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第3話

三日前の深夜、桐生が仕事からひとり暮らしの自宅に帰ると愛猫が姿を消していた。家中探し回っても、どこにもいない。猫は基本的に室内飼いで、たまに外へ出すとしても自宅の庭で遊ばせるくらいだから、気まぐれに逃げ出したのだとしたら帰り道がわからず迷っているに違いない。  ちなみにその日の彼は早朝から家を空けていたという。従って、何時頃に猫が出ていってしまったのかは定かでない。  桐生は留守にしていたのだから当然自宅はドアも窓も閉められていたはずだ。いったいどこから逃げるのかと篤が問うたら、桐生はそこで先よりもわかりやすく眉を寄せて答えた。 「庭へ続く窓が開いていた。家を出る前に庭で煙草を吸ったとき、おれが閉め忘れたんだろう。そこから逃げたんだと思う」 「ああなるほど。窓を閉め忘れた記憶、あります?」 「いや。だが、おれと猫しかいない家で、おれ以外の誰が窓を閉め忘れる? 出かけるときにはいつも家中の鍵をかけて回るのに、あの日は急な仕事が入って急いでいたから、忘れたという覚えはなくても忘れたんだ。おれのせいだ」  それまでさして表情を見せなかった桐生が、おれのせいだ、と呟いたときにはっきりと後悔の念を浮かべたので少し驚き、また若干うろたえた。強面で男くさくて背も高ければ身体つきも逞しい、一見取っつきにくそうな芸能人が、猫一匹消えたくらいでこんな顔をするなんて正直意外だ。  注目されている俳優とはいえ、桐生は、こうして愛猫がいなくなれば自らのミスを悔いる生身の人間であるらしい。当然ではあるが、何事にも動じず常に毅然としているテレビの中の石川刑事とは、ちょっとばかりイメージが違うなと思った。  失敗を根掘り葉掘り訊ねこれ以上桐生を追い詰めるのも気が引けたため、聞き取った内容を手帳にメモしてから「それで、どんな猫ですか?」と話題を変えた。篤の質問を聞いて彼はいったん無表情に戻り、そののちに片手をジャケットに入れ数枚の写真を取り出した。  差し出された写真に写っていたのは、なんとも綺麗な猫だった。長くてつやつやとした被毛の色は白とグレーのバイカラー、実物を前にしているわけではないので正確なところはわからなくても、かなりの大型種であることは見て取れる。 「ラグドールのオスだ。体重は七キロほど」  淡々とそう言った桐生に、「そりゃ大きいですね」と素直な感想を口に出した。彼はまたひとつ頷き、そこでふっと表情を緩めて目を笑みの形に細めた。 「可愛いだろう? 日本で、いや、世界で一番可愛い猫だ。そう思わないか」  ああ、この男は親馬鹿なのだ、とその目つきと発言から察した。愛猫家なんて表現ではぬるい、紛うことなく、相当の親馬鹿だ。先刻まで微笑みのひとつも浮かべなかったのにそんな態度を取られたら、どこの誰にだって彼が猫を溺愛していることはわかる。 「……はい。可愛いです。大きいから余計に可愛いですね。こんなに大きいと、世話も大変なんでしょう? 走り回ってたら簡単にはつかまえられなさそう。どうですか、やんちゃな猫ちゃんです?」  これは下手なことも言えないなと言葉を選んで、慎重に問いかけた。桐生は首を横に振り心底から愛おしげな眼差しで写真を見つめて答えた。 「そんなことはない。彼はおとなしくて従順だ、ラグドールはそういう性格の猫だ。走り回ったり飛び跳ねたりして遊ぶのはあまり好きじゃなくて、いつでもおれの膝の上でのんびりしている。おっとりしているから他人がちょっかいを出してもそうそう怒らない」 「こんなに大きな猫がいつでも膝の上に乗っかってたら重そうだ。で、名前はなんていうんですか?」  取りつくろうことも忘れたのか次第に、あからさまに相好を崩す桐生に対し、あなたのほうがでれでれで可愛いですよ、面白いですね、とは言わずに訊ねた。