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月が紅 い。否、もしかしたら自分の瞳が紅いのかもしれない。
冷ややかな光を放つ下弦の月の下、蘭珠 は山林を駆けていた。沓 を履かない足許では霜で硬くなった下草が軋み、前方から吹き付ける風は頬を切り裂くかのように冷たい。息が苦しくて悪心 すら覚えるが、それでも足は止まらない。
前へ、前へ。背後に置いてきた全てのものを振り切るように蘭珠は走り続けた。梢が手の甲を切り裂いても、辛うじて肩に纏わりついていた頭衣がずり落ちても、一切気に懸けていられない。長く膨らみのある袖と裾が鬱陶しい。何度も躓きそうになりながら、風を切って走り続けた。
寒い。痛い。苦しい。つらい。なぜ自分がこんな思いをしなければならないのかと、理不尽に対する憤りで胸が灼けそうだった。獣のようにグウウと喉の奥で呻く。
なぜ。なぜ。思考は次々と剥がれ落ちてゆき、やがてその二文字だけが繰り返し浮かぶ。答えが欲しくて紅い月を見上げる。ここに至るまでの出来事が泡沫のように浮かんでは消えた。
蘭珠は憤っていた。
人より小さい体から人より大きい激情を放ちながら、官府の舎内をのし歩く。歴 とした成人男性でありながら何処か女性的な美を併せ持つその男の、しかしながら激しい怒りで歪んだ貌 を見、すれ違う人々は悉 く道を開けた。触らぬ神に祟りなし、とどの貌にも書いてある。遠巻きにしながらもびくびくと様子を窺っている下級役人たちを一瞥し、蘭珠はふんっと鼻を鳴らした。
(気に入らぬ。何もかもが気に入らぬ)
官府の中でも上級役人らが詰める執務室の、乱れひとつない己の席へどかりと腰かける。哀れにも事情を知らぬ下級官吏が書類を携えて近寄ってくる。
「蘭三位。こちらの書類に捺印を……」
「後にしてくれ」
その声の冷ややかさに、周囲にいた者たちが体を強張らせる。
「いえ、しかし……」
「後にしろと言っている。同じことを二度言わせるでない、愚鈍な奴め!」
「しっ、失礼しました!」
泣き出しそうな顔で下がっていく部下が目障りで仕方がない。チィッと舌を鳴らせば、斜向かいの卓で何やら二つの書類を見比べていた狷有 が苦笑いを寄越した。小柄で女性的な蘭珠とは異なり、体格の良い偉丈夫である。
「おお、おお、可哀相に。真っ蒼な貌をしていたよ」
蘭珠はその気の強さを体現した、強く鋭い琥珀色の瞳 で彼を睨みつける。視線で人が殺せるならば即死であるくらいの強い眼差しだったが、同輩の友は全く動じない。どころか、苦笑を冷笑に変えさえする。
「そんな風に当たり散らしてばかりじゃあ上に嫌われるぜ」
蘭珠はあと一歩のところでその同輩に殴りかかるところだった。誰のせいだと思っているのか、と。
蘭珠たち上級官吏は、国家試験に合格したのち東西南北各地の辺境に配属される。そこで役人としての経験を積み、一位という官位まで上り詰めた者から都へと登用される。蘭珠は西方の地へ配属された。西の隣国との国境沿いに広がる、まさに辺境である。とはいえその隣国との間には一国ほどもあろうかという広漠たる森林が広がっており、余り国境 という様相を感じさせない。
西方の辺境へともに配属された官吏は蘭珠を含めて三人。その中で真っ先に一位に上がるのは自分だと、蘭珠は信じて疑っていなかった。
その俊才ぶりから幼少より神童と持て囃され、二年前の国家試験では主席で合格した。受験者千余人のうちの首席である。その功から、他の者が五位からの始まりであるのに対し、蘭珠は初めから三位という官位から採用された。そんな自分が先駆けでなくて一体何が道義であろう、とすら思っていた。
だがそれから二年。蘭珠の官位は三位からいっこうに変わらぬ。どころか、共に採用された同輩たちが追い付いてきたのである蘭珠は焦った。己の功をもっと示さねばならぬ。人一倍も働き、職務に有用な学を身に着け、己の優秀ぶりを周囲に見せつけてきた。だのに、官位が一向に上がらぬ。
そして今日、ついに。
「狷二位、昇格おめでとうございます」
斜向かいの卓に、わらわらと下級官吏たちが群がる。同輩の中でも蘭珠が特に愚物と見下していたこの男が、蘭珠よりも高い位に就いたのである。上にへらへらと媚を売ってばかりで能力はたかが知れた、軽蔑すべき俗物である。その報せを聞いたときには鈍器で頭を殴られたのかと錯覚したほどだ。
「いやいや、どうして僕がと思っているところなんだよ。この西方には僕なんかより遙かに優秀な男がいるというのに」
言って、蘭珠に意味ありげな視線を寄越す。腸が煮えくり返るかと思った。
「今宵祝いの席を設けますゆえ」
「おお、すまぬな」
「えっと、その……蘭三位も、如何ですか」
おずおずとかけられた声で、蘭珠の火種に完全に火が点いた。元よりツンと尖った眦 が、ギッと鋭く吊り上がる。
「結構。貴殿らのごとき俗物と交わる趣味はない」
水を打ったように場が静まり返る。張り詰めた空気の中、狷有だけが笑みを保っていた。
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