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第7話
店を閉め、いつものように対面陳列棚の奥で絵を描いていたリクに声をかける。
「リクは、絵を描くのも大好きだよね」
「うん! これはね、ヤスミンが乗ってる船なんだ! ランディーナ王国に着いたところだよ」
「そうか。上手に描けてるね」
真っ直ぐな瞳で、楽しそうに絵を描くリクの頭の中では、今どんな物語が紡がれているのだろう。
リクには、すべてにおいて優れているアルファ性の特徴がよく表れていて、容姿がいい上に頭も良い。
三歳にして文字の読み書きも簡単な計算もできるし、大人が考えていることもなんとなく察しているようだ。
だからラナンは、余計に気を使ってリクを育てていた。自分が、父親がわからない私生児であること。没落した貴族の末裔で、貧しい生活を強いられていること。母親だと思っている人物が、本当は伯父であること。そしてその伯父が、金を稼ぐために娼夫になろうとしていること。
リクにはたくさん秘密にしなければいけないことがあったが、それでもラナンはずっと彼を守り、誰よりも幸せにしてあげたかった――たとえ、この身がボロボロになろうとも。
「さぁ、部屋へ帰ろうか。今夜はリクが大好きな、カボチャのスープを作るよ! パンも買ってきたばかりだからフワフワだ」
「本当に! おかーさん、嬉しい~っ!」
短い両腕を伸ばして、抱っこをせがむ可愛い息子を、ラナンは愛しい気持ちで抱き上げた。
その時だった。閉めたばかりの店の扉をノックする音が聞こえて、ラナンは何事かとそちらを振り返った。
「どちら様ですか?」
リクを腕に抱いたまま、扉越しに問いかける。すると落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
「夜分遅くに申し訳ありません。私はとある方の使者でございます。ラナン様とご子息のリク様にお話があってお伺いしました」
「とある方の……使者?」
この言葉に、ラナンは不審な思いを隠せなかった。
しかし、奥で話を聞いていたらしいマーゴは、もっと不審げな顔をしていた。
「私はこの店の店主で、マーゴという。店員のラナンも息子のリクも、私にとってはじつの子どもと孫のようなものだ。そんな大切な二人を、『とある方』なんて怪しげな人間の使者に、会わせるわけにはいかないな」
厳しい口調でマーゴが言うと、男たちは言葉を改めた。
「マーゴ様のお言葉は、まったくその通りでございます。では、私たちの身分を明かさせていただきます。私たちはランディーナ王国第一王子、アシュナギート・イルローイ・ランディアーナ様の従者でございます」
「ラ……ランディーナ王国の……第一王子?」
「はい。じつはラナン様のご子息であられるリク様は、ランディーナ王国の第二王子、ダシャハーン・イキヤ・ランディアーナ様のお子様の可能性が非常に高いのです」
「えっ?」
驚きから、ラナンとマーゴは目を見合わせた。
この時、確かにラナンは驚きはした。しかし、そうではないかという疑惑が常にあったので、冷静にとらえている自分もいた。
けれども確定してほしくなかった現実が、じりじりと近づいてくる恐怖はあった。
もし、リクの父親が本当にランディアーナ王族の第二王子だったとしたら、王位継承権を持つ者として、リクはランディーナ王国へ連れていかれてしまうだろう。
(それだけは絶対に嫌だっ!)
ラナンは腕の中にいるリクを強く抱き締めた。柔らかな髪を撫でるように頭を押さえる。本能的にリクを離したくないと思ったのだ。
「おかーさん……?」
心配そうなリクの声がして、ラナンは安心させようと彼に微笑んだ。
「大丈夫。リクはなんにも心配しなくていいからね」
この会話から、さらに危機を感じ取ったのか、マーゴが厳しい顔つきで男たちに訊ねた。
「一体何を根拠に、そんなでたらめを言うんだい?」
「でたらめなどではありません。我が国の優秀な諜報員が調べました」
この言葉に唇を噛んだ。こんなにも愛し、慈しみ育てたリクは、もう法律上だけでなく、心も本物の母子だ。それなのに、ここにきて引き離されるなんて――。
「そして何よりの証拠は、リク様の髪と瞳と肌の色が、ランディアーナ王族にしか現れない特徴を持っているからです」
「これは! リクの父親は西方の人間で金髪碧眼だったことと、肌の色は祖母に似て褐色……」
「ラナン様、もう嘘はやめましょう。真実はあなたの心の中にある。そして代々受け継がれた指輪も」
「指輪?」
一体なんのことだかわからない、とマーゴに視線を送られたが、ラナンは答えられなかった。
なぜなら、ショックだったからだ。
