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お題『心を許す2』
※お題『心を許す』の別視点ver.です。
貴方が俺を見つけてくれたのは、冷たい雨の日だった──。
一日目。
雑居ビルの隙間。
昼間でも薄暗い路地裏で、俺は震える身体を縮こまらせていた。
雨に濡れて、寒かったからじゃない。
傷つけられるばかりの家に、連れ帰られるのが怖かったからだ。
そんな俺の姿に最初に気付いたのが、貴方だった。
「お前……そんなとこで、何してるんだ?」
ビニール傘の下から路地を覗き込んでくるその身体は、俺よりもずっと大きくて、恐怖が先に立った。
大人は怖い。
数えるほど、人と関わったことはないけれど、身近に居た数少ない大人たちは、皆怖かった。
繰り返される暴力。
か細い声も、力でねじ伏せられた。
──この人も、きっと同じだ。
初対面の貴方を、しゃがみ込んだまま睨みつける。
俺に出来る、精一杯の抵抗だった。
黙ったままの俺に、ゆっくりと近づいてくる陰。
てっきり殴られるのだと思って身構えたけれど、貴方の手は、雨で濡れそぼった俺の頭を優しく撫でた。
お世辞にも綺麗とは言えないのに、嫌な顔一つせず。
「こんなに濡れてちゃ、風邪ひくぞ。タオルくらい貸してやるから、取り敢えず出てこい」
その言葉に、俺は反射的に立ち上がっていた。
二日目。
昨日、ずぶ濡れの俺を連れ帰った貴方は、約束通りタオルで俺の全身を拭いてくれた。
そこまでは理解出来たけれど、貴方はそこから温かいミルクを差し出してくれた。
甘くて、優しい匂い。
そんなもの、これまで与えてもらった記憶がない。
大人は怖い。
口をつけたら、何をされるかわからない。
ましてや相手は知らない大人だ。
ジッと身構えることしか出来ない俺を見て、貴方は眉を下げた。
「参ったな。牛乳苦手か? でも、水分くらい摂った方がいいだろ」
それから二日かけて、貴方はココアやスープ、他にも色んな飲み物を次々用意してくれた。
家では飲んだことのないものばかりで、どれも魅力的だったけれど、俺は最後に貴方が渋々入れてくれた水道水だけを飲んだ。
これだけは、毎日飲んでいたから。
この日飲んだ水道水は、今までで一番美味しいと感じた。
三日目。
──やってしまった。
水しか飲んでいなかった身体が空腹に耐えかねて、とうとう腹が鳴ってしまった。
今度こそ、怒られることを覚悟した。
ごめんなさい、と伝える代わりに小さくなる俺を見下ろして、一瞬目を丸くした貴方は、何故か豪快に笑い声を上げた。
今度は俺が目を丸くする番だ。
「ほら見ろ、腹減ってるんだろ。寒いんだから、いい加減あったかいもの食えよ」
まだ笑っている貴方が差し出してくれたのは、フワフワの玉子が入ったお粥。
だしの香りが鼻先を掠めて、俺の代わりに、ぐうっともう一度腹が鳴いた。
……食べても、怒られないだろうか。
迷ったけれど、恐怖よりも飢えが勝った。
恐る恐る、スプーンで掬って口へと運ぶ。
一口含んだ瞬間、優しい味が口いっぱいに広がって、そこからはもう手が止められなかった。
口元が汚れるのも構わず、目の前のご馳走に夢中になった。
我に返ったのは、空になった器を見て貴方が再び笑ったとき。
「そんなにがっついて貰えると、かえって気持ちいいな」
長い指が、汚れた口元を拭ってくれる。
汚い食べ方を、叱られると思ったのに。
……大人は、怖いものじゃないんだろうか。
叱るどころか、鼻歌まじりに皿を洗う背中を見ながら、そんなことを思った。
五日目。
「嫌だ! やめて……!」
貴方の元へ来て、初めて俺が発した言葉は、取り乱した悲鳴になった。
ほんの少し気が緩みかけていたところで、風呂場へと連れ込まれたからだ。
風呂場は嫌いだ。
熱い湯をかけられるか、冷水を浴びせられるか。どちらにしても、苦しい思いしかしたことがない。
