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1.中庭の彼と悪戯な風2

 あの出来事から二週間ほど経った頃。その日、部活の朝練習が休みだったことを忘れた早川が、たまたま早く登校した。学校に着いてから練習がないことを思い出して、がっくりと項垂れた。もっと寝坊できたのに、と悔しがる。  人気はないが、学校は開いていた。教室の電気はついていないが、職員室の電気はついている。大人は朝から忙しいんだなと思いながら、自分の教室に向かう。もちろん、早川が一番乗り。  クラスメイトも誰もおらず、つまらないと思いながら、窓側の自分の席に座り外を見た。 「あっ!」  こんな早い時間に、と一瞬目を疑ったが中庭に彼がいた。いつ通りホースと如雨露で花壇に水を撒いていた。 「おーい!」  早川は窓を開け、彼に向かって叫ぶ。彼はびくっと肩を跳ねさせるほど驚いた。誰も居ないだろうと思っていた校舎から声がしたのだ。驚くに違いない。声の主を発見できないのか、きょろきょろとしている。 「こっち!上見て、上!」 いつまでも自分を見つけてくれない彼に痺れを切らし、早川は窓から身を乗り出し、両手を大きく振った。やっと気付いた彼は、危ないぞ、と言いながらも手を振り返してくれた。 「今そっち行くから、待ってて!」  え、と少し驚いた様子だったが、わかったとすぐに返事が返って来る。それが嬉しくて、早く中庭に行きたくて二段飛ばしで階段を駆け下りた。   * 「なんでいつも花の世話してるの?」  二人しかいない中庭。如雨露で花壇に水を撒く彼の隣で花を見ていた。朝日と水で、花はきらきらと光っているように見える。 「何でって言われてもなあ…」  何でだろうな、と彼は困ったように笑った。 「だって大変だろ?毎日こんなに朝早く来てさ」 「うーん、家近いからなあ」 「ひとりで大変じゃないの?」 「大変じゃないわけじゃないけど、誰もやらないと枯れるだろ」  せっかく植えたのに勿体ない、と彼は言う。その言葉から彼の優しさが滲み出ていた。 「大変と言えば、君も大変だろ?」 「え、何が?」 「陸上部の練習。毎朝、夕方もたくさん走るし、休みの日だって走るだろ?」 「うーん…それは好きでやってることだしなあ」 「俺も、それと同じかな」  彼は自分でもなぜ毎日花壇の世話をしているのかわかっていないようだった。結局は納得のいくような答えは出そうにない。 「え、てか何で俺が陸上部だってこと知ってるの?」 「わかるよ。1年の早川だろ?俺は毎日グラウンドで練習してる横を通ってここに来てる。それに、君はかなり目立つよ」 「目立つ?俺が?」 「陸上部期待の新入生だって、みんな噂してた」  目立つってそういうことね、と早川は納得した。学校にはスポーツ推薦で入学したし、大会で活躍して学校の横断幕に名前が載った。あれって意外とみんな見てるものなんだと感心した。  そして気づいた。中庭の彼は自分の事をよく知っているが、自分は彼のことよく知らない。 「俺だけ知られてるのはフェアじゃない!名前、なんて言うの?」 「大原」 「部活は?」 「やってない、帰宅部」 「えっとあとは…一年生、だよな?」 「いや、二年」 「え、マジか。…すいません」 「いや、今更やめてくれよ。壁を感じる」 「そっか…じゃあ、遠慮なくタメで!」  中庭の彼の名前は大原。ひとつ年上の二年生だった。先輩に敬語を使わないことは、根っからの体育会系である早川にとってあってはならないことだったが、相手が嫌がるので気にしないことにする。  話している間も、大原は重い如雨露を持って、水道とホースの届かない花壇とを行き来する。やはり大変そうだ。 「なあ、明日から俺も手伝っていい?」 「え?」  大原は今まで話していた中で、初めて手を止めて早川の方を見た。どうやらとても驚いているようだった。 「え、そんな驚くようなこと?」 「あ、いや…そんなこと言う奴、初めてだったから」 「あ、でも、朝練がない日と、夕方部活行く前しか手伝えないや…」  大会前の今、部活の朝の練習がないのは月曜。夕方、授業が終わってから部活が始まるまでの三十分間。それしか手伝える時間はなさそうだ。それか、もっと朝早く来て練習前に寄っていくか…どうしよう、と考えていると、大原がホースと如雨露を片付けながら言った。 「手伝いたくなったら来たらいい。それだけでも助かるよ、ありがとう」  そろそろ行くぞ、と言われて早川は随分と時間が経っていたことに気づいた。  誰も居なかった校舎には、たくさんの生徒の姿が見え、騒がしくなっていた。 「おーい、早川〜」 「なに邪魔してんだよー!」 「ホームルーム遅刻すんなよー?!」  四階の教室からのクラスメイトたちが早川を呼ぶ声が聞こえた。 「邪魔してねーし!遅刻もしない!」  早川も四階に向かって叫び返す。窓から乗り出していたクラスメイトたちが笑い声と共に教室の中へ消えていく。 「やっぱり、人気者だな」 「あいつら、俺で遊んでるだけだよ。人気者は辛いぜー」  早川は大袈裟にため息をついてみせる。    その日から、早川の朝は早かった。自宅の最寄り駅から学校の最寄り駅まで二十分。駅から学校まで歩いて十五分。出来るだけ中庭に行きたい、と思ったので朝の練習前に顔を出すことにした。大原も早川に合わせて、少し早く来てくれるようになった。  特に二人の間に特別なものは無い。ただ、花に水をやりながらお喋りな早川が話し、それに大原が相槌を打ったり、笑ったりする。何ということもない、ただ一緒にいて普通に過ごしているだけ。 「大原の家近いの?」 「歩いて十分くらいかな。駅と学校の間にある」 「めちゃ近いじゃん。いいなあ、俺も引っ越したい」 「はは、引っ越すほどの距離じゃないだろ」  大原と一緒に居る時は、いつも忙しなく流れている時間がまったりと流れているように感じて心地良い。早川はこの時間が好きだった。  

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