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第24話 番外編:淡雪の上は冷たく愛する

 大きく息を吐き出すと、白い靄が顔の前に広がった。  昼前から降り始めた雪は夕暮れになっても止まず、ついに京の大路にも積もり始めた。夜になって止みはしたが、大気はますます冷え込んで吐く息が白く曇る。  玄馬は酒臭さが少しでも和らぐようにと、屋敷の門の前で何度も大きく息を吐いた。  日があるうちには戻るつもりであったのに、飲まされるうちにすっかり遅くなってしまった。夜は更け、丸い月が高みから玄馬を見下ろしている。  妻なる人はもう眠ってしまっただろうか。  そっと妻戸を開けて中を覗くと、部屋の奥に灯りが点されているのが見えた。玄馬の帰りを起きて待っていてくれたらしい。  闇に揺らめく炎が照らすのは、遠くを見つめる臈長けた白い美貌だ。  白一色の雪の襲の上に柔らかな白銀の髪が豊かに降り掛かり、天から下った淡雪が人の姿をとったかのように儚く厳かだった。  視線の先を追うと、庭に面した格子戸が一つだけ上げられている。  雪が積もる白銀の庭を、玲瓏とした白雪の君が見つめていた。  外の景色へと向けた横顔が遥かな天を懐かしむかのように見えて、玄馬は天女を地上に繋ぎ留めんと足を進めた。 「今戻った。遅くなってすまない」  振り返った雪の美貌が、ふわりと綻んで大輪の白い花となる。  白一色に思われた装いの、単衣だけが鮮やかな緋色で、白い姿にほんのりと生きた人間の温かみを添えていた。艶やかな唇の紅と相まって、染み入るような落ち着いた色香を醸し出している。 「格子を下ろそう。体が冷えてしまう」  この美しい姿を目にすれば、遠い吉野の神が取り戻しに来ても不思議はない。夜風と共に掻き消えてしまっては困ると、玄馬は急いで格子を閉じた。 「昇進の話は聞いてくださったか」  もう知っていることとは思いながら、玄馬は声をかけた。  部屋のあちこちには祝いの品々が積み上げられている。目端の利く貴族が贈ってきたものだろう。それを横目で見ながら、玄馬は帰りを待っていた正室に寄り添うように腰を下ろした。  膝の上に置かれた手に触れてみると、案の定冷たい。  酒で火照った頬にその手を押し当て、冷えた体を抱き寄せる。奥ゆかしい梅花の香を嗅いだ瞬間、幸福感がジワリと胸に湧き上がってきた。  今日は年に一度の除目の日だった。  この一年、玄馬は病を口実に職を辞し、半年以上を吉野で過ごした。通常ならば元通りの中納言に戻れる見込みさえないところだ。  それが――。 「勿体なくも、大納言の席をいただいた」 「あな、めでたや。嬉しきことじゃ」  玄馬の肩に凭れかかった麗人は驚く様子もなく寿いだ。  その声を聴いて初めて、半信半疑だった昇進の実感が湧いてきた。  先程まで様々な祝いの席で、数も数え切れぬほどの相手に祝いの言葉をかけられたのに、夢を見ているようなあやふやな心持ちでしかなかったのだ。  この人が祝ってくれるのならば、これは現実なのだろう。思いがけずも大納言の職をいただけたが、これが運や神頼みの結果でないことを玄馬は知っている。  玄馬が左大臣の甥であることと、左大臣家から入内した女御が中宮に昇格したことは助けになった。しかし最も大きな助けはこの妻がもたらしたものだ。  玄馬が正室に迎えた人は、吉野では並ぶもののない資産家だ。しかも世の情勢を読むのに長けた施政者でもある。  秋が深まる前に京に迎えて以降、玄馬の妻は毎日のように文を書き、さまざまな貴族に宛てて玄馬の名で贈り物をした。上質の絹や二つとない見事な細工物、贅を尽くした調度品の数々。様々の希少な品が次から次へと吉野から届き、それらは惜しみなく必要な相手へと届けられた。  圧倒的な財力は、玄馬の力を宮中に知らしめたに違いない。その結果が今日の除目だった。  思いもかけぬ昇進だったが、妻なる人には初めから今日の結末がわかっていたのに違いない。それゆえの、落ち着いた寿ぎの言葉だ。 「ありがとう、佐保の上。何もかも貴方のおかげだ」  深い感謝を込めて、玄馬は冷えた体を抱きしめる。玄馬は何も、大納言への昇進だけを指して礼を言ったのではなかった。  前の正室を亡くしてから、玄馬は長い間自暴自棄になっていた。  地位も身分もありながら、何かがぽっかりと欠けてしまった空虚感。屋敷に戻っても火が消えたように寂しくて、それを忘れるために夜毎彷徨い歩いた。琵琶を弾き、歌を贈り、恋多き男を演じていなければ、正気を失ってしまいそうな日々。――荒み切った心を生き返らせたのが、この美しい吉野の王だった。  彼の人は玄馬をありのままに受け止め、人を恋うる気持ちの切なさと、人を愛する喜びを玄馬に取り戻させてくれた。富と権力を手にしながら、何一つ惜しむことなく玄馬の側にあることを選び取ってくれた。  彼の人は玄馬に生きる意味を与えてくれたのだ。  