やっぱり大人は怖い。
この人も、きっと俺を苦しめるんだ。
俺はパニック状態で、とにかくその場から逃げ出そうと必死に暴れた。
俺の服を脱がせにかかる貴方の腕に噛み付いて、そこかしこを引っ掻いて抗った。
「いてっ! 落ち着け、ただ洗うだけだって!」
「嫌だ!!」
「いつまでも汚れっぱなしじゃ良くないだろ。せめてシャワーだけでも──」
強引に俺の服を脱がせた貴方の声が、そこでピタリと途切れた。
「………?」
突然固まってしまった貴方を見上げると、その視線は、俺の身体に留まったまま動かない。
「……お前……この傷……」
貴方が呟いた言葉の通り、俺の身体にはあちこち傷がある。古いものから、そこそこ新しいものまで。
けれどこれは、貴方がつけたものじゃない。
何なら貴方の腕には、つい今しがた俺がつけてしまった歯形が、くっきりと残っている。
「……ごめんな。なるべくそっと洗うから」
ごめん、と何度も謝りながら、貴方がかけてくれたシャワーのお湯は、熱くも冷たくもなくて心地良かった。
……どうしよう。
俺の方が、怪我をさせてしまった。
謝るのは俺の方なのに、何故か貴方がずっと謝っている。
どうして貴方が謝るんだろう。
貴方はただただ、俺に優しくしてくれていたのに。
──怖いのは、一体だれ……?
七日目。
初めて俺を風呂に入れてくれてから、貴方は途端に口数が減った。
変わらず俺に、温かい食事を与えてくれるけれど、笑顔も何だか寂しげに見える。
……きっと、俺が怪我をさせてしまったからだ。
自分を傷つける大人が怖いと思って逃げ出してきたくせに、俺も貴方を傷つけた。
もう、何が怖いのかわからない。
怖くて寒くて──心細い。
ここへ来てから、俺はずっと部屋の隅で寝かせて貰っている。
目の前のベッドから聞こえる、貴方の寝息。
腕の傷はどう?
俺のこと怒ってる?
明日になったら、追い出されるかな?
足音を殺してそっとベッドへ這い寄ったつもりなのに、眠っていたはずの貴方がふと目を開けた。
思いがけず目が合ってしまって、暗がりの中、暫しお互い見つめ合う。
先に沈黙を破ったのは、貴方だった。
「どうした?」
布団の中から伸ばされる、長い腕。
俺がつけた歯形はだいぶ薄くなっていて、思わずホッと息が零れた。
優しくしてくれたのに、怪我をさせてごめんなさい。
差し出された手に、そろりと髪を擦り寄せる。
すると、久しぶりに貴方がいつもの笑顔を浮かべた。
「髪冷たいな。もしかして、寒いのか?」
こんな風に俺に笑いかけてくれる人なんか、どこにも居なかった。
……身体じゃなくて、心が寒いんだ。
もう二度と、傷つけたりしないから。
だからもう少しだけ、貴方の笑顔を見ていてもいい?
ジッと視線で問いかける俺に応えるように、貴方が軽く布団を捲って見せた。
「おいで」
優しく呼んでくれる声。
こんなとき、どんな風に応えれば良いのかが、俺にはわからない。
傷つけられるのも怖いけれど、優しくされるのも怖いなんて思うのは、我儘なんだろうか。
おずおずと、躊躇いがちにベッドへ上がった俺の身体が、ギュッと強く抱き締められた。
「……っ!」
咄嗟のことで、つい身を硬くしてしまった俺の背を、大きな掌が何度も撫でてくれる。
あたたかい手が、「大丈夫」と言ってくれているようで、言葉より先に、涙が溢れて止まらなくなった。
人の温もりがこんなにも心地良いなんて、初めて知った。
「ごめんなさい」も「ありがとう」も、必ずちゃんと伝えるから。
今はせめて、これだけは伝えたい。
「…………あったかい」
嗚咽の合間に、辛うじて声を絞り出す。
初めての温もりに身を寄せる俺が眠りにつくまで、貴方はただ優しく、背中を撫で続けてくれた。
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