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第23話 番外編:龍田の中宮は帝と歓談す
「ああもう、まったく! 従兄殿にも困ったものじゃ!」
荒々しく吐き捨てかけて、緋立は慌てて口をつぐんだ。
ここは宮中。帝が政務を執り行う清涼殿から最も離れた淑景舎とは言え、何処に人目があるか知れたものではない。
「い、如何なされました、あけた……龍田の中宮様!」
主人の声を聞きつけて、大慌てで飛び込んできたのは、隼人改め――中宮付きの女房千早である。
重々しい裳唐衣に身を包んだ従者は、衣の裾をわっしと掴むと、か弱き乙女には成し得ぬ力強さで御簾のうちに滑り込んできた。勢いで背の中ほどまである髢がずれて珍妙な形になっている。
「落ち着け、は……千早。これじゃ」
囁き声で黙らせて、緋立は手に持っていた文を投げ渡した。
「……藤原玄馬様の、北の方様……?」
差出人の名に、女装の従者は不思議そうに首を傾げた。その拍子に髢がいよいよずれて背を滑り落ちていく。
それを横目で見ながら、緋立は疲れた様子で脇息に凭れた。
かつて情人であった元中納言の正室という人から、文が届けられた。
流麗な女文字には見覚えがない。だが気品と教養の深さが窺える手蹟だ。
文は丁寧な時候の挨拶から始まったが、中身は要約すると『右大臣家の婚姻関係と官位を教えろ』というものだった。美しい言葉で飾り立てている割には、生々しい内容である。
思わず二度見した緋立は、最後に記された名を見て合点がいった。
「あぁ……佐保姫様ですか……」
最後まで読んだ隼人もまた、何もかも理解したように呟いた。
そこには九重の一族を統べる従兄の女名が記されていたのだ。
「しかしまたどうして、よりによって佐保姫様があの……」
文をまじまじと見つめながら、隼人が語尾を濁す。その先に続く言葉は、きっと『あの失職した元中納言の妻なんかに』だろう。
緋立も直接対面したことはないが、一族の当主である従兄が大変な辣腕家であることは知っている。
遠く吉野に居ながら、緋立から文で伝えられる内容だけで、情勢を先読みして指示を下してきた人物だ。吉野の全てを掌握していると言っても過言ではなく、緋立も立身出世を目指していた頃には、従兄から届けられる金品や希少な品にずいぶんと助けられた。
それがどうして京に。しかも玄馬の正室とはどういうことか。
言っては何だが、あの従兄がたかだか正三位の位を有難がるとは思えない。――そこまで考えて、緋立の背を寒気が走った。
従兄が何を以て玄馬を選んだのかは知れないが、選んだ以上は確実に最高の地位を狙ってくるだろう。従兄はそういう人間だ。
臣下の最高位と言えば正一位の太政大臣、そして政治の実権を握る摂政・関白である。
玄馬を、藤原家一門の長に立つ左大臣を追い抜いて太政大臣の地位に就け、いずれは摂政・関白にしようというのだろう。その手始めが、敵陣と見定めた右大臣一派の排除だ。
「文を見なかったことにできませんかね……?」
同じく意図を悟った隼人が怖ろしげに言う。
緋立もできればそうしたいところだが、対応を誤れば窮地に追い込まれるのは帝の方になりかねない。何しろあの従兄は、歴代の当主の中でも殊の外明神の加護が篤いのだから。
「しっ、冗談でも口にするな。明神様のお耳に入る」
思わず地声で返してしまう。
と、そこへ複数の女房達がこちらへやってくる盛大な衣擦れの音が響いてきた。
迎えに出ようとする隼人に髢がずれていると教えてやると、慌てて毛束を引っ張ったものだから余計見られぬ有様になった。しょうがないので、几帳の影に控えさせる。
