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 次に目を覚ますと、柔らかな敷布の上だった。  随分天井が低い。視界がぼやけてよく分からないが、何か模様が描かれた正方形を組み合わせて作られているらしい。凝ったものだ、と嘆息する。その吐息が人のそれで、蘭珠は慌てて体を起こした。 「う……」  あちらこちらがずきずきと痛んで思わず呻く。見れば、左手首には添え木が宛がわれている。誰が――と疑問を抱いて、ようやく状況を把握した。ここはどうやら例の屋敷の一室らしい。そして天井だと思ったものは、寝台の天蓋であった。  妙に広々とした円形の部屋だった。その中央に据えられた寝台に蘭珠は寝かされていた。白い壁、濃紺の床、黒い鉄枠で縁取られた窓の外は未だ宵のそれであるが、朝が近いのか色が薄い。寝台の他には大きな卓と長椅子が一台、寝椅子もひとつ。それからやたらと凝った装飾を施された箪笥がふたつあるだけだ。否、隣国の言葉ではあれはクローゼットと言うのだったろうか。ともかく卓の傍では暖炉が灯され、室内はぽかぽかとした陽気に包まれている。その陽気の中で、蘭珠は薄い絹の服を着せられて寝ていた。長い上衣に袴を履かないこれは、間違いなく隣国のそれだ。そして自分はやはり、人の姿をしている。元通り、東国の俊才、蘭珠そのものである。  もしかしたら黒豹に変わり果て森を彷徨ったのは、夢だったのかもしれない。ならばこの城に自分がいることに説明がつかぬのだが、そのことには気づかないふりをした。  傷だらけの体をさすりながら、そっと寝台から降りる。床には柔らかい敷布が敷かれており、裸足の足裏をそっと受け止めてくれた。だがいくら柔らかくとも、裸足で駆けまわったために、足裏は傷だらけである。一歩歩み出した瞬間激痛が走り、こらえきれずに床に倒れ込む。 「ううっ」  思わず声を上げれば、頭上からドタドタとやかましい物音がして、部屋にひとつしかない扉が勢いよく開かれた。 「目が覚めたか!」  例の、朗々たる男の声である。しかし、姿が見えぬ。恐る恐ると視線を下げれば、案の定そこにいた。白銀の毛玉、もとい、子犬である。やはり二足歩行は無理があるのか、今は普通に四足で柔らかな床の上を歩いている。緋のマントをずりずりと引き摺って、大層歩きづらそうである。  子犬は床にうずくまる蘭珠の眼前までやってくると、大きく愛らしい翠色の目でまじまじと見つめてくる。 「客人。そなたは東国の者であろう」 「……国境警備の兵にでも明け渡すつもりか」  こちらもと精一杯睨みつけてやれば、小さく丸い鼻がすん、と鳴る。鼻で笑ったつもりらしい。 「そんなことをする必要がどこに? それよりも怪我と衰弱がひどい、もう少し休むがよい」  そう言うと、扉の外に向かって「アンリ!」と声を張り上げる。すぐに蘭珠が最初に見た薄茶色の兎が飛んできた。彼か彼女か分からないが、これがアンリらしい。アンリは四足でぴょこぴょこと蘭珠に駆け寄ると、傷だらけの腕を前足で持ち上げる。助け起こそうとしているらしい。小柄とはいえ人の身である蘭珠を兎がどうこうできるわけもない。結局寝台に右手をついて、自力でどうにか起き上がった。縁に腰かけようとしたが、体に力が入らず仰向けに倒れてしまった。横向きに倒れたというのに、頭の上にはまだまだ余白がある。この寝台は随分大きいのだということに今更気づかされた。 「客人。そなたの名は」  寝台の脇にちょこんと前足を乗せた子犬が偉そうに聞いてくる。その尊大な口調に反発を覚えることすら億劫だった。 「……蘭珠」 「ランジュ、か。ランとはそちらの国でクリゾンテームの花のことだな。花のように美しいそなたに相応しい名だ」 「ご主人さま。