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その翌日。人の姿となり身支度を済ませた途端にバンッと大きな音をたてて室 の扉が開かれる。
「二階へ来い、ランジュ!」
なぜ静かに入って来られないのだろう。子犬はそう吼 えると、扉の脇にあった履物を咥えて放ってくる。踵のない沓 のようなもので、柔らかい素材でできているらしい。昨夜までそんなものはなかった。リュシアンか、従者のアンリが持ってきたのだろう。足を通せば、ふかりと柔らかい綿に包まれた。傷ついた蘭珠の足でも多少は歩けそうだ。
リュシアンに続いて室を出る。この屋敷に来てから初めてのことだった。ここは塔の中なので、目の前には湾曲した石の壁が広がる。それに沿って、結構な急勾配の階段が作りつけられていた。よく磨かれた石でできているので滑りそうだ。蘭珠は壁に手をかけ一段ずつ踏みしめたが、リュシアンは小さな足でぴょこぴょこと登っていく。
二十段ほども登った頃、新たな扉が現れる。金や銀で豪奢な装飾が施されたその木製の扉は、その装いだけで身分の貴い者が使う場所なのだということを物語っている。
「アンリ、私だ」
中に声をかけると、扉が内側に向けて開いてゆく。蘭珠の国では扉は全て引き戸か、外開きだった。この相違はどこから生じるのだろうという好奇心が頭をもたげるが、今はそれを気にするときではない。
取っ手にかけられた紐を引いて扉を開けたアンリは、主人の背後に控える美丈夫を見て僅かに驚いた顔をした。
「ランジュさま。今お召し変えをと思っていたのです。申し訳ございません」
「よい。着替えくらい自分でできる」
はじめて訪れた室内を見回す。塔なのだから当たり前なのだが、形状や広さは蘭珠に宛がわれた部屋と大差はない。趣もよく似ていたが、蘭珠の室の中央を占める寝台がない分、幾分広く感じられた。代わりに黒と金の荘厳な卓と、長椅子が二対、窓際には随分大きな寝椅子もある。他に蘭珠の室と異なるのは、向かって左側の壁際に甲冑が二体並んでいるところだった。
リュシアンはおもむろにすっくと二足で立ち上がると、暖炉の上にかけられた絵画の前に立ち尽くした。
「ランジュ、これを見ろ」
「肖像画か」
繊細な筆遣いで描かれた絵画の中では、西国の礼服に身を包んだひとりの青年が微笑んでいた。波打つ白銀の髪 、ゆったりと笑んだ口許には気品と並々ならぬ自信が溢れ、彼の性情を実によく表している。しかし、恐らく美麗な瞳があるであろうあたりは無残にも紙が引き裂かれていた。それを差し引いても実に美しいが、小奇麗なだけではない、男としての芯を持った青年に見えた。男になど興味のない蘭珠でも、ほう、と溜息が出てしまう。それほどに人の目を惹きつける青年だった。
「私だ」
だから子犬が堂々と抜かしたとき、思わず蘭珠は足の痛むのも忘れてその尻尾を踏ん付けた。ギャインと甲高い悲鳴を上げて、リュシアンがその場でひっくり返る。
「嘘をつけ、犬コロが」
「嘘ではない、人だった頃の私だ! というか酷いではないかランジュ!」
痛さにのたうち回っているうちに、マントが絡んで動けなくなったらしい。じたじたと短い足で暴れているリュシアンを、アンリが必死に救出している。ころころと転がる二匹の小動物を見下ろして、蘭珠はふんと鼻を鳴らした。
「貴殿のような犬コロがこんなに凛々しいものか。どこから窃盗 ねてきた」
「本当に私だっ」
「まことでございます、ランジュさま。これは腕の良い画家に描かせたものです。かつての主に実によく似ております」
リュシアンはともかく、アンリに言われると弱い。この健気な従者が嘘をつくとは思えないのだ。
苦い顔でもう一度肖像画を見詰める。本当に美しく、逞しい青年だ。蘭珠の足許でマントに絡まりごろごろと暴れている毛玉とは到底結びつかない。蘭珠は絵画をぴっと指差し、アンリを見た。
「なぜ破れている」
「主が物を投げつけたためでございます。もうこの姿に戻れぬのならば見たくないと、癇癪 を起こして」
「なるほど、ありそうな話だ」
「なぜ私が言っても信じないのだ、ランジュ!」
そう吼えてじたばたもがく毛玉は滑稽で、愉快だった。当人は必死なのだろうが、どうにも戯 れているようにしか見えない。その必死な様がおかしくて、思わず、ふは、と蘭珠の口から笑いが洩れた。
「はは、なんと無様なんだ」
心底おかしそうに笑う蘭珠を、リュシアンもアンリも、手――前足をとめてぽかんと見上げている。居心地の悪い視線に気づき、蘭珠は眉を寄せた。何をそんなに驚くことがあったろう。
「な、何だ」
「いえ、ランジュさま、その……」
「おまえが笑うところを初めて見たぞ、ランジュ」
言われてみれば。皮肉げに嘲笑したりすることはあっても、おかしくて心から笑うなどいつ振りだろう。屈託なく笑っていた己に気づき、蘭珠は赤面する。反対に、リュシアンの翠色の瞳がキラリと輝いた。
「なんと……美しいんだ。ランジュ、そなたは本当に美しい」
「う、煩い。聞かぬ」
「気高く凛としているそなたも美しいが、笑顔はまるで花が綻ぶようだ。もっと笑うほうがいいぞ」
熱に浮かされたようにぼうっとしているリュシアンをそのままに、蘭珠は慌てて室を出た。早足で階段を駆け下り、己の室に入って扉を勢いよく閉める。
扉に凭 れた蘭珠の白磁の頬は、真赤だった。呼吸は乱れ、心臓が早鐘を打っている。
自分が笑った。皮肉でも嘲りでもなく、心からおかしくて笑った。そしてその顔を、あろうことかあの子犬に。
(笑っているほうがいい、なんて……)
そんな言葉をかけられたことなどない。肖像画のあの青年に言われたのだと思えば、尚更心が正常ではいられなかった。
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