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第2話
猫。
想定外の男の言葉に、それまで以上にあっけにとられてから、篤は慌てて彼を形ばかりの応接間に通した。顔見知りの雑貨店店主から、古くてもう売り物にならないからともらい受けたソファ一式があるだけの狭い空間だが、客に応対するためのカウンターもない事務スペースで話を聞くよりはいくらかましだろう。
猫を探してくれないか。内容は意外であれ依頼は依頼だ。つまり桐生なにがし、だと思われる男は紛うことなくこの便利屋の客なのだ。ならばプロとしてきっちり仕事をしなければならない。
篤が促すと、特に不満も示さず男はぎしぎし軋むソファに腰かけた。その前のローテーブルに、とりあえずは冷蔵庫から取り出したペットボトルの紅茶を置く。うまいコーヒーを差し出したくても、残念ながらこのちっぽけな事務所にはコーヒー豆すらない。
さてでは話を聞こうかと彼の向かいに座ろうとしたら、事務スペースと応接間を仕切る棚から顔を覗かせた甥の知明に、こっそり手招きをされた。彼が必死の形相をしているので無視もできず、「少々お待ちください」と言い残して応接間を出る。
その篤の手首を引っ掴み事務所の一番奥まで引っぱって、知明はひそひそと言った。
「篤兄さん、あのひとが何者なのか理解してますか?」
理解しているかと問われると返事に困る。テレビも雑誌もインターネットもめったに見ない自分でも知っているのだから、それなりに有名な人物なのだろう、と推測はできても詳しいところなどは正直わからない。
「俳優なんだろ? 桐生……、桐生なんとか。石川刑事役の」
危なっかしく答えたら、知明に盛大な溜息をつかれた。叔父と甥、十歳以上年齢が離れていても身内だけあって、しかも叔父さんではなく心安く兄さんと呼ぶだけあって彼の態度に遠慮はない。
「そりゃ石川刑事が一番人気のはまり役ですけどね、それだけじゃないですよ。もともとは舞台メインの役者だけど、その石川刑事役があたって、いまは映画やドラマにもしばしば顔を出す注目の俳優です。そういうのちゃんとわかったうえで応対してください」
「そうは言ってもなあ。妙にへこへこするのもかえって悪くないか。そもそもおれは芸能人の扱いなんかよくわからん。客は客、それ以上でも以下でもないだろ」
「あのねえ。いつもみたいに近所のおじいさんが戸棚の修理を頼みに来てるわけじゃないんですよ。相手は有名人です。しっかりして、礼儀正しく、粗相のないように!」
生徒に言い聞かせる教師のごとき厳しい口調で告げられて、篤もまた密かに溜息をついた。見た限り桐生とやらには無駄な尊大さも偉ぶるつもりもないようだったし、ならばこちらもその態度に合わせるべきだと思うが、腫れ物扱いしたほうがいいのか。職業における格差なんて気にしたこともないので、口に出した通りよくわからない。
しかし、知明が言うところの有名人が、なぜこんなちっぽけな便利屋を訪れたのか。そもそもどうやってこの店に辿りついたのか。わからないというのなら、そちらのほうがより謎だった。
東町という地名をそのまま借りた東町萬屋は、簡単にいえば地元のなんでも屋さんだ。店番とちょっとした雑務を頼むために高校生の甥をアルバイトに雇っているとはいえ、事実上の実働人員は篤のみで、だからご大層な仕事は引き受けられない。ご近所さんの家具の組み立てだとか大掃除だとかの肉体労働系がメインだ。
あとは洗濯の手伝いに食料の買い出し、子どもの宿題の面倒や弁当作り、せいぜいがそんなところか。ペットの散歩なんて仕事もちょくちょく頼まれるので、迷子のペット探しに駆り出されることもままあるにせよ、芸能人に猫を探してくれないかなんて頼まれた経験はない。
篤が東町萬屋をはじめたのは三年前だった。住まい近くの商店街隅にある古くて小さな雑居ビルの二階を借り、一応の事務所にしている。
自由に動ける若い男があまりいないせいか、地元民には頼りにされているし可愛がられてもいると思う。しかしそれはあくまでも身近に住むひとたちからで、先ほども考えた通り町の外から一見さんがやってくることなどはまずなかった。