あの日、カリナが置いていった指輪のことも知っているとなれば、この使者たちは他のことも調べ上げているのだろう。
情けなく眉を下げ、ラナンは赤い唇を再び噛んだ。使者が言う通り、真実は自分の胸の中にあったからだ。
「ご納得していただけましたら、私どもと一緒に迎賓館までお越しくださいますか?」
「……わかりました。では、準備をしてきますので少々お待ちください」
ラナンの言葉に他意はなかったが、使者たちは不審に思ったらしい。
「ではその間、私たちがリク様の面倒を見ていましょう。扉を開けてはいただけませんか?」
不安を覚えてマーゴを見ると、彼は大きく頷いてくれた。
「安心しろ。俺がちゃんと見張っててやるから。ラナンは準備をしてきなさい」
「ありがとうございます」
言葉とともにマーゴが扉を開けると、そこには見たことのある青年がいた。
「あなたは……あの時の?」
目を見開くと、黒い長衣にクーフィーヤを被った青年が頭を下げた。
「あの時はどうも。私の名前はサラーン・ミオと申します。第一王子であらせられる、アシュナギート王子の秘書を務めさせていただいております」
サラーンと名乗った青年は、娼館から出てきた男の脇にいた人物だ。懐から出した小袋を、ラナンに手渡した相手でもある。
リクをマーゴに預けると、上階の部屋へ向かった。
一緒に来いと言われたからには、きっとあの指輪も必要となってくるだろう。
複雑な気持ちで鍵つきの引き出しを開けると、ラナンは黄色い石が嵌まった指輪を、斜め掛けの布かばんに入れた。
そして、自分とリクが強固な関係であることを示す母子手帳と、不本意に受け取ってしまった施しも中にしまう。
硬貨の入った小袋は、第一王子に返さなければならない。
こんな施しを受ける義理などないからだ。
最後に黒いスカーフを頭から肩にかけて被ると、ラナンは部屋の鍵を閉めた。
日差しが強く、砂嵐も多いこの一帯では、基本的にアルファ性の男はクーフィーヤという布を頭に巻き、革でできたイカールという輪でそれを留めている。
しかしこの格好が許されるのは、貴族や位の高いアルファ性の男だけで、ベータ性やオメガ性の男女は、スカーフしか巻いてはいけない。
階段を下り、黒い小さなスカーフをリクにも巻いて、マーゴから大事に受け取る。
「何かあったらすぐに逃げ出すんだぞ」
マーゴに囁かれ、ラナンはしっかりと頷いた。
(これから僕らは、どうなってしまうんだろう?)
そう思うと、不安と恐怖で今すぐ逃げ出したくなった。
けれども気丈に前を向くと、ラナンは真っ直ぐに彼らを見つめた。
不穏な空気を感じ取ったのか。リクは不安げに眉を下げ、ラナンのスカーフを強い力で握った。
「大丈夫、大丈夫だよ。僕が……お母さんがリクを絶対に守るからね」
囁きながら頬を擦り合わせると、リクはラナンの首にしがみついた……いつも以上に強い力で。
「それでは、こちらの馬車へどうぞ」
サラーンに促された馬車は、闇夜の中でもわかるほど立派なものだった。
朱色の車体には繊細な金細工が施され、大きな車輪には珍しいゴムが巻かれている。御者が綱を握る四頭の馬はおとなしく、車内へ入るために踏み台を上ると、中は高貴な色を表す、濃紺の天鵞絨で統一されていた。
「おかーさん、すっごくふわふわなお椅子だね」
馬車の戸が閉められ、ゆっくりと車体が動き出すと、隣に座っていたリクが小さく口を開いた。
「そうだね、おうちにある硬い木の椅子とは大違いだ」
幼いなりに、ラナンの緊張をほぐそうとしてくれたのだろう。リクの言葉に微笑むと、
彼もまた安心したように笑った。
向かいの席にはサラーンが座り、その隣には屈強な男がラナンとリクを見張るように腰を下ろしていた。二人が逃げ出さないように見張っているのだろうか?
部屋がある菓子店はどんどん遠ざかり、馬車は城下までやってきた。
舗装されていない広場をガタガタと揺られていると、あまり高くない城壁が見えてくる。
そして何事もないように鉄門がすっと開き、馬車は城内へと入っていく。
それは出入りの自由が許されているということだ。辺境伯の長男だったラナンでさえ、城内に入ったことは一度しかないのに。
(こんなところまでやってきて、一体どうするつもりなんだろう?)
やはり、第二王子の子である確率が高いリクは、自分から取り上げられてしまうのだろうか?
この国では、母子の絆は何よりも尊いとされ、どんなことがあっても引き離されない。でもランディーナ王国の法律はどうなのだろう? 母子の絆は脆くて、安易な扱いをされてしまうのだろうか?
「着きましたよ」
サラーンの言葉と同時に、馬車は丸屋根の白い建物の前で止まった。
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