恐れながらクリゾンテームは菊でございます。恐らく蘭はオルキデの花かと」  侍従に窘められて、ごほんと咳でごまかす。どうやら花には明るくないらしい。  しかし、花のようだ、とは。気を失う前からそんなことを言っていたが、男に向かって「美しい」はないだろう。確かに蘭珠は容姿で騒がれることがこれまでもあった。だが全ては俗物の戯言だ。容姿など、能力のない者が磨くものだ。蘭珠には、膨大な知識と明晰な判断力、これがあればよかった。  そんな蘭珠の不愉快には気づきもせずに、子犬は朗々としゃべり続ける。よく見れば短い尻尾が左右に忙しく振れている。 「わが名はリュシュアン・ドゥ・エトワール。この館の主にして、貴族の名門エトワール家の当主である」  やはり隣国流の名である。しかし、子犬のくせに随分尊大な名前だ。しかも、貴族だと。思わず蘭珠の口許には皮肉な笑みが浮かんでいた。 「客人、ランジュよ。おまえはどうしてこの屋敷に迷い込んできたのだ?」  子犬、リュシアンの問いに蘭珠はこれまでの経緯を語った。己は東国の役人であること、国境の役所に勤めていたこと、そして仲間と揉め事になり、身の危険から逃げ出したところを崖から落ち、目覚めたらあのような獣の姿になっていたこと。祖国での蘭珠が能力に見合わぬ低い地位につけられていたことと、同輩に軽んじられて、剰え辱められるところだった、ということは割愛した。口にしたら、惨めな己の現状を認めてしまうようで耐えられなかった。  一通り話し終える頃、中座していたアンリが茶の用意を携えて戻ってくる。小さな前足で器用に銀の盆を持ち、リュシアンよりも上手に二足で歩いている。 「なるほど。ではそなたは祖国に戻れば身の危険があるのだな?」 「……まあ、そういうことになろう」  蘭珠は憎まれている上に、狷有に手傷を負わせて逃げてきた。彼らによる報復が待っているかもしれない。それに、公務の途中で行方を眩ましたのだ。もはや役人としての地位は望めない。改めて己の(うしな)ったものの大きさが胸に迫り、蘭珠は下唇を噛んだ。 「どうぞ」  体を起こして、アンリの淹れてくれた茶を一口啜る。白い陶磁の器に注がれた褐色の茶は、蘭珠の国の茶とは風味が随分異なった。 「ならばこの館に居ればよい」  丸っこい手で危なげに器を持ったリュシアンが、唐突にそんなことを言う。は、と思わず聞き返していた。 「おまえの身の上を聞かせてもらったのだ、こちらも少し話そう」  上手く飲めなかったのか前足で持つことを諦めて、子犬は器を床に置いた。小さな舌でぺろぺろと茶を舐め取りつつ、(あるじ)リュシアンは次のように語った。  リュシアンを始めとして、この屋敷の住人たちはかつて人の身であった。しかし悪い魔女に呪いをかけられ、このような獣の身にされてしまった。彼らが元の人の身に戻るには、たった一つの条件を満たせばよい。 「一つの条件? それは……」  蘭珠が問いかけると、子犬は急に前足を持ち上げて二足で立ち上がった。少しよたついたのを、後ろからすかさずアンリが支える。そしてなぜか胸を張ると、堂々と言い放った。 「私が、誰かに心から愛されることだ」 「…………はあ」  聡明な蘭珠の頭の中で、数々の破片が組み合わさっていく。彼の言動、そして今の話から総合して推察すると、こうなる。いわく。 「その相手として私はおまえを選んだのだ、ランジュ。さあ存分に私を愛せ!」  いきなり愛せと言われて愛せる者がいるかとか。それが人に物を頼む態度なのかとか。そもそも魔女だ呪いだなどと信じられるかとか、子犬風情が人様に己を愛せとは何事かとか、色々と言いたいことはある。だが何よりも。  蘭珠は元より鋭い瞳をきっと吊り上げて、可能な限り尖った声で怒鳴った。 「おれは男だ!」  リュシアン、この子犬は声からして男……雄だ。