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1. 中庭の彼と悪戯な風1

 残暑の厳しい、夏休みが明けたばかりの頃のことだった。  一年生の教室は校舎の四階にある。教室の窓から下を見下ろすと、色鮮やかな花が植えられた花壇が特徴的な中庭が見える。前期が始まったばかりの春に、授業の一環として花の苗を植えたことは覚えているが、その後の世話は誰がしていたのか分からない。きっと誰が見ても綺麗だと言うほど見事に咲いている、と少年ー早川は思う。  園芸部なんてこの学校には存在しない。業務員として雇われている年配の男性がいたが、春に身体を壊し、しばらく入院するという噂をどこかで耳にした。  ちょうど今の時期が一番綺麗に咲いているのだろうか、と西日が当たる窓の外を見ながらぼんやりと考えていた。なぜ、花より食い気な年頃の少年が花なんて見ているのか。簡単に言うと、現実逃避しているだけだ。  今、彼の机の上には真新しいプリントが一枚広がっている。早川のほかに、教室にはちらほらと五人ほど席に着き、同じように机の上にプリントを広げていた。  西日が入り始めた放課後、本来なら既に大好きな部活動の時間だが、今日だけは違う。放課後の再テストを受けなければならないからだ。成績に関わる重要なことだが、部活が気になり身が入らず、日当たりの良い窓側の席からぼんやりと外の景色を見ていた。見たくない現実から、目を背けているのはわかっている。しかし、目の前のプリントに取り掛かることは、とてもじゃないが腰が重い。  ぼんやりと眺めていた中庭に、人が現れた。一年生の教室がある四階からでは顔はしっかりと見えないが、背の高い男子生徒だということはわかった。隅にぽつんとある年期の入った木製の用具庫の扉をガラガラと音を立てながら開く。中から取り出したのは長いホースと如雨露。水道にホースを差すと花壇の花たちにむかって水を撒き始めた。ホースの長さでは届かない場所には如雨露で水を運ぶ。それをこの暑い中、何往復もひとりでやっていた。終わったら道具を丁寧に片付け、中庭から去って行った。  彼の行動を何もせず眺めている時間は、思った以上に長かったようだ。時計を見たら三十分ほど経過していた。あ、やばいと思った時にはもう既に遅い。 「はい、時間です。」  テスト終了の合図を知らせる先生の声。駿太の解答欄は、真っ白だった。  真っ白な解答が回収されていく。それはすぐ先生の手元に届き、降ってきたのはどうしたんだという心配の声と、一週間の放課後学習の刑。これでは暫く部活に行くのが遅くなってしまうと落胆した。これも全部あの花壇の男子生徒の所為だ、と全く関係ない彼に責任を押し付けることにした。  その時は何も考えなかった。普段は中庭に人がいても何も気にしない自分が、あの時彼から目を離せなかったのか、自分でも不思議でたまらない。  それから放課後学習を言い渡された一週間の間、毎日中庭を見ていた。毎日彼も同じ時間帯に現れていた。急いでいるだろう時は、走って中庭に現れて腕時計を気にしながら水をやる。そして、終わったら走って帰って行く。時間があるだろう時は、花壇の前にしゃがみ込んで、草むしりをしているようだった。名前も顔も知らないし、何年生なのかもわからない。彼のことは知らないが、彼の優しさが遠く離れた場所からも感じ取れた。  放課後学習の最後の日は、ミニテストだった。駿太はいつもの窓側の席でテストを受ける。一週間しっかりと補習を受けたので今度は全ての解答欄に答えを記入した。あとは時間になるのを待つだけ。  窓の外を見下ろす。今日は彼の姿が見えない。あれ、と思い窓を開けて下を見ようとした。すると、びゅう、と急に強風が教室の中をかき混ぜた。教卓の上に無造作に置かれたプリントや、壁の掲示物がバタバタと音を鳴らし、教室の中を散らかした。 「あ、やべっ」  周りに気を取られているうちに、駿太のテスト用紙が風に攫われていった。窓の外に手を伸ばしたが届かず、ひらひらと中庭に落ちていった。  教室に疎らだが、くすくすと笑う声が広がる。偶然の出来事だが少し恥ずかしい。先生も笑いながら取ってきていいぞ、と言ってくれた。  階段を息が上がるほどダッシュで駆け下りた。廊下は走るな、階段は飛ばすなと入学してから何度も何度も注意されていたが、こればかりは直らない。 「危ないよー、早川!」 「ごめん、ごめーん!」 「今度は何やらかしたんだ?」 「いやー、テストが窓から逃げちゃってさ!」 「転ぶなよー?」 「子供じゃないんだから、大丈夫だって!」  途中、すれ違うクラスメイトや文化部の友達に声を掛けられる。今は構っている場合ではない、と挨拶もそこそこに中庭に向かって走った。  