さらに自慢げに答えるのかと思ったが、桐生はそこでふと、どこか切なさを感じさせる顔をして静かに告げた。 「ミオ」  彼の表情が予想外だったものだから、咄嗟にはうまい反応ができなかった。先の彼と同様ひとつ頷き手帳にミオと記したのちに、ありきたりなセリフをようやく声に出す。 「ミオ……ちゃんですか。よく似合う名前ですね。可愛いです」  桐生は篤のその言葉にまず無言を返した。なにかしら感じるところがあったのか。それから顔を上げて「ありがとう」と言い、今度は心配そうな表情でこう続けた。 「ミオは最近体調を崩していた。猫には多い結石症だ。動物病院に通い投薬治療をしてようやく回復したのに、きちんとした食事をとらなければまた苦しい思いをするはめになる。再発が多い病気なんだ」 「なるほど。なら、なおさら早く見つけ出す必要がありますね。自宅から外に出てしまったミオちゃんが行きそうなところに心当たりはあります? 曖昧でもいいです。たとえば動物病院の行き帰りに興味を示した場所だとか、もっと単純に病院が大好きとか?」 「ない。移動は常に車だし、ミオは病院ではいつでも緊張していた。彼は家でのんびりしているのが好きだ。なのにどこへ行ったのか」  低い声でそう言ってから、桐生は小さく溜息をついた。彼の説明は隠し事もごまかしもない正直なものに感じられた。そもそも行方に見当がついているのなら、わざわざ探偵事務所を訪れたり、はてはこんなちっぽけな便利屋まで足を運んだりはしまい。  彼はいま行方不明になっている愛猫がどこにいるのかまったくわからず、ほとほと困っており、また心底心配しているのだ。ならば必ず猫を見つけ出し、彼のもとへと返してやらねばならない。ペット探しの仕事は目下百発百中、ここでしくじったら東町萬屋の名が廃るというものだろう。  大切なものを失う痛みなら知っている、と思う。どうにもならない場合ならともかく、そんな痛みを味わうものは少ないほうがいいに決まっている。  努めて明るく「大丈夫。一緒に頑張りましょう」と告げてから、手帳のページをめくり質問を変えた。 「で、ミオちゃんが逃げ出してしまったことを知ってるひとはいます? 手助けしてもらいましょう。身近な協力者は多いほうが心強いです」  桐生は篤の問いを聞いて、どう返答すればいいのか考えているらしくいったん視線を外し、少しののちに戻して淡々と言った。 「いない。おれの商売は無駄に敵が多い。おおっぴらにすれば情報を悪用されるかもしれないし、最悪ミオになにかされるかもしれない。だからマネージャーにも事務所にも教えていない」 「ああ。すみません、それはそうか」 「いまここに来ていることも、誰にも言っていない。仕事の合間に抜け出してきたんだ、だからじっくり話をする時間もない。急かすようで申し訳ないが」  つまり桐生は、迷い猫の捜索に関しては彼の名を出すことなく秘密厳守で、また対話は手っ取り早く頼むと言いたいのだろう。癖なのかまた眉をひそめた彼に首を横に振ってみせ、詫びる必要はないと示したところで、不意に携帯電話が鳴る音が聞こえてきた。  参ったな、といった様子でちらりと腕時計に目をやり、桐生はジャケットから携帯電話を取り出した。目の前で電話を受けて失礼という意味だろう、片方のてのひらを開き篤に見せ、もう片方の手で携帯電話を耳に当てる。  桐生さんいまどこにいるんですか、早く戻ってきてください、という通話相手の声は篤にまで聞こえた。芸能界には疎いのでよくわからないが、現場マネージャーだとかそのあたりか。なかなかの大声だ。  桐生は「すぐに戻る」とだけ答えて、ほとんど一方的に電話を切った。その姿をいっとき眺め、それから篤は慌てて手帳の白紙ページを開き、ボールペンを添えて桐生の前に置いた。  