そして蘭珠も男だ。同じ男に寄ってたかって襲われかかったばかりでは説得力がないが、どう考えてもおかしい。だのにリュシアンは元より丸い目を余計にきょろっと丸くして、それが何だと言わんばかりの顔をしている。 「私は美しいものなら何でも好きだ。男でも女でも構いはしない」  がく、と蘭珠は落胆する。駄目だ。さすが犬畜生、常識どころか話が通じない。 「私を心から愛し、私のものとなるのならば、そなたには何一つ不自由はさせぬぞ。寒い思いもひもじい思いも、寂しい思いも。悪い話ではないだろう?」 「馬鹿を言うな。この犬コロ風情が」 「なっ……犬ではない! 狼だ!」  そう主張してくるが、短く丸い前足で寝台に乗り上げて飛び跳ねながらキャンキャン騒ぐ様は、どこからどう見ても立派な子犬である。 「どちらにしろ獣だ。犬畜生だ。それに呪いだ? 魔女だ? 御伽草子じゃあるまいし、馬鹿馬鹿しい」 「おまえも黒豹の身になっていたではないか!」  ぐ、と言いよどむ。しかし、この子犬に言い負かされるなど蘭珠の矜持が許さなかった。 「あれは夢か幻だ。でなければ何かの間違いだ。現にこうしておれは人の身に……」  体を起こしかけたそのときだった。ぞわりと蘭珠の肌が粟立つ。全身を、虫が這うような気色悪い感覚が襲う。思わず喉の奥で、ひ、と呻くが、それ以上にリュシアンとアンリの小動物二匹のほうが余程大きく息を呑んだ。  話し込んでいる間に夜が明けたらしい。横向きに差し込む朝陽の中、蘭珠の姿が変化していく。今は傷だらけだが白く滑らかな肌からは真黒い毛が生じ、指先では爪が伸び、少し尖った小さな口には鋭利な牙が現れる。大きすぎる寝台の上に美しい毛並みの黒豹が現れるまで、ほんの数秒しかかからなかった。 「……」 「……」 「……」  一同の間に深い深い沈黙が落ちる。聡明な黒豹蘭珠は瞬時に察した。だが言葉にするのが躊躇われる。代わりにその仮説を遠慮がちに口にしたのは、兎のアンリだった。 「もしかして、日がある間は黒豹に変わるのでしょうか……?」 「そのようだ……」  長い尻尾と丸い耳をへたりと下げて蘭珠は項垂れる。夢でも幻でも何かの間違いでもなかった。自分は昼間の間だけ黒豹に変わる、厄介な体質になったらしい。横目でちらりと窺えば、子犬はやたら勝ち誇った顔をしていた。 「これで私の話を信じる気になったか!」  全くどんなことでも起こりうるものだ。認めざるを得ない。だが、この犬の思い通りになるか否かは別の話だ。 「さあランジュ、私に愛の言葉を誓え」 「寝言は寝て言え」 「んなっ」  埒が明かない。尻尾でも食いちぎってやろうかこの犬畜生。そんな物騒な考えが蘭珠の脳裏をよぎる。剣呑な気配を察したか否か、アンリが慌てて子犬と黒豹の間に割って入ると、ぺこりと小さな頭を垂れる。 「恐れながら、お客人。急にこんなことを言われて戸惑うのは分かります。ですが、どのみちそのお怪我ではこの館に留まるしかないでしょう。お体が癒えるまで、時間がございます。その間にわが主のことを知っていただくというのはどうでしょう」  なるほど、主人より余程礼を(わきま)えている。色々と得心のいかぬことが多いが、全てを振り切って官舎を出たときから何だか、蘭珠は妙に気が軽いのだ。自暴自棄というのかもしれぬ。ああ、成り行きならば仕方ない、と。祖国にいたときには考えられぬ柔軟な思考が彼の頭に満ちていた。 「……この手の怪我が治るまでだ」  憮然と言い放った蘭珠を見て、リュシアンがぱあっと顔を明るくする。その愛らしさにほんの刹那心が傾ぐが、「手じゃなくて前足だぞ!」という一言で殺意に変わった。

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