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 そこから、蘭珠(ランジュ)の屈辱の日々は始まった。  (たと)えば官府の廊下を歩いているときであった。向かいから歩いてきた狷有(ケンユウ)の手から、一枚の書類がはらりと落ちる。蘭珠が気にも留めず通り過ぎようとすると、「おい」と呼び止められる。 「上官に気を遣って拾って差し上げるのが礼儀では?」 「は……」  にやにやと(いや)らしく(わら)う男を睨みつけるが、蘭珠たち官吏の世界では官位が絶対的であることも真理。官位の高い狷有が拾えと言った以上、履行せねばそれは蘭珠の咎となる。奥歯を噛み締め、頭から(ほのお)を噴きそうなほどの激情をどうにか耐える。粘着質な視線を首筋に感じながらも身を屈めて紙片を拾い上げたとき、(うなじ)でひとつに束ねた黒髪を強く引かれた。痛みに「うっ」と呻けば、背後からくつくつと嗤う声が降ってくる。 「おやあ? この国で長髪が許されるのは成人した男子のみのはずですが?」 「何を……おれは貴殿と同じ二十四だがっ」 「それは失礼。随分小柄なので、少年でも紛れ込んだかと」  小さく貧弱な体と幼い顔つきは、蘭珠の威厳に関わる最も気にしていることである。余りの怒りに白磁のような頬を真赤にする蘭珠を見下ろし、男はふんと鼻で嗤った。  そんな屈辱が何度も蘭珠を襲った。  時には荷物持ちをさせられ。時には偶然を装って顔に茶を浴びせられ。蘭珠がいつも使っている筆入れを彼の手の届かない高所へ置かれたり、あとはひたすら言葉による侮辱が行われた。そしてそれは、しばしば他の下級官吏たちの見ている前で繰り広げられた。周囲は狷有を窘めるどころか、彼と一緒になり蘭珠を嗤った。それは、蘭珠には耐えがたい屈辱であった。  一度、官府の長である上官に掛け合ったこともあった。自分の何処が狷有に劣っているのか、なぜ二年経った今でも三位という地位に甘んじなければならないのか、と。年老いた上官は困り果てた顔で長い髭を撫で、そして蘭珠には理解できぬことを語った。 「蘭よ。貴殿のそういうところだ」 「は……」 「貴殿は優秀だ。博識や明晰というだけではない。分析力、判断力、あらゆる面において他から抜きんでたものを持っている」 「では、なぜ!」 「だが貴殿は人の間で生きられぬ」  蘭珠は言葉を失った。目の前の老人の話す言語が理解できなかった。 「狷もまあ俗っぽいというか、軽薄なところはある。しかし彼が同輩や上官と交わり見識や人間性を深めていた頃、貴殿は人との交わりを素気無く避けてきた。貴殿の目はいつだって周囲を蔑んでいる。己と周りは違うのだと、壁を作り、触れる者に噛みつく。それでは誰も、貴殿の下につきたいとは思わない」  真昼であるというのに視界が暗くなる。蘭珠は己がどうやってその場に立っているのかが分からなくなった。 「矜持を持つのは結構。だが仕事はひとりでするものではない。それを学んでもらうための今回の人事だ。弁えてくれたまえ」  人と交わる、だと。ふざけるなと余程叫び出したかった。だが、言葉は喉の奥に貼り付いてしまったかのようにつっかえて出て来ない。覚えがあったからだ。  欺瞞と虚飾に塗れた俗物を嫌悪していた。世渡りだ世間体だと見てくればかりに心を砕く小人たちを蔑んでいた。自分はそうはならないと、俗物との交わりを避けてきた。己と釣り合う才を持った君子でなければ、言葉を交わす価値すらないと思ってきた。  その結果が、これか。情けなくて視界が揺れた。

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