた。
春になるのを待ちわびて、玄馬は僅かな供回りを連れて吉野の里へと出立した。
昨年の晩秋に突然姿を消した友が、吉野に所縁ある人だと伝え聞いたからだ。
病に伏せって暫く逢えぬと聞いた僅か数日後、玄馬の元に届いたのは別れを告げる一通の文だった。
驚き慌てて屋敷を訪れてみれば、そこは既にもぬけの殻。門は閉じられ、警護の侍の姿もなく、垣根の間から中を見に行った従者によると、格子や妻戸にも板が打ち付けられていたと言う。
屋敷を捨てたか、あるいは長期に亘って戻ってこない構えだ。一体何が起こったというのか。
余程のことがあったのだと推測できるが、三位の位をいただく中納言の玄馬ならば、大抵の問題に力を貸してやれたはずだ。それを一言の相談もなく姿を消されたことに、玄馬は思いのほか深く傷つけられた。
ただの戯れだったではないかと自らを慰めてみても、仕事も手に着かなければ、恋の遊びで気を紛らわせようにもその気になれない。
宮中に出仕しても無意識のうちに友の姿を探し、屋敷まで何度も足を延ばしては、閉じたままの門の前で溜息を吐くばかり。
ついに気力が果てて、新嘗祭が終わった途端、玄馬は宮中に出仕するのを止めてしまった。
力を尽くして探したが、友の行方は神隠しにでも遭ったように杳として知れない。唯一の手掛かりは、京を遠く離れた吉野の地に、縁戚が荘園を構えているという話くらいだ。
そちらに身を寄せているのでなければ、友はもうこの世にいないだろう。
それならばいっそ浮世を捨てようという覚悟で、玄馬は中納言の職を返上して京を立った。
吉野の里に入った玄馬は、辺りの光景に目を見張った。
帝の威光も満足に届かぬ辺境の地だと思っていたが、思っていたよりずっと栄えている。山に向けて貴族の別荘と思しき屋敷がいくつも連なっており、どの屋敷も庭や門構えが立派だ。
道を歩く民の身なりも簡素ながら整っており、血色もいい。表情も生き生きとして明るく、馬に乗る玄馬を貴族と認めると、恭しく頭を下げてくる。
採れたての菜を籠一杯に盛って歩く女たちは元気そうで、侍姿の男たちはどれも背が高く体格が良い。目を道向こうに広がる山裾に転じると、広大な荘園と大層立派な邸宅が見えた。
どうやらこの里は思った以上に豊かなようだ。
「何とまぁ……吉野と言えばとんでもない鄙 だとばかり思っておりましたが、これは……」
隣で従者が呻いたが、玄馬も全く同じ気持ちだった。
しかし、伝手を辿って宿坊を借りることにした寺に着いてみると、さらに驚くことを聞かされた。
山裾に構える大邸宅こそが、玄馬が訊ねようとしている九重の本家であり、辺り一帯の荘園や道中で見かけた立派な屋敷はどれも九重一族の所有だと言うのだ。
京ではほとんど名の知られていない九重家が、吉野でこれほど大きな力を持っていることに玄馬は驚かされた。
なるほど、こういった実情を知ってみれば、友が縁戚を頼って吉野へ旅立ったという話も納得がいく。ただの友人にすぎない玄馬よりも、血の繋がりを頼りにしたのだろうが、それはそれで玄馬には寂しく思える話だった。
翌日、長旅の汚れを落とした玄馬は九重本家に先触れの文を出し、馬に乗って寺を出た。
屋敷に向かって馬の脚を進めていくと、山裾を白く埋め尽くした満開の桜が嫌でも目に入る。
吉野は桜の名所だと聞いてはいたが、大きく枝を広げる桜の木に囲まれていると、この世ならざる場所に迷い込んだような気分にさせられる。屋敷に近づくにつれ人通りがほとんどみられなくなったことも、その思いに拍車をかけた。
――まるで、彼岸に赴くような……。
