42 / 42

最終話

 帰る日の朝、俺たちは、肩をぴったりくっつけて机に向かっていた。  俺の書いた短編に、薫さんが目を通している。  と言っても、既に5回赤を入れて返されているので、いまさら目新しさもないはずなのだけど……いつものようにさっと速読するのではなく、じっくりと読んでくれていた。 「あの……?」  最後のページを凝視したまま動かない薫さんに、おそるおそる声をかける。  薫さんは、原稿用紙に目を落としたまま、ボソッと言った。 「君、筆名がまだだね」 「へ?」 「決めていないでしょう。いや、何かあるのかな」 「えっと……ないです」  質問の意図をはかりかねて、顔をのぞき込む。  薫さんは、無表情でじーっと俺の顔を見つめたあと、棒読みのように語り出した。 「君はたしか、作家になって周りを驚かせたいというようなことを言っていたね。ならば大河という名前はそのまま使いなされ」 「はあ……はい」 「それで、名字なんだけども」  薫さんは、あさっての方向を向いて頭をぽりぽりとかいた。 「常葉をあげよう」 「え?」 「常葉大河。響きは悪くないと思うけど、どうだろうか」  びっくりして、言葉を失う。  名字を? くれる? 「えっと、弟子とか……そういうことですか? 俺ミステリーだし、畑違いですけど」 「いや、そうじゃないよ」  そう言ったきりしばらくそっぽを向いていたと思ったら、急にこちらに向き直り、真顔で言った。 「昨晩、一生大事にすると言ったでしょう。だから、君に名字をあげようと思ったわけだ。意味は分かるかね?」  問われて、ハッとする。  とっさに頬に手を当てた――めちゃくちゃ熱い。  うろたえてしまって、思わずななめ下の畳に目をやる。  どうしよう。  それってなんか、プロポーズみたいだし、もしももしも、俺が作家になって本屋に並んだら……日本中のひとに向けて、俺たちは同じ常葉姓を名乗ることになるわけで。  そろっと顔を上げて、薫さんにたずねた。 「あの、それって……伴侶的な……?」  しかし薫さんは、何も言わず、アヒル口をぎゅっと結ぶ。 「笑ってないで教えてくださいっ」  頭突きの勢いで鎖骨のあたりに顔を埋めたら、薫さんは大笑いしながら俺の頭をなでた。 「僕の原稿が書き上がったら、一緒に編集部へ行こう。よく書けました。早くデビューしてくれないと結婚できないよ」 「け、……っ」 「なんだ、本当にウブだね君は。どれだけ床上手になっても、そういうところは一生変わらないんだろうな」 「とこじょうずってなんですか」 「エッチがうまいこと」  思わず背中を殴った。それでも薫さんはケラケラ笑っている。 「誕生日に着物を仕立ててあげよう。それから、なじみの帽子屋にもね。カンカン帽、1度かぶったら、これなしでは出られなくなるよ」 「俺、似合いますかね?」 「たぶんね」  そう言ったきり片頬を噛む薫さんの顔を両手ではさんで、やけくそにキスをした。 <完>

ともだちにシェアしよう!