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 日が高い。朝である。否、昼かもしれない。  瞼に突き刺さる日差しに、蘭珠は目を覚ました。目の前は背の高い下草である。外で寝た覚えなどないと疑問を抱いたのは一瞬のことで、全身を襲い来る痛みで全てを悟る。  男たちに襲われて西方の官舎を飛び出し、隣国との間の広大な山林へと逃げ込んだ。そして崖から落ち、この様である。  どうやら自分は横向きに地に転がっているらしい。全身の皮膚と、背と、そして左の手首がひどく痛んだ。折れているのかもしれない。動かしてみようと試みて、強烈な違和感を覚える。  怪我に起因する違和感ではない。何か、自分の手が自分のものではなくなったような感覚だ。主に指だ。思うように開くことができぬ上に、曲がらない。手首も肘も何だか曲げづらいし、それに、凍てつく季節に外套も羽織らず出てきたはずなのに、寒さを然程感じないのだ。全く寒くないわけではないが、凍えるというほどではない。  違和感は次から次から湧いてきた。下草があるとはいえ地面に寝ているはずなのに地の硬さを感じない。妙に土の香りや草の匂いが鼻をつく。蘭珠は目が悪く書類仕事をするときは眼鏡をかけていたが、今は随分視界が鮮明である。  何か自分の体に異変が起きている。痛みをこらえて起き上がろうとしたとき、最もたる違和感に気づく。  上体をうまく起こせない。何か、体の起こし方を忘れてしまったかのように全身が戸惑っている。一体どんな怪我をしたらこんな風になってしまうのかと、痛む腕に力を込め、――その腕が人のものではないことに今更気づく。 「……ッ?」  目の前にある、自分の腕。そうだ、自分の腕であるはずだ。動かそうと思えばぴくぴくと動く。だがそれはどう見ても、漆黒の毛に覆われた獣の腕であった。  聡い蘭珠は瞬時に理解した。  小柄で美しい青年の姿は、黒黒とした毛並みを持つ獣の姿に変わっていたのだ。  痛む体を引きずって歩いた。動かずになどいられなかった。  訳が分からない。今蘭珠は四つ足を地につけて歩いている。初めての経験であるのに、もう何年も続けてきた習慣のようにごく自然にそうすることができた。  その体は美しい毛並みを持つ黒豹である。黒い中にも、あの独特の模様を濃淡に見て取ることができた。  初めは錯乱した。崖から落ちて目が覚めたら豹になっていたなど、子ども向けの寓話でもあるまいし、と。まだ夢の中にいるのかもしれないと、顔を張ってみたりもした。柔らかい肉球が毛皮をぽふりと打っただけだった。  小一時間もうろうろしていると、ようやく受け入れねばならないということに気づいた。その頃には黒豹蘭珠の体力は限界であった。一晩走り通した上に崖から転落して大怪我を負い、そしてこの寒さである。獣の身でなければとうに命を落としていたかもしれない。官職を失ったとしても、祖国に戻れずとも、獣の身になったとしても、死ぬよりは生きていたほうがよかろう。そんな風に己に言い聞かせ、蘭珠はしなやかな脚を前へ、前へと進めた。どこへ辿り着こうとしているのかは分からない。ただ闇雲に、鬱蒼とした山林を歩いた。  どれだけ歩いたろうか。空腹と疲労で視界が霞んできた頃、獣の鼻が香しい匂いを嗅ぎつけた。空腹を癒してくれる有難い匂いではないが、そこらに生い茂っている草木とも違う、甘い香り。これは花だ。こんな凍える季節に、どこかで花が咲いている。花があれば果実もあるやもしれぬ。僅かな希望が灯った。  それから蘭珠は微かな匂いを追って歩き続けた。陽は傾きかけている。何時間経ったのだろう。艶やかな毛皮に覆われているとはいえ、さすがに寒さが身に染みる。きっと左手……左前脚は折れているし、何より腹が減った。 