この早川少年は、学校のクラスに一人は必ず居るような、典型的ムードメーカーである。人懐っこく、誰からも好かれる明るい性格。今も急いでいるというのに、色々な所で声を掛けられる。人と話すことは好きだが、さすがに今は察してほしい。人気者は辛い。  玄関で上履きを脱ぎ捨て、踵を潰してスニーカーに履き替える。パタパタと潰したスニーカーが音を立てる。中庭に行くと、いつも四階から見ていた中庭の彼が、テスト用紙を拾ってじっくりと見ている。  よかった、テスト用紙無事だった、と安心してしまったせいか、潰したスニーカーが脱げて足がもつれ、勢いよく転んでしまった。 「わっ!」   ズシャ、とまるでヘッドスライディングをするように転んだ。ほんの少し砂煙が舞ったような気がした。地面がコンクリートではなく土と草だったことが不幸中の幸いだ。しかし、高校生になってまで、何もない場所で、しかもこんなに思いっきり転んだところを他人にしっかり見られたのはかなり恥ずかしい。テスト用紙を見ていたようだったが、この無様な姿を見られているに違いない。格好付けたい年頃の早川は、羞恥でしばらく顔を上げられなかった。 「…あの、大丈夫?」  うつ伏せに倒れたまま、あまりにも動かない自分を心配したのだろうか、上から声が降ってきた。ばっと勢いよく顔を上げると、ごちん、と鈍い音がした。 「いっ…!」 「いってえーーー!」  声を掛けてきた彼の顔が意外と近くにあって、後頭部と彼の顎が思いっきりぶつかった。正直、転んだのよりこっちの方が痛い。そして顎をぶつけた彼の方がもっと痛そうだ。舌は噛んでいないだろうかと心配になる。彼は声も出さずに悶絶していた。 「ああ、ごめん!大丈夫…じゃないよな…」 「ん…いや、平気。君こそ、転んだみたいだけど、大丈夫か?」  中庭の彼は、そう言って手を出してきた。その時ばっちり目が合った。ずっとその姿を上から見ていたが、顔は初めて見た。初めましてな気がしない、なんだか不思議な気分だった。差し出された手をとる。自分より一回り大きく、骨張った男らしい手。立ち上がって向かいに立つと、頭一つ分近く彼の方が背が高い。やはり長身だった。早川は砂まみれの制服をぱんぱんと叩いて、汚れを落とす。 「うん、大丈夫!」 「そうか、ならよかった」  少しつり目気味だが、優しい笑顔。優しさが伝わる仕草。四階から見ていても伝わってきた優しさは気のせいではなかった。  そうだ、と中庭の彼が何かを思い出したように言った。 「これ、探しに来たんだろ?」 「あ、俺のテスト!」   差し出された一枚の紙。少し汚れてしまっていたが、それにはしっかりと早川の解答が書かれていた。 「えっと……気付いちゃったんだけど、この解答間違ってるぞ」 「え、まじか!どこどこ?」  中庭で二人で顔を合わせテスト用紙をまじまじと読み込む少し異様な光景。長身の彼は、背の低い早川に合わせるように少し屈んでくれていた。 「ここと、この問題と…あと最後の問題も」 「うげー、そんなにかよー…ざっと見て何点くらい取れてるがかわかる?」 「うーん、七割くらいか?」 「え、それじゃ合格できないじゃん!」  合格は八割と言われているこのテスト。不合格だとまた一週間の放課後学習が待っている。これ以上部活に遅刻しては怒られるし、何にせよ秋の大会の出場に関わる。何としても合格したい。が、四階に戻る頃には提出の時間を迎えている。  あからさまに落胆している早川を見かねたのか、教えてやるよ、と言って鞄からノートとシャーペンを取り出す。 「急いでるんだろ?俺が言う通りに書いて」 「うん、わかった!ありがとう!」  シャーペンを早川に渡し、テスト用紙の下にノートを敷いた。二人で地面にしゃがみ込みながら問題を解く。今は急いでいるため、解説は一切なし。記述に必要な答えだけを彼がつらつらと述べ、それを早川が書いていく。あっという間にテストの解答欄が埋まった。 「ありがとう!この恩は必ずや!!」 「あはは、なんか武士みたいだな。じゃあ、頑張って」   風のように走って校舎に戻る早川を、中庭の彼は笑いながら見送る。忙しない早川を見て、風というより台風のようだと彼は思った。  もちろん早川のテストは合格。彼のおかげで。点数が思ったより高くて、先生に褒められたことに心が少し痛んだが、そんなことより部活に出られることが嬉しい。しかもずっと気にしていた中庭の彼と話せたのだ。いつも一人でいる姿しかみていなかったから、もっと孤独をこの無用な人物かと思ったが、気さくで話しやすい人柄だった。   今度会った時お礼をしよう、と早川は心に決めた。

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