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第1話

 その男がアポイントメントもなく東町(ひがしまち)萬屋(よろずや)を訪れたのは、九月最初の月曜日、十六時少し前のことだった。  客先で使ったばかりの大工道具を棚に押し込んでいた篤(あつし)は、ドアが開く音に振り返りそこでつい手を止めた。はじめて見る顔だ。篤が切り盛りするこの便利屋を訪れるのはほとんどが地元のなじみ客で、こんなふうに一見さんがやってくることなどまずもってないからびっくりした。  同様に、ドアを開けた男も、あまりにもごちゃごちゃとした事務所の様子に驚いたようだった。露骨な表情こそ見せなかったが、篤の勘違いでなければ、部屋の中を見回す目に幾ばくかの戸惑いが滲んでいる。  いらっしゃい、こんにちは、とりあえずはなんでもいいから声をかけるべきだ。そう思うのに、ぽかんと開けた口からはなんの言葉も出なかった。突然の見知らぬ客にびっくりしたからという理由ばかりではない。  男は、たいそう美しかった。  強面、男くさい、そんな形容がふさわしい美貌には、妙な威圧感と同時に滴るような色気がある。十歳ほどは歳上に見えるから三十代後半といったところだろう。  自動販売機を越しそうなくらいに背が高く、身体つきはしっかりしていて、残暑の季節にふさわしい薄手のジャケットがよく似合っている。真っ黒な髪や瞳の艶が、そうした男の魅力をさらに引き立てていた。  はじめて見る顔、ではないのか。いつだったか、どこかで見たことがある。篤がそう気づいたのは、声もなく男にしばらく見蕩れてからだった。身近にというのではない。遠く離れた場所にいる美しい男にこうしてただ見入る感覚を、確かに知っているような気がする。  そののちに、ああそうだと思い出し、ついこう呟いた。 「……石川(いしかわ)刑事?」 「ちょっと、篤兄さん! それは役名です。俳優の桐生(きりゅう)博之(ひろゆき)ですよ!」  間髪入れず横から小声で叱りつけられ、はっと目を向けると、高校の制服を着たまま事務机に座っていた甥の知明(ともあき)にぎろりと睨みつけられた。これ以上無礼なセリフを口走ったらひっぱたく、とでもいわんばかりの厳しい眼差しに気圧され「そう、そうだ」と芸もなく頷いて返す。  男は篤と知明のやりとりを黙って聞いていた。俳優の桐生博之ですよという知明の言葉を否定しないのだから本人なのだろう。ならば篤のとぼけた態度に不快を示してもいいのに文句も言わない。  事務所に足を踏み入れたときには微かな戸惑いを見せた男は、そっと戻した篤の視線の先で、いま、まったくの無表情だった。そのせいか、彼からはひどくクールで近寄りがたい印象を受けた。まるで石造りの彫刻みたいだ、別世界に存在しているいきもののようだ、そんな思いが湧いてますます彼にかけるべき声が遠のく。  雑然とした部屋に少しのあいだ沈黙が落ちた。非常に気まずい。しかしなにを言えばいいのかわからない。俳優なんて華やかな職にある人間と喋った経験がないし、さらに、いってしまえばこうも取っつきにくそうな男と向かいあったこともない。  はじめまして? いや、いつも見ています? それともあえて触れずに、ご用件は、でいいのか? ろくな言葉も考えつかず篤が大いに困惑していると、男はそこでふと、ほんの僅かばかり眉をひそめた。苛立った、焦れたというのではなく単に彼もまた篤と等しく困ったのだろう。そういう表情だと思う。  そして、事務所に入ってきてからはじめて口を開き、男はこんなセリフを低い声にした。 「猫を探してくれないか」

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