緋立自身も御簾から遠ざかり、顔の前に扇を広げて来訪者を待った。
女房達に先導されて現れたのは、まだ身体の線が細い、年若い公達だ。
「ご機嫌いかがですか、義母上様」
大人びた口調で挨拶したのは、今上帝の長子である親王だった。
夏に元服した親王は、立太子礼はまだ執り行われていないものの、すでに次の東宮と目されている。母親の皇后の元を離れて、今は歴代の東宮が多く住まいにした昭陽舎を与えられていた。
昭陽舎と淑景舎は南北に隣り合わせている宮だ。住まいが近いせいか、親王はかなり頻繁に緋立の元を訪れていた。
「清涼殿の近くにある紅葉が色づいていましたので……」
そう言って、広げた上に紅葉の葉を乗せた扇が、御簾の隙間から差し出された。
正直なところ、宮中での龍田中宮の立場は微妙なものである。
今を時めく左大臣家から入内はしたが、与えられたのは内裏の北東にある淑景舎。ここは帝の昼の政務どころである清涼殿から遠く、本来身分低い更衣などに与えられることが多い場所だ。
今上帝の即位の際に中宮に叙されたものの、中宮の住まいである飛香舎に居を移すこともなく、帝の夜の訪いもほとんどない。そのため殿上人の間では、政治的配慮により昇格されたものの、実際には捨て置かれた名ばかりの中宮だと噂の種になっている。
中宮自身も淑景舎に籠りきりで、帝の妃らしく歌合や香合の会を開くこともなければ、宮中行事に顔を出すことも滅多とない。たまに公卿がご機嫌伺いに参じても、代理で女房に返答させるだけで声一つ聞かせもしない。
それもそのはず。元々は仏門に入ろうとしていたような非常に内気な人で、夜は神仏に祈りを捧げて過ごすのが中宮の唯一の慰めだ。帝もそれを改めさせるのはすっかり諦め、昼間に訪れて政務の話をすることで何とか現世に繋ぎとめているのだと、当の左大臣が溜息を零していた。
よって、この淑景舎には左大臣を含め、訪れる殿上人はほとんどいない。閑散として寂れた宮だ。
年若い親王はそれを知って、中宮が寂しくないようにと、折に触れては季節の便りを持ってきてくれる。
細やかな気遣いに感謝して、緋立は扇の影から御簾の向こうの親王ににこりと微笑んだ。
若き中宮は、肩から流れ落ちる射干玉の髪を持ち、白く透き通る細面と潤みを帯びた黒曜石の瞳を持っている。紅を塗った唇が形良く弧を描いて笑みを浮かべると、女房達が息を飲んだ。
絶世の美姫ともいうべき中宮は、どちらかと言えば冷たい印象を人に与える。美しいが、その分近寄りがたく冷淡に映るのだ。
しかし、その白い面が微笑みを浮かべれば、氷の美貌は咲き誇る花のかんばせへと一変する。大輪の花よりも艶やかに、匂い立つ色香までをも感じさせる微笑みだ。
男であれ女であれ、中宮を好ましく思う者も思わぬ者も、この笑みとまともにぶつかれば平静ではいられない。
「……あ……っ」
親王から扇を預かった女房が、間近で直撃を受けてしまった。老女に近い女房だったが、腰を抜かしてへたり込む。その手から扇が零れて、紅葉の葉が舞い散った。
色と形が良いものを特別に選んできたのだろう。小さく形の揃った見事な真紅が、秋風に運ばれたようにはらはらと舞い、薄色の衣の裾を飾り立てた。――その中に、一枚だけ青々とした緑の葉が混ざっている。
散らばった葉を傷めぬよう気を付けて、緋立は扇に手を伸ばした。
扇の表には、流水に散る赤や黄色の紅葉が描かれている。ついこの間まで童だと思っていた親王も、元服して大人びた扇を持つようになったものだ。
そのまま何気なく裏に返した緋立は、そこに書かれていた歌に目を見開いた。