何処までも続く桜の庇を進んでいると、玄馬の前から突然姿を消した友の顔が脳裏に浮かんだ。
凛として美しく、才気溢れていた若者は、いったい何を思い悩んでいたのか。
玄馬との始まりが多少強引であったことは否定しない。噂の妹君を一目見ようと忍んでいった先で、玄馬は男に組み敷かれる苦痛の呻きを耳にしてしまった。
物慣れない男に襲われたのだろう。殺しきれぬ悲痛な声に、玄馬は憐れみを覚えた。
若く後ろ盾も持たぬ近衛の少将では、立場の強い相手から無理無体を強いられても逆らうことが出来ぬのだろう。ならば性の悦びを知らぬ晩熟の少将に、少しばかり手解きしてやろうと思ったのが事の始まりだった。
その結果、溺れたのは玄馬の方だ。
『凍る君』と呼ばれた冷たい貌の貴公子は、玄馬の腕の中であっという間に燃えるような紅に色づいた。
清冽な白い美貌に朱を昇らせ、切れ長の双眸に涙を浮かべて、その喉からは妙なる調べが次々と迸る。細身の体はしなやかに動き、猛る玄馬を呑み込んで歓喜の舞を踊り続けた。
逢瀬を一つ重ねるごとに鮮やかに色を変える情人に、玄馬はいつの間にかすっかり本気になっていた。
大勢いた遊びの相手とは手を切った。他の男が通う隙を与えぬよう連日の如く入り浸り、無垢に近かった肉体を玄馬好みの熟れた肉へと育て上げた。
仏門に入るという妹姫をいずれは正妻に迎え、宮中での出世の後ろ盾になってやろうと思っていたのに――。
「……ッ!」
不意に風が吹き荒れた。
視界が白い花吹雪で覆い尽くされる。袖を掲げてやりすごしながら、玄馬は小さく舌打ちした。
桜というものは風情があって美しいものだと思っていたが、吉野の桜は違うようだ。
憚りもなく枝を広げ、風が吹けば無数の花弁を撒き散らす。自らの美しい姿を奢って、傍若無人に振舞うさまが煩わしい。
顔に着いた花弁を払おうと頭を振っていると、くすりと小さな笑い声が風に乗って玄馬の耳に届いた。思わずそちらを振り返り――、玄馬は息を呑む。
天女としか思えぬ美姫が、垣根の向こうから笑みを浮かべて玄馬を見つめていた。
並外れて背の高い玄馬は、馬に乗ると屋敷を囲む垣根から頭一つが飛び出る。垣根越しによく手入れされた庭と、端が見えぬほど広々とした屋敷が見えた。御簾を上げた部屋の端近に、妙齢の美姫が優雅に腰を下ろして此方を見るのと目が合った。
赤花と白の桜の襲に、長く裾を引いた濃袴。その上に、目も覚めるほど明るい水縹の小袿が広がっている。
白磁の面は遠目にも息を飲むほど美しく、手に桜の枝を持つ姿は、春の小川から生まれ出た天女を思わせた。
――この世の者とも思われぬ……。
魅入られたように暫く見つめ続けて、玄馬はそう感じた理由に思い至った。肩から流れ落ちて滝のように広がる豊かな髪が、蚕から採ったばかりの絹のような銀白色をしていたのだ。
年老いて髪が白くなったのとはまるで違う。陽の光を受けてきらきらと輝く髪は小袿の水縹色と相まって、清廉な春の水辺のような、瑞々しく生気に溢れた色彩だった。
どのくらいの間、そうして惚けていただろう。
「佐保姫様、そのような端近に居られては……! これ、雄鹿!……雄鹿!」
かしましい女房の声に弾かれたように、玄馬は我に返って馬の腹を蹴った。
背を向けて道を進みながら、玄馬は自身が年若い童のように胸を高まらせていることに気付いた。
最後に目にした光景が瞼の裏に焼き付いている。
白い髪の女君が扇代わりの桜の小枝で隠した、妖艶で美しい微笑みだった。
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