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 黒豹の姿で目覚め、はじめに目に飛び込んできたのは鮮やかな紅であった。蘭珠は琥珀色の目を(しばたた)かせ、その紅の正体を探る。ふわりと鼻孔をくすぐる甘い香りですぐに判明した。薔薇である。 「お目覚めですか」  入り口のほうからアンリの声がして体を起こす。薄茶色の小さな兎は両手に大きな桶を抱えていた。大体のことはその丸っこい手でやってしまうアンリだが、さすがに重たいのか少しよたついている。 「わが主の命で薬湯をお持ちしたのですが、人の御姿のときのほうがようございますか?」 「いや、構わぬが」 「では、失礼して」  そう言うと桶を寝台の脇に置いて、悠々と座る蘭珠の足裏をまじまじと覗き込む。裸足で山林を駆け抜けずたずたになった足は、豹の身になった今でもその肉球と爪に痛々しい傷を見せる。アンリはきゅうと小さく鳴いて、恭しく頭を下げた。 「昨晩は主が失礼をいたしました」 「全くだ。おまえの主人のあの態度は何だ。おれに愛せと言ったのと全く矛盾している」 「はい。あの癇癪(かんしゃく)にはわれわれも手を焼いております」  意外な返答に、蘭珠は窺うような眼差しを兎に向ける。それに呼応して長い耳がぴんと張り詰めるのを見て、溜息をつきたくなった。昔からそうだ、蘭珠の目は他よりも少し鋭いため、ただ視線を寄越しただけなのに相手を委縮させてしまう。今は黒豹の姿であるから、尚更なのだろう。  アンリは薬湯に浸した布を絞って蘭珠の詩裏に宛がいながら、幾分か落ちた声でぽつぽつと語り出した。 「一昨日、われわれにかけられた呪いについて主が語ったことには、いくつか省いていた部分がございます」 「で、あろうな」  彼らの態度を見ていれば分かる。悪い魔女に呪いをかけられた、などという御伽草子のように単純な話ではないのだ。  兎は以下のように語った。  リュシアン・ドゥ・エトワールは、西国のとある地方の領主であった。貴族の家の跡取りとして幼少より甘やかされ優遇され、それはそれは我儘で横柄に育った。彼が父親より領地を引き継ぐと、その悪政に民草からの不満が爆発した。高い税金、横暴な領主、理不尽に次ぐ理不尽。 困り果てた領民たちは、東方との国境にそびえる森に住む、古の魔女というのを頼った。魔女は困窮した領民たちの願いを聞き入れた。エトワール家の別荘であるこの屋敷に領主リュシアンがやって来たときを狙って、そのとき邸内にいた家臣もろとも呪いをかけたのである。自己本位的で横暴な貴族リュシアンが心を改め、真に誰かに愛されなければ解けない呪いを。 「大方そのようなことだろうとは思っていたが、思っていたよりも非道いな」 「すみません……」  どうせリュシアンに原因があるのだろうとは思っていた。だが悪政を行ったことによる民草からの報復だとは。それではあの態度も頷けると、蘭珠は今度こそため息をついた。 「して、これは」  枕元の一輪の薔薇を口に咥えて示すと、兎はどうやら微笑んだらしかった。 「わが主からです。昨晩は済まなかった、と」 「……ふん」  男に、それも今はこのような獣になった自分に花など贈って何が楽しいのかと、蘭珠は鼻を鳴らす。それでも、花に罪はない。アンリに頼んで暖炉の上の花瓶に挿す。全体的に暗色で統一されていた部屋が、そこだけぱっと明るくなった。  ろくに歩き回ることもできぬのですることがない。書物でもないかとアンリに問うと、小一時間後には狸のような生き物(後でアンリに尋ねたところアライグマというらしい)と狐が、小ぶりの書棚を運んできたので仰天した。 何もそこまでしなくても、と思ったが、ひしと並んだ異国の書物には心が躍る。蘭珠は慣れぬ隣国の言葉にも屈せずに、次々と書物に(ふけ)った。隣国の歴史や地理について記したものもあれば、何気ない寓話もある。何もかもが祖国では手に入らない情報で、取り憑かれたように読み漁った。  豹の短い指で(ページ)を繰るのは思ったよりも難しく、諦めて鼻先で捲るようにしてからは随分(はかど)ったが、(いささ)か蘭珠の矜持は傷ついた。五冊目を閉じたとき、己の腕が人のそれに変わっていることに気づき、蘭珠は驚いた。いつの間にか陽が暮れていたのである。  