隣の枝の見事な唐紅を、青い私は仰ぎ見るのみです。あまりに美しくて、声も出ないので――
緋立はごくりと唾を呑んだ。もしかしなくとも、これは恋歌ではないか。
そっと親王の様子を窺うと、御簾の向こうの親王はまっすぐにこちらを見つめていた。
そう言えば淑景舎に来た翌日、元東宮妃の飼っている猫が迷い込んできたことがあった。紐を引っかけたまま御簾を昇り始めたのでちょっとした騒ぎになり、長身の緋立が猫を捕らえて場を収めた。
その時に猫を追って淑景舎に来たのが、元服前のこの親王だ。
緋立が纏っていたのは唐紅の表着で、対する親王は縹色だった。あれが初対面だったのでよく覚えている。
あの時親王はまだ角髪を結っており、年若いながらも帝の面影を感じさせる面立ちが好ましく思えたものだ。見上げてくる親王に、緋立は長身を屈めて猫を受け渡した。
声を発すれば男と知れてしまうので、ただにこりと微笑んで。
「――おや、其方もこちらに来ていたのか」
その時、耳に慣れた大らかな声が庭の向こうから聞こえた。今上帝だ。
緋立は歌が書かれた扇を閉じると、従兄からの文とともに隼人の手に握らせる。女装の従者は五つ衣の中にそれらをねじ込み、深々と平伏して隠蔽した。
それを横目で確かめながら、緋立も手をついて礼を取った。
庭から来た帝は、女房達に向けて低く気難しそうな声を出した。
「政務の事で、中宮に伝え置くことがある」
人払いを命じる言葉に、女房達が衣擦れの音をさせて退出していく。
階を上がってきた帝と入れ違いに、御簾際にいた親王も一礼して昭陽舎の方へと下がっていった。
隼人も御帳台を囲むように几帳を並べてから、不格好な髢を被り直して、見張りのために御簾の外へと出て行った。部屋に残ったのは緋立と帝の二人だけだ。
居住まいを正した緋立は、ふと当の帝が不機嫌そうな顔をしているのに気が付いた。裾に散らばる紅葉を見て、口をへの字に曲げている。
「いかがなさいまし――」
「先を越された」
むすりとした顔で言った帝は、衣の袖から色づきかけた一枚の葉を大事そうに取り出す。黄から緋色へと炎のように色を変えつつある、紅葉の葉を。
差し出された葉を、緋立は恭しく両手で受け取った。
真紅の紅葉は美しいが、色付ききらぬ葉の方が自分には似つかわしい。
緑から黄、黄から緋へと色を変え、真紅になる日は来るのか来ないのか。もしもその日が来るのならば、愛しい相手の手によって染まり替わりたいものだ。
複雑な色味を持つ葉に、緋立は唇を押し当てた。
恋うる人から贈られた一枚の葉は、他の数多の紅葉よりも格別に愛おしい。それを手づから持ってきてくれた背の君はさらに。
濡れたような黒曜石の瞳で、緋立は帝を流し見る。
「今日も大事な政務のお話ですか」
帝が淑景舎を訪れるのは昼間ばかり。
神仏狂いの中宮に、夜のお召しは荷が重すぎる。大切な話は昼間のうちに、神の目が届かぬところで語らい合わねば。
「そうだ。麗しき我が中宮と、折り入って話したいことがある」
「私も、御上とお話ししとうございました」
視線と視線を交わし合い、どちらからともなく笑みを漏らす。その唇に、帝の唇が覆い被さった。
大切な話を言葉だけで語らうのは難しい。わかり合うには唇と唇を重ね、肌と肌も合わせなくては。
「御帳台の奥へ……余人に聞かれてはならぬ話をしよう」
囁く帝に、恥じらいを浮かべた中宮がこくりと頷く。
その手の中で、もみじ葉はますます色濃く染め上がっていった。
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