しかし思い返してみれば、玄馬は決していい婿がねであったとは言い難い。  何しろ初めて会った時には官職を失っていたうえ、そもそも吉野に出向いた理由は前の情人を追い求めての事だった。  初対面の印象も悪かろうし、力づくで手籠めにして始まった関係だ。考えれば考えるほど、どうして自分の妻に収まってくれたのかが不思議でならない。  女ならば、傷ものにされたので外聞が悪くて他所に嫁げぬと言うのもわかるが、玄馬が正室に迎えた相手は男だ。しかも余るほどの財を蓄えた一族の長であり、天から与えられた無二の美貌をも備えている。  どんな相手でも思いのままだというのに、どうして玄馬を選んでくれたのか。 「どうしたのじゃ。おかしな顔をして」  黙ってしまった玄馬を案じて、腕の中の麗人が振り仰いだ。  普段は冷たく素っ気無い素振りをするが、何にも代えがたいほどに愛されていることを、玄馬ももう知っている。  雪のように冷たく見えて、愛しいこの人は炎よりも激しい情愛を内に秘めているのだから。  妻への愛しさに酔い痴れるうちに、酒の酔いがうっかりと口を滑らせた。 「どうして私を受け入れてくれたのだ。初めての時はあんなに嫌がっていたのに」  玄馬がそう言うと、白磁の頬がうっすらと朱を帯びた。  頬に口づけようとした玄馬に、誇り高いこの人は『慰めは要らぬ』と手を上げた。玄馬はそれに逆上して、逃げられぬ相手を力づくで犯したようなものだった。しかも相手は初物であったのにそれにも気づかず、相当な好き者でも泣いて音を上げる逸物を押し込み、思うがままに蹂躙してしまったのだ。  呪い殺されても仕方がない狼藉を働いたのに、この人は自分を許し愛してくれた。それはなぜなのだろうと、ずっと心にひっかかっていたのだ。  吉野での暮らしぶりを考えれば、この人が京での暮らしを望む必要も、公卿の妻に収まる必要もないのは明白だ。ただ玄馬の為だけに京に来てくれたとしか思えない。そればかりか、玄馬の出世のために、私財までもをなげうってくれた。  どうしてそこまでしてくれるのだろう。腕の中から答えはない。  元より甘い言葉など容易く口にしてはくれぬ御仁だ。答えを得ることを諦めかけた時、恥じらうような小さな声が聞こえた。 「……おぬしは、私を『美しい』と言った……」  耳を済ませておらねば聞こえぬような、小さな声。  美しいからそう言っただけだ。いったいそれの何が特別なのかと首を傾げる玄馬に、視線を合わせぬままの淡い色の瞳が長い睫毛を瞬かせた。  柔らかな白銀の髪に、白すぎるほど白い面。  眉も、長い睫毛も白。瞳の色は淡い青灰色で、激すると紅へと変わる。  玄馬の妻は、天から授けられたとしか思えぬ稀有な美しさを持つが、その姿が常人と違いすぎると怖れる者がいるのも確かだ。鬼だ化生だと罵られれば、足の悪いこの人は罵倒から逃れることもできない。  過去に、礼を失した言葉に傷つけられたこともあったのかもしれない。  そのことに思い至り、哀しみと腹立たしさが玄馬の胸を占めた。 「貴方は美しいよ、佐保の上。その御姿も、心映えも」  玄馬は両腕で強く抱きしめ、心からそう告げた。  豊かな白銀の髪に口づけし、白い手を取って桜色の爪にも口づけする。こちらを振り仰いだ滑らかな頬にも、白い睫毛が瞬く瞼にも唇を押し当てる。  この人は並の人とは何もかもが違う。だが玄馬にはそれが愛おしい。  守られねばならぬほど弱々しい人とも思わないが、玄馬が守ってやりたいのだ。どのような好奇の視線も、口さがない噂も、この美しい人を傷つけるものは一つとて許してはならない。  そのためにしなくてはならないことは分かっていた。  玄馬は人々の上に立たねばならない。力を持たぬ者が何を訴えても、世間は冷たく嘲笑うのみなのだから。  伯父の跡を継いで左大臣に、そしていずれは臣下の最高位である太政大臣の座を手にしようではないか。そうすれば、誰もこの人を奇異の目で見ることなどできはしまい。  この人が玄馬を選んだことを決して後悔しないように。この世にあるすべての栄華をこの人に捧げたい。 「愛しい人……きっと貴方を幸せにしてみせる」  抱き上げると、玄馬の首に二本の腕がしなやかに絡んだ。  そっと合わされた唇が玄馬に囁く。 「今以上に……?」  大納言へと返り咲いた夜。  床を埋め尽くすほどの祝いの品に囲まれ、恋しい人は朝まで続く酒宴を抜けて帰ってきた。  ――それ以上に幸せなことがあるのかと、腕に抱いた天女が問う。  玄馬は御帳台の奥へと足を進めながら、妻なる人に笑って囁き返した。 「勿論。貴方がもう嫌だと言うまでは。……さぁ、覚悟なされよ」 「なんとまぁ、困ったお人じゃ……」  玄馬の言葉を受けて、腕の中の人も蕾が綻ぶように微笑った。  銅鏡に見守られる御帳台の中で、密やかな笑いと睦言が交わされる。  やがてそれは、雪をも溶かす吐息へと変わっていった。

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