そろそろアンリが夕餉(ゆうげ)を運んでくるかもしれぬ。本を閉じて書棚に戻そうと顔を上げたとき、はじめて珍客に気づいた。薄っすら開いた扉の隙間、翠色の双眸がじっとこちらを窺っていたのだ。 「……何をしている」  声をかければ、白い塊がビクリと跳ねる。極まりが悪そうにおずおずと入ってきたのは、やはり、白銀の子犬、リュシアンであった。  毎日手入れでもしてもらっているのかふわふわと柔らかそうな毛並みをしているが、今はその愛くるしい三角の耳も、丸い尻尾も、垂れさがってしまっている。四足で歩くと緋のマントをずるずると引き摺ってしまうのが滑稽だった。 「その、声をかけようと思ったのだが、あまりに本に集中しているから」  一応、気を遣ったわけだ。昨日の今日なのでさすがに気にしているらしい。  蘭珠は掛布を身に纏って寝台を降りた。毎度全裸になってしまうのはどうにかならないのかと思うが、豹の姿でも纏える衣服でもない限りは仕方ない。箪笥から適当な衣服を引っ張り出して、掛布を脱ぎ捨てる。裾の長い服を頭から被っていれば、視界の隅で毛玉がふるふると震えているのが目に入る。何かと目を向ければ、白銀の毛に覆われた小さな顔は真赤になっていた。 「そ、そなた、よく恥ずかしげもなくそう堂々と……」 「はあ? 婦女子でもあるまいし、なぜ犬コロ風情に羞恥心を持たねばならんのだ」 「犬ではない、狼だと言っているだろう!」  そうは言うが、四つ足でびょんびょんと飛び回りながらキャンキャン吼えられると説得力がない。  袴を細くしたようなものに脚を通して、恐らく襟を留めるものだろうが紅の細紐を見つけたので、それで長い黒髪を結わえる。左手が使えぬのでだいぶ難儀した。 「ほう、狼となあ」  嘲笑を頬に張り付けると、足許でちょろちょろと動き回る獣の襟首をとらえて、己の目の高さまで持ち上げる。子犬はキャインと情けない声を上げた。 「ランジュ、やめい、猫と違って、犬は首を持つと痛いのだ!」 「ほう、犬と認めたか」 「ちちち違う! あ、いだ、痛い、とにかくはなせ!」  煩いので、寝台の上めがけてぽいっと放ってやる。蘭珠としては床に落とさなかっただけ感謝してほしかったくらいだが、子犬は円らな目でぎっと睨み上げてくる。 「何をする、無礼者!」 「はっ、たかが犬コロに何が礼か」 「お二方、そのあたりになさいませ」  いつの間にやら扉のところに立っていたアンリが、深々と溜息をつく。手には釣鐘状の蓋を乗せた銀盆を載せている。蘭珠の食事を運んできてくれたらしい。 「おお、アンリ、聞いてくれ、ランジュがひどいのだ」 「見ておりました。ご主人さまにも非はございます」 「なにっ、アンリ貴様それでも私の侍従か!」 「不本意ながら」  ガンッとショックを受けている子犬に構わず、アンリは卓の上に盆を置くと、ととと、と蘭珠に歩み寄ってくる。円らな黒い瞳がじいっと蘭珠を見上げてきた。 「ランジュさま」 「な、なんだ」 「ランジュさまはわが主がお嫌いですか?」  本人に聞かれたならば「当然だ」と言って蹴り飛ばしていたかもしれないが、この健気な侍従に言われると弱い。蘭珠は言葉を詰まらせた。しかし、アンリの背後でなおも恨みがましい顔をしている子犬が目に入り、再び額に青筋を浮かべる。 「ああ、そうだな。煩い、我儘、自分本位、浅慮で短絡的。苛々させられてばかりだ。それに、俺は頭の悪いのは大嫌いだ」  本人に向けて言ったつもりだったが、兎の薄茶色の耳がしゅんと垂れる。さすがに少し可哀相になった。何か声をかけてやらねばと思うのに、かけるべき言葉が一文字も浮かばない。古の詩も歴史に名高い書の一文も(そら)んじてみせるくせに、目の前の兎一匹慰める言葉も心得ない。蘭珠は己が口惜しくなった。  そんな風に蘭珠が感傷的になっているというのに、相も変わらず子犬は空気というものを壊滅的に読まない。 「頭が悪いとは何だ! これでも私は貴族の嫡子ぞ、最低限の教養は……」  吼えながら蘭珠の膝に飛びついてくる。蘭珠が足を怪我しているという事実は最早吹き飛んだらしい。子犬は今度こそ首根っこを吊るされて、キャインと高い声をあげた。

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