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 蘭珠は狂乱の寸前にあった。  ある(よる)であった。官舎の真暗な(へや)の中、西方の寒さに辟易しながら寝具に籠るが一向に眠りが訪れぬ。精神は摩耗し肉体は疲弊しているのに、頭の奥が冴え渡って眠れないのだ。  耳の奥で己を嘲笑う狷有の声がする。歯噛みしても、爪が食い込むほど拳を握りしめても、怒りが晴れない。どうしてあのように愚鈍な者に見くびられなければならないのか。どうして、どうして。  幾度目になるか分からない自問自答を繰り返したとき、キィと小さな軋みを立てて戸が開いたのが分かった。人の気配もする。上級官吏である蘭珠に宛がわれた室は個室である。何か緊急の事態でもあったのだろうかと体を起こしかけたとき、強い力で床に押さえつけられる。 「何奴、ぐっ」  叫ぼうとした口を大きな掌で塞がれる。それでいて両肩も足首も男のものと思われる力強い手に押さえられているのだ。相手は一人ではない。力任せにもがくが小柄な蘭珠である、暴漢たちはびくともしなかった。  強盗の類だろうか。殺されるのだけは御免だと身を捩ったとき、窓の外で雲が揺れ、真暗だった室に月明りが差し込む。露わになった狼藉者たちの顔を見て、――蘭珠は目を疑った。それは、これまで存在を気に懸けたこともなかった下級官吏たちだったのである。 「はは、いい顔ですね、蘭五位」  驚愕に目を見開く蘭珠を見下ろし、一番年若く官位も低い男が笑った。蘭珠の口を塞いでいる者である。 「大きな声を出すと、その細ぉい腕が痛いことになりますよ……」  言うが早いか、別の男が蘭珠の衣服に手をかけ、乱暴に割り開く。帯をしっかり締めていたため上衣がはだけただけで済んだが、冷気がひやりと肌を舐る。そこに無骨な男たちの手が割り入ってきて、ようやく蘭珠は事態を察した。危機に瀕しているのは生命ではない。貞操である。 「ふ、うッ、うぐうッ」  汗ばんだ男の手の中で抗議の声を上げるが、全て呑み込まれてしまう。暴れてももがいてもなすすべなく衣服が次々暴かれていき、男たちの手は無遠慮に蘭珠の肌を這う。恐怖と嫌悪感で頭がおかしくなりそうだった。 「もう、暴れないでくださいよ……。少し痛めつけてしまってもいいですか? 二位」  呆れたように告げられたその言葉に、驚愕する。まさか、……まさか。 「怪我をさせない程度にな」  蘭珠に群がる男たちの背後から、狷有の声がした。蘭珠は絶望した。随分前から疎まれていたことには気づいていた。憎まれているであろうことも。しかし、まさか、このように辱めてくれようとまで思っていたとは。 「狷、ゆう、貴様……、ッ!」  口を覆っていた掌が離れていったと思えば、ピシャリと頬を張られた。じわりと左頬が熱くなる。 「いい格好だな、蘭珠」  狷有の声が近くなる。蘭珠はもはやかろうじて帯で衣服を留めている状態である。胸も太腿も衆目にさらけ出されていて、差し込む月明に白く浮かび上がっている。少年のようなあどけない痴態に、狷有の喉がコクリと上下したのが見えた。 「なぜ、なぜこんなことを……ッ」  屈したくなどないのに、視界が滲んでくる。こんな俗物どもに涙など見せてたまるかと、下唇を強く噛んで耐えた。 「なぜ? 分かるでしょう」  他の男どもに目配せすると蘭珠の体の上からどかせ、狷有自らがのしかかってくる。そして蘭珠の艶のある黒髪を掴んで強く引き、首を仰け反らせる。 「ずっとお前が目障りだった。お前、自分以外は愚物だと見下していただろう。事実お前は優秀だった。