先刻の言葉通り、この男は消えた愛猫についてじっくり話もできないほど忙しいのだ。もっと訊きたいことも相談したいこともある、とはいえまず今日のところは早く解放したほうがいい。 「じゃあとりあえず連絡先を教えてください。住所氏名、できれば携帯電話の電話番号とメールアドレス、絶対によそには洩らさないので本名で」 「慌ただしくて悪い。今日はこれから深夜まで仕事で動けないが、またきちんと時間を取る」 「悪くないですから。そうだ、面倒かもしれませんけど余裕があるときに、なるべく早く警察署に行って遺失物届を出してください。飼い主本人が行ったほうがいいので。警察ならまわりには内緒で応対してくれます」  早口で指示すると桐生は素直に頷き、篤の手帳にペン先を走らせた。記された住所によると、彼は便利屋事務所から車でほど近い閑静な住宅街に住んでいるらしい。近場といえば近場、そこそこ土地勘がある場所で助かったと内心ほっとする。また、桐生というのは芸名でなく本名であるようだ。 「後日こちらから電話します。忙しければ無理して出なくていいですが、留守番電話にメッセージが残せるようにしておいてもらえると助かります」 「わかった。待っているのでよろしく」  桐生は短く言い残し、猫の写真を応接間のテーブルに置いて足早に事務所から去っていった。先の電話で焦ったのだろう。仕事場に迷惑をかけたくない、と同時に、不自然な行動を取ることで愛猫失踪の一件が露見するのを危ぶんだのではないか。敵が多い、悪用されるかもしれないと言ったのは桐生本人だ。  手帳を手に文房具やら書類やらが散らばる事務机に座ると、応接間での会話を聞いていたらしい知明から「大丈夫なんですか?」と不安げに問いかけられた。庭へと続く閉め忘れた窓、他人にちょっかいを出されても怒らないほどおっとりした猫、頭の中で情報を整理しながら頷いてみせる。 「大丈夫。おれはペット探しは得意だ。いつだったかおてんばな佐藤(さとう)さんちの猫も、怒りっぽい原田(はらだ)さんちの犬もちゃんと見つけたろ」 「篤兄さんの腕は信用してますけど、依頼主はあの桐生博之ですよ? 商店街のおばさんおじさんじゃないんですよ? もし見つからなかったらやばいんじゃ」 「見つけるんだよ。だから知明も協力してくれよな。おれは、誰かの大事なやつがいなくなるのはいやだ。相手が芸能人だろうが近所の顔なじみだろうが、同じだろ」  積み重なる書類の中からさっそく地図を引っぱり出しつつ言うと、知明は溜息交じりに「同じですか。まあいいです」と零した。注目の俳優という肩書きに臆さない叔父に呆れ半分なのだろうが、いやがっている口調ではないので、協力してくれという頼みを断る気はないようだ。  まずあれをして、次にこれをして、黙ったまま計画を練りながら目をやった壁がけ時計は十六時二十分を示していた。つまり桐生がこの事務所にいたのは、たったの三十分ほどということになる。  世界で一番可愛い猫だ。篤に写真を見せてそう言った桐生の、緩んだ眼差しをふと思い出した。幾度かテレビで見た強面刑事の素顔に、心があたたかくなるのを感じた。  あの男には愛するものがいるのだ。  それから気を引き締め、桐生が残した猫の写真と地図、イグニッションキーを手に立ちあがる。さてでは仕事開始だ。ミオが姿を消したのは桐生によると三日前、動物は案外と丈夫でそう簡単に命を落とすことはないにせよ、体調も悪かったそうだし事故だとかの万が一がないとも言い切れない。ならばさっさと行動したほうがよい。  愛するミオが自らのもとに戻ってきたら桐生はどれだけよろこぶだろう。愛猫を抱きしめて、無表情も忘れ嬉しそうに笑うのか。そのときの彼の顔を見てみたい、雑居ビルの狭い階段を下りながらそんなことを思った。

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