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 息が落ち着いたふたりは並んで掛布に潜り、ぴったりと寄り添っていた。柔らかく微笑むリュシアンの腕に頭を乗せた蘭珠は、瞼をとろりと重たくさせて、今にも寝入ってしまいそうである。 「ランジュ」 「……んん」  声をかければ、身じろいで、より体を寄せてくる。その様がいじらしくて、リュシアンの笑みは一層深くなる。肌寒い冷気から蘭珠を守るように、掛布を肩まで引き上げてすっぽりと(くる)んだ。 「ランジュはこれから、どうしたい。今や私は自由の身。領地は既に他の者の手に渡っているかもしれないが、貴族の称号までは奪われていまい。街へゆけばある程度のものは思いのままぞ」  これからか、と蘭珠は嘆息した。リュシアンの呪いのことで頭がいっぱいで、自分のことなど考えている余裕がなかった。何をしたいか。何をなすべきか。  思い浮かぶことが、ひとつだけあった。ぼんやりと夢心地のまま、蘭珠は訥々(とつとつ)と語り出す。 「おれは……祖国にいた頃は、才をひけらかすことばかりに執着していた。己の優れていることを示すために他者の愚を貶し、他者に付け入られることがあってはならないと、体面を保つため必死に学んだ」  しかし、と息を吐く。こんな風に己の心情を言葉にしたことなど、これまでなかった。リュシアンの前だと蘭珠はどこまでも素直になれる。きっと彼が、幾重にも覆われた殻をひとつずつ剥がしてくれたのだ。蘭珠は天蓋の裏に描かれた牡丹の図柄を見上げ、穏やかに微笑んだ。 「思えばおれは、純粋に学問が好きなのだ。誰にひけらかさずとも、ただただ知識欲を満たし、書に耽るのが好きなのだ。特に歴史や思想が好きだ。この国の歴史はわが国よりも浅いが、周辺との関係が複雑で非常に興味深い。――そうだな、おれは学者になりたい。学問が政治の道具でしかないわが祖国ではなく、貴殿の生まれ育った、この西の国で」  この館の書庫で書物に埋もれているとき、蘭珠は幼い頃の純情さを確かに感じていた。何に役立つ、役立たぬは関係ない、ただ書を読むことが楽しい。そんな風に思えたのは、祖国を離れたからだ。役人という肩書や立身という重荷を棄てたからだ。この屋敷で温かい人たちに触れ、リュシアンという人に出会い、彼に鎧を剥がされたからだ。  琥珀色の瞳をキラキラと輝かせて夢を語る蘭珠を、リュシアンは微笑んで見守っていた。本当の蘭珠ははこんなにも純粋で、あどけなくて、美しい。 「そうか。では私はそなたを支えよう。大きな街へ往けばそういった道もあろう」 「……共に来てくれるのか?」 「ああ、当然だ。これからずっと、一緒だ」  見つめ合い、自然と唇が重なり合う。  蘭珠はずっと孤高(ひとり)だった。周囲に人は在れど、己と釣り合わぬ愚物と見下し遠ざけてきた。その結果疎まれ、憎まれ、いつもひとりだった。そんな蘭珠の傍らに、リュシアンはこれからずっと寄り添ってくれるというのだ。こんな日が来るなんて思いもしなかった。懲りずに込み上げてくるものを、大きく息を吸ってやり過ごした。 「この館の整理がついたら、アドルフにでも頼んで私たちが暮らせる街を見つけよう。そうだな、学者になるなら大きい街のほうが良いが、緑が近いところだと私は嬉しい」  そんな風に、一緒に夢を語ってくれる。蘭珠の胸は、至福としか言いようのないもので満たされていた。しかし、ふ、と苦しいものがよぎる瞬間もある。 「だが、その前におれも人の姿を取り戻さなくてはな。獣の姿では街で生きていかれぬ」  ふうと溜息をついて再び上を見上げる。隣でリュシアンが目を(しばたた)かせたのが分かった。