優秀すぎた」  男の熱い手が、自由を奪われた蘭珠の細い喉にかかる。グ、と緩く絞められて息が詰まった。 「そんなお前をこうして凌辱できるだなんて。ははは、夢みたいだ」  ――凌辱。その言葉に蘭珠の目の前が真っ赤になった。こんな愚物に慰み者にされるのか。この優秀な自分が。他とは違う、特別な自分が。それは到底耐えられそうにはない未来だった。  急激に体に力が漲ってくる。狷有は下卑た笑みを浮かべて蘭珠のはだけられた胸元に顔を寄せてくる。白い肌を舌で舐られた瞬間、張り裂けそうなほどの嫌悪感と憎悪が蘭珠の中で膨れ上がる。 (お前などに、お前などに……っ!)  か細く小さな体のどこにそんな力が潜んでいたのか。蘭珠は押さえつけられた体勢のまま首を上げ、目の前にあった狷有の耳に思い切り噛みついた。ガリ、と骨の硬い感触がした。 「ぎゃッ……」  耳を押さえて男が体を離し、ぱっと数滴の鮮血が舞う。突然の反撃に驚いたのか、両腕を押さえつけていた拘束の手が緩む。その隙を逃さず、蘭珠は獣のように暴れ狂い、狼藉者たちの体の下から抜け出していた。 「糞ッ、貴様よくもッ」 「逃がすな、追えっ」  そこからは死に物狂いだった。  男たちの追尾を振り切って官舎を飛び出せば、突き刺すように冷たい空気が全身を襲う。上衣の前ははだけ、冠も頭衣もずり落ち、足元は裸足である。だがわけの分からない熱に浮かされた蘭珠には構っていられなかった。  ここに居たくない。その一心で、官府の西にそびえる漆黒の山林へと駆け出していた。  どれだけ走ったろうか。紅い月の下、蘭珠は全てのものを振り切るように走った。どこをどう走ってきたのかも分からぬ。国ひとつ分ほどもある広大な森である。もう祖国には戻れないのかもしれない。だがそれでもよかった。どうせ戻ったところで自分の本願は叶わない。能力を発揮することもできず、愚物に見下され、(あまつさ)え男どもの欲望のはけ口にされるだけだ。  ――何をどこで間違えたのか。こんなことになるはずではなかった。なぜ類まれなる俊才の己が、こんな思いをしなければならないのか。世の不条理を呪う。  もう嫌だ。こんな思いばかりするのならば人となど金輪際関わらなくても良い。誰とも会わずに一生孤独に生きていくほうが幾分ましだ。  確かに蘭珠はすすんで人との関わりを持とうとはしなかった。人はそれを、俊才すぎるゆえの傲慢としかとらなかった。だがそれだけではない。  蘭珠は幼い時分より、周囲の子供が夢中になるような玩具や遊びよりも、字引や歴史書に楽しみを見出した。実際に自然に分け入るよりも、古今東西の自然が凝縮された書物にこそ惹かれた。同じ年頃の子供が虫網や釣り竿を持って野原を駆けずり回っているとき、蘭珠は室の中で自然の摂理や物理の法則、詩歌を追想した。そんな蘭珠を理解する人はなかった。そのうち、蘭珠のほうから歩み寄ることを諦めてしまった。他に理解されない苦しみは、他を排斥することでしか和らげることができなかった。  その、結果がこれだ。  人との間で生きられぬ。そのくせやたらと牙を剥いて、これではまるで獣だ。自嘲じみた思いが胸に迫ったとき、傷だらけになった左足が空を蹴る。 「――あッ!」  暗さと生い茂る草木のせいで気づかなかった。蘭珠が駆け抜けるそこは、崖の淵だったのである。  いけない、と思ったときには斜面を転がり落ちていた。背を打ち、皮膚が裂け、手首が曲がる。幾度も反転する視界の中で、紅の月が嘲笑うように見下ろしているのを見た。

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