花の香りなど幻覚だったのかもしれないと思い始めたとき、急に草木が途切れ、目の前が開けた。  いつの間にか蘭珠の目の前には高い塀があった。全貌が見えぬほど接近しているというのに、それまで全く気付かなかった。そんなことが本当にあるのだろうか。  近寄ってみて、周囲を探る。白い石造りの塀にはあちこち茨が這っていて、どうやら相当に古いものであるらしいことを窺わせる。塀はどこまでも続いている。相当に広い敷地を囲っている。城壁なのかもしれない。ようやくたどり着いた一つ目の角を曲がってみると、門が見えた。ふらつく脚で、鉄柵の嵌った門へと歩み寄る。そこでようやく、塀の中が見えた。  それは古い屋敷であった。だが蘭珠が祖国で目にしたことのあるどんな屋敷とも装いが異なる。門からまっすぐに道が一本伸びていて、向かって左には美しく整えられた針葉樹。そして美しい花が咲き乱れる花壇がある。これが蘭珠を導いた匂いの原因だろう。向かって右側には人の手で造られたと思しき池と、確か噴水と呼ばれている他国の置物がある。蘭珠の記憶では水を循環させるものだったと思うのだが、中央に佇む女神の水瓶からは一滴の雫も滴ってはいない。この庭だけで、蘭珠たちが寝泊まりしていた官舎ひとつが丸々入ってしまうほどの広さがある。  そして、中央の道を突きあたったところに屋敷はそびえていた。  三つの棟と離れの小塔から成るその建物は、兎角大きかった。白い壁、趣味を疑う紅紫の屋根。どれだけ部屋があるというのだろう、壁には無数の窓枠が立ち並び、巨大な正面扉上には色とりどりの硝子が嵌め込んである。とにかく巨大で豪奢、石造りで装飾華美。このような建築様式を蘭珠は書物で読んだことがある。間違いなくこれは、西にそびえる隣国の建物だ。  森を彷徨う間に国境を越えていたらしい。相手方の兵にでも見つかろうものなら捕縛ものだと生唾を飲むが、すぐに自嘲した。今の自分は獣の身である。獣には国境も国籍も関係ない。 「しかし……人の姿が見当たらぬ」  思わず独り言ちて、己の喉から言葉が出たことに驚いた。獣の呻きが出るものと思っていたのだ。否、もしかしたら自分の耳には人の言葉に聞こえただけで、実際はぐるぐると喉が鳴っただけかもしれぬ。  兎角蘭珠は塀の周囲(まわり)をうろうろ彷徨った。人がいたところで獣の自分を見てどうするかは分からないが、あてもなく森を彷徨うよりは良い。数回門の前を往復しても、人の姿は一向に見当たらぬ。いい加減足の裏が冷えで痺れてきた。そのとき蘭珠は、先程から薄々覚えていた違和感の正体に気づいた。  蘭珠の足許は雪と霜で冷え切っている。頭上の梢にも雪が積もっているし、葉も土も何もかも凍りかけている。しかし門の向こうの庭園には緑が広がっているのだ。そうだ、花もあんなに咲き誇っている。何かがおかしい。否、自分が黒豹となって極寒の森林を彷徨っている時点で何もかもがおかしいのだが、それ以上にこの館はおかしい。  引き返すか――迷っていると、庭園の木陰で何かが動いた。はっと目を凝らす。間違いない、何か小さいものがいた。 「誰かいるのか」  呼びかける。ややしばらくして、向こうに動きがあった。木陰から飛び出したのは、小さな兎だった。薄茶色の毛並みにくりくりと大きな瞳。黒豹である自分はそれに対して食欲を覚えるべきなのだろうが、生憎心は人のそれである。愛くるしい、という素直な感情を抱いた。  兎はじっとこちらを凝視してくる。取って食われるとでも思っているのだろうか。いや、思うだろう。兎に言葉は通じぬだろうし、どうにか敵意のないことを知らせられないだろうかと蘭珠もじっと見つめ返す。と、兎の背後からもう一匹獣が出てきた。今度は、確か、穴熊というやつだ。兎と一緒になって、じいっとこちらを窺っている。 そう思っているうちに、あちらこちらから小動物が次々に小さな顔をのぞかせた。