睫毛が長いので、ぱしぱしと小さな音がするのだ。  リュシアンは、「それなのだがな」と切り出して、すっと腕を伸ばす。仰向けに寝た蘭珠の眼前を通り過ぎ、その手は窓のほうを示している。  促されるままに天蓋から下がる白藍(しらあい)(とばり)を引き、蘭珠は目を見開いた。(へや)の中は、柔らかい朝陽に包まれていた。いつの間にか夜が明けていたのである。 「え、……え?」  己の手足を見る。頼りない文官の痩せた体がそこにある。黒い毛皮も、鋭い爪も、丸い耳も何もない。陽の光の中に、確かに青年蘭珠の姿が在った。 「蘭珠。もう恐れるものは何もない」  リュシアンの低く穏やかな声が、耳の中に直接吹き込まれる。  己の中の獣が消えた。理解されぬことを恐れて誰彼構わず噛みつく獣は、もはやどこにもいない。愛されることを知り、愛することを知り、他者を認める心を知った。今度こそ、涙が一筋だけ蘭珠の頬を伝った。 「見よ。ランジュ、雪だ」 「あ……」  黒い鉄枠と硝子の向こう、白いものがちらちらと空を舞っていた。この館にかけられた呪いは解けた。常春は終わりを告げ、正常な時の巡りが訪れたのだ。 「道理で肌寒いと思った」 「積もったら庭を散策しよう。この館は冬の姿も美しいぞ」 「ああ、だがその前に、少し眠い……」  リュシアンの腕に頬を寄せ、蘭珠は静かに目を伏せた。すぐに逞しい腕が肩を抱いてくれる。白銀の毛玉を抱いて眠るのも心地よかったが、これはこれで悪くない。  思考が霞みかけたとき、鉄製の扉をノックする音が響く。揃って目を見合わせていると、扉の外から少年の声がした。 『ご主人さま。アンリでございます。入ってもよろしゅうございますか』  はた、と蘭珠は己の恰好を思い出して赤面する。しかしあろうことか、リュシアンは扉側の帳を開いて「よいぞ、入れ」と声を上げる。蘭珠は信じられないものを見る目でリュシアンを見た。 「はあっ? よ、よくない! 莫迦(ばか)、アンリ、待て、だめだ……っ」  慌てふためくが、間に合わない。獣だったリュシアンでも開けられるように、この室の扉には鍵がかかっていないのだ。カチャリと音を立てて扉が開く。 「失礼しま……あっ」  寝台の帳の中で並んで掛布に包まるふたりをしっかりと見てしまったアンリは、純朴な顔を真赤にして目を逸らす。蘭珠はいっそ窓から飛び降りたい心地だった。 「もっ、申し訳ありません、そのっ」 「ははは、よい、よい。して何の用だ」 「良いわけあるかっ。莫迦、ばかっ」 「あ、その、寒くなってまいりましたので、暖炉に火をと思いまして……」  俯いて言うアンリの両手には薪が積まれていて、こんな明け方から主人らのために用意してくれたのだと思えばその健気さに色々な意味で申し訳ない。 「おお、気が利くな。やっておいてくれ。私たちは少し眠るぞ。一晩中睦み合っていて、一睡もしておらんのだ」  明け透けなく言って、くあ、と大欠伸をかます。その仕草が子犬の姿を思い出させて、微笑ましく――はならない。  蘭珠はもはや羞恥と怒りで顔が真っ赤だった。いつものように踏んづけてやろうかと思ったのだが、何せ尻尾がない。代わりに、白銀の髪を一本ひっつかんで力任せに引き抜いてやった。 「貴殿には羞恥心というものがないのか、このケダモノめ!」  ギャウンと吼えはしなかったが、リュシアンは寝そべったままの姿勢で大きく飛び跳ねた。 「いっ、痛いではないかランジュ!」  キラキラと朝陽を反射する翠玉に並々と涙を溜めて抗議してくる。その様がおかしくておかしくて、蘭珠は声をあげて笑った。

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