近隣住人の役に立てればそれでいいのでろくに宣伝も打っていないし、当然営業回りなんてこともしない。だから芸能人がこんな店を知るきっかけはないはずだ。なのに桐生はやってきた。意味がわからない。
などと考え込んでいてもしかたがないので、とりあえずは応接間に戻ろうとしたら、再度知明に手首を引っ掴まれた。目の前に鏡を突きつけられ「髪ぼさぼさだから整えて! せっかくの男前を無駄づかいしないでください!」と文句を言われ、渋々手ぐしで髪を梳く。
いまは亡き母親とよく似た色素の薄い茶色の髪は、ここしばらく切っていないので整えようにも格好がつかない。別に繊細でも女のように綺麗でもない平々凡々とした男の顔立ちなのだし、髪型など適当でよいとは思うが、知明の手前なんとかそれらしく形にしてからもういいだろうと背を向けた。
篤が改めて応接間へ足を踏み入れると、男は先ほどと同じく姿勢正しくソファに座っていた。彼がペットボトルに手をつけていないのは、喉が渇いていないからなのか有名人だからこそ飲食料には注意せざるをえないからなのか、はたまた紅茶が好きではないからなのかはわからない。
「お待たせしました。狭くて汚い事務所ですみません、普段は地元のおなじみさんしか来ないから油断してました。ええと。あなた……は、こんなちっぽけな店をどこで知ったんですか」
もともとは舞台メインの役者というだけあって、ステージ映えしそうな色男だなと再度こっそり見蕩れ、それから、うっとりしている場合ではないと気を取り直して声をかけた。名乗られてもいないのに、桐生さん、と呼んでいいのかに迷い、問うセリフが微妙に揺れる。
篤の躊躇を察したのか彼はまずジャケットから名刺入れを取り出し、二枚の名刺をローテーブルに置いた。一枚には桐生博之と記してあった。この男は紛うことなく、知明が言うところの注目の俳優、桐生本人であるようだ。そしてもう一枚には成瀬(なるせ)千秋(ちあき)と印字されている。かつて勤めていた探偵事務所で世話になっていた先輩調査員の名だ。
一礼して二枚とも手に取り、成瀬の名刺を裏返すと、達筆といえば聞こえのよい走り書きで、篤に任せる、とだけ書いてあった。確かに見覚えのある字を眺め、桐生がここを訪れたのはなるほど彼の紹介かと納得する。ペット探しの経験ならばそこそこあるので仕事を回してくれたらしい。
それからはっと気づき、二枚の名刺をテーブルに戻してジーンズから自分の名刺を掴み出し桐生に手渡した。順序でいえば普通はこちらから差し出すものだ。一応持ってはいても、普段の仕事では名刺なんてものはほとんど必要としないため、作法など忘れてしまった。粗相なく、という知明の忠告をさっそく破ったなと少々焦る。
しかし桐生はその篤の態度をまったく気にしていないようだった。東町萬屋、勅使河原(てしがわら)篤、あとは事務所の住所と電話番号、メールアドレスが書かれた名刺をじっと見つめ、低い声で「よろしく、篤くん」と言う。ファミリーネームで呼ばなかったのは単に、長ったらしいので面倒くさかったからだろう。
慌てて「こちらこそよろしくお願いします」と返し、テーブルの端に放ってあった手帳を引き寄せボールペンを片手に開いた。何日に誰それの家で雨漏りの修理、何日には商店街の菓子店で店番、その程度の書き込みしかないページをめくって白紙を探す。
「それで、猫を探してほしいとのことでしたが、飼い猫が逃げちゃいましたか? まずは詳しい状況を聞かせてください」
手帳から上げた視線を桐生に向けて訊ねると、彼は僅かに眉をひそめいくらか黙ったのちに、ひとつ頷き口を開いた。さして丁寧でもない篤の口調に気分を害したというのではなく、どこからどう事情を述べればいいのか考えている表情だと思う。
ときどきの間を挟みながらの桐生の説明を簡単にまとめると、つまりこういうことらしかった。
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