栗鼠(りす)、狐、狸のようなあれは何というのだったか、とにかくそんな小さな動物たちが、こぞって珍客蘭珠を見詰めている。  さて。あの小さいものたちが一斉に飛び掛かってきたならば、瀕死といえどこの肉食獣はどこまでやれるのだろうか。そんな物騒なことを考えていれば、薄茶色の兎が鉄柵ごしに蘭珠の前へ躍り出た。そして、前歯が愛くるしい小さな口を開いて、 「この館に何の用だ!」 何と言葉を発したのだ。少年の声である。  蘭珠は目を丸くした。獣の言葉が分かるようになったのだろうかとも思った。だがその言葉は間違いなく隣国の言語である。外交に出ることもあるだろうと学んでおいてよかった。言葉が通じるならば話は早い。敵意のないこと、少し休ませてほしいことを伝えるべく口を開いたとき、正面にある建物の荘厳な扉が、大きな音とともに開かれる。  小動物たちはさっとそちらに目線を向けると、揃って頭を垂れる。どうやら屋敷の主のお出ましらしい。  蘭珠は身構えるが、その姿はいつまで経っても見えない……、いや、よく目を凝らせば何かがいる。開け放たれた扉の中央。大分下部。小さな毛玉がちょこんと立っている。なぜか二足で。  真白い毛玉は不安定な二足でよたよたと歩み寄ってくる。門まであと数歩というところまで近づいてきたところで、蘭珠はその姿をもう一度眺めまわした。  真白、否、白銀の毛並み。温かそうな毛がふわふわと揺れる。短く太い四足。つんと立ち上がった三角の耳。くるんと丸まった尾に、円らな瞳が愛くるしい顔……。  子犬である。  どこからどう見ても子犬である。唯一普通の子犬と異なる点は、よちよちながらも二足で歩いていること。丸く愛らしい瞳が猫のように透き通った翠色であったこと。そしてどこで調達したのか小さな緋のマントを纏っていたことと、 「獣め、わが家臣たちには指一本触れさせぬぞ!」 黒豹の蘭珠に向かって人の言葉を発したことである。  凛と張った男の声であった。どこからどう見ても愛くるしい子犬にも関わらず。艶々とした毛並みにしなやかな体、そして立派な牙と爪を持った蘭珠を見て、可哀相なほど震えているにも関わらず。それは確かに悠然たる男性のそれであった。  おまえは一体、と問いかけようとしたとき、子犬を映した視界が歪む。次に見たのは、薄紫から濃紺に変わろうとしている空だった。夢中で歩いているうちに最早宵になっていたらしい。冴え冴えとした月が、傷だらけの獣を冷ややかに見下ろしていた。 「む。どうした」  黒豹蘭珠は地に倒れ伏していた。疲労も空腹も最早限界であった。いっそ、何匹もいる小動物のどれかを捕まえて食ってやろうか。そうは思うが鉄柵が阻む。彼らならば隙間からくぐれそうなほどの幅だが、立派な体躯を持つ蘭珠には首ひとつすら難しい。  こんなことを考えるなど、心まで獣に堕ちたか。浅ましい己を嘲り笑って、その醜い姿を目に映そうと右前足を持ち上げ――驚愕した。そこには黒黒とした毛並みはなかった。代わりに、色白く、頼りない細腕があった。当然、人のそれである。  一体どういうことか、自分の体を確認したいが最早瞼が上手く開かない。霞がかかっていく蘭珠の意識の隅に、子犬の朗々とした声が響き渡る。 「これは……何ということだ」  こちらが聞きたい。呻くが、声にならない。一文字も発せぬ蘭珠とは対照的に、子犬の声は喜色をたたえている。 「何と美しい者なのだ。皆の者、決めたぞ。こいつにする。邸内に運べ!」  一体何を言っているんだ、蘭珠が考えることができたのはそこまでだった。意識が黒く塗りつぶされていく。小石が泥沼にずぶずぶと沈みゆくように、蘭珠は気を失った。

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