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 久々に寒さに凍えることなく眠り、じゅうぶんな食事を摂り(有難いことに人のそれだったが、手や食器を使わず食べるのには抵抗があった)、その晩には蘭珠は随分回復した。  世話を焼いてくれたのは、全て兎のアンリである。子犬リュシアンは一度も姿を見せなかった。人に仕えられる身である。客の身の世話などしないのは当然であろうが、突然求愛しておいてそれか、と蘭珠は若干呆れざるを得ない。  陽が落ちると、やはり再び青年蘭珠の姿が現れた。当然ではあるのだが一糸纏わぬ人の身がそこにあり、蘭珠は大いに赤面した。もしや昨日門の前で倒れた際にもこうだったのではないかと思ったからだ。そしてその推測は恐らく当たっている。アンリは室の箪笥から肌触りの良い絹の衣服を取り出すと、小さな手で器用に蘭珠に着せてくれた。 「歩けるようならば晩餐を共にしたいと、わが主が申しております。いかがなさいますか?」  蘭珠の擦り傷だらけの足に丁寧に布を巻きつけながら、アンリが聞いてくる。体力は随分回復したものの、足がこうでは心許ない。やんわりと首を振ると、アンリは恐らく悲しい顔をした。もしかしてこれを断ると、彼が主に叱責を受けるのだろうか。恐る恐る尋ねるが、そうではないらしい。  アンリは余った布をかき集めながら、おずおずと話し始めた。 「主の呪いが解けぬと、僕たちも元に戻れぬのです。ランジュさまと主が一刻も早く打ち解けてはくれないかと、やきもきしてしまって……。申し訳ありません」 「貴殿らの主をじっくり知ればよいと言ったのは貴殿ではないか。何をそう急く」 「そう……でございますね。出過ぎたことを申しました」  そう言ってぺこりと小さな頭を下げ、アンリは下がっていった。煮え切らない態度に何かが引っかかる。まだ隠していることがあるのかもしれない。だが地に足をつけて歩くこともかなわず、アンリ以外のものと接する機会もない蘭珠にはまだ何も分からぬ。  改めて己の置かれた立場の不安定さにため息をつけば、頭上からバタバタと喧しい音がする。蘭珠に宛がわれたこの室は館から離れた塔にあり、本来は館主の妻子が住まう場所らしい。上階には館主の室があるとアンリが教えてくれた。つまり。 「ランジュ!」  バン、と壊れんばかりの勢いで扉を開けて現れたのは、やはり、緋のマントを首から提げた白銀の子犬であった。 「そなた、私の誘いに乗らんとは正気か?」  断られて憤るくらいならば初めから自分で誘いに来れば良い。そんな風に呆れている蘭珠には気づかず、リュシアンは小さな体をいからせてのしのしと歩み寄ってくる。 「当主よ、おれは足が……」 「おまえは私のものになるのだ、私に従わないなど許さんぞ!」  そう吼えて、寝台に腰かけた蘭珠の衣服を小さな顎で咥えて、力任せに引っ張る。子犬とはいえ全身の力で引っ張られ、蘭珠の腰が僅かに浮いた。 「待て、やめろこの犬コロが」 「黙って私の言うことを聞けっ!」 「やめろと言うに、あっ」  ぐいぐいと容赦なく服を引かれ、蘭珠は体勢を崩した。上体が大きく前方に傾いで足を床につく。が、ズキリと激しい痛みが走り、力が抜けてしまう。蘭珠は正面から床に倒れ込んだ。 「――ッ!」 「ランジュさまっ」  扉の外で成り行きを見守っていたらしいアンリが駆け寄ってくる。顔をしかめて痛みに耐える蘭珠を気遣い、体をさすってくれた。そのやり取りを、リュシアンは呆けた顔で眺めていた。何が起こったか分からぬと見える。  アンリに助け起こされて寝台に戻り、蘭珠は苦し気な息を吐いた。折れた左手をうっかりついてしまって激しく痛むし、足裏の布がじわりと湿っている。傷口が開いて血が滲んでいるらしい。  蘭珠の小さく白い足に巻かれた布と、そこに広がる紅を見て初めて、リュシアンは事態を察したらしい。真丸い翠色の瞳がキョロ、と見開かれる。 「ご主人さま。お客人はおみ足に怪我をしてございます。食堂まではおろか、この部屋中を歩くこともかないません。どうかご理解ください」 「う、うむ。ランジュ、私は知らなかったのだ、おまえが足にも怪我をしていることを、その……」  何か言い訳めいたことを言おうとしている子犬を、元より鋭い瞳でキロリと睨みつける。それきり蘭珠は何も言わなかった。ただ黙ってリュシアンに背を向ける。尻尾と耳をへたらせて室を後にしたリュシアンは、その晩二度と姿を見せなかった。  傷の手当が済んだ蘭珠が寝入ったあと。上階の一室では、子犬と兎による密談が交わされていた。 「ご主人さま、もっとうまくやってください」 「分かっている!」  兎のアンリがたしなめると、子犬のリュシアンは苛々と前足を踏み鳴らす。目と目の間にはくしゃりと皺が寄り、喉からはウウウ、という、いまいち迫力に欠ける唸り声が洩れた。 「ご主人さまは我慢が利かなすぎます」 「ぐっ……うるさい!」  大きな声でがなり、力任せにテーブルクロスを引っ張る。卓に据えられていた花瓶が落ちてきて、激しい音とともに破片が飛び散る。それでも気が済まぬと、リュシアンは口と前足でクロスを滅茶苦茶に引き裂いた。 「あまり音を立てると、蘭珠さまが起きてしまわれますよ」 「かまわぬ! 我慢だ優しくだ、そんなのは性に合わん、背中がむず痒くなるっ」  一通り暴れると、ようやく落ち着いたのか、子犬はへたりと座り込んで揃えた前足に顎を載せた。尖った三角の耳も、丸い尻尾も、今は情けなく垂れてしまっている。  アンリは深々と溜息をついた。主の神経を逆撫でせぬよう、なるべく柔らかい口調で声をかける。 「これが最後の機会なのですよ」 「……分かっている」  くうん、と子犬の鼻が鳴る。窓の外では、冴え冴えとした月が見下ろしていた。

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