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第1章「何者にも、奪えない」01
かつて、神々の争いがあった頃、争いを司る女神ヴァルキリーが軍神マルスとの争いの中で右手を斬り落とされたという。ヴァルキリーはその後、マルスとの争いを終え、神々の世界に帰ったという。
軍事惑星トトメスは銀河惑星軍ギガントの主要要塞であり、ここ数十年続いている「トトメスの憂慮」と呼ばれる争いの中で、重要な役割を果たしていた。トトメスには常に、軍人たちが入れ替わり立ち替わり現れ、惑星の住民に対して徴兵を行った。トトメスの原住民である「緑の民」と呼ばれる髪の毛や瞳が緑色をしている民はほとんどがトトメスの徴兵で駆逐され、彼らの血を引くのはスラムの奥地、娼婦が軍人や他惑星との混血児を擁しているだけだった。
「ノア!」
他の惑星から軍人たちの夜の嗜みのために連れてこられた娼婦が、スラムに生み落とした少年ノアも「緑の民」の血を引いているためか瞳は緑色で、髪は黒かった。
「リリア!」
スラムの中に突然出現する巨大で瀟洒な建物「ハルモニア」は娼館だった。ノアの母親と顔馴染みだったという、ハルモニアの売れっ子娼婦リリアはノアを急に呼びつけた。ノアは立ち止まり、彼女の声に頭を傾げる。
これから食料を調達に行かなければならないのだ。ストリートチルドレンとして暮らすには、日々食料を調達することに苦労する。今日は金曜日で、スラムの端、「ハングリーフライデー」というレストランが残飯を大漁に出す日だ。ハングリーフライデーの食料を管理しているストリートチルドレンのスバルと苦労して取引を持ちかけたのだ。遅れるわけにはいかない。
「ごめん、これから急いで行かないと」
リリアは何かとノアに良くしてくれる。ノアの母親が彼女の妹同然だったというが、ノアはそれ以上に彼女と血の繋がりのようなものも感じていた。
「ハングリーフライデーに行くんでしょ?」
「うん。スバルに、田園の花を少しだけ分ける約束をしたんだ」
ノアの縄張りである「田園」には、珍しい花が咲く。スバルはストリートチルドレンの元締めのようなこともしているので、娼館から追い出された少女も彼が面倒を見ていた。田園の花は、少女たちに街で売らせるのだ。この惑星では珍しい青いスミレは街でよく売れる。
「なら、田園の花を私にもスバルの倍の値段で売って」
「え?」
「ほら。これで、天然パンでも買っておいで」
抱えていた青いスミレの半分を奪われて、ポケットに金貨をねじ込まれる。トトメス通過の100トトだ。一ヶ月近くのパンが、人工偽米から造られるものではなく、栄養価の高い本物のパンで買うことができる。
大金の前に、ノアはリリアの顔を見上げた。
「リリア、これ、どうしたの?」
ノアだって大切な人を養わないといけない。リリアのお金はありがたい。けれども、9年間ストリートチルドレンとして生きてきたノアは、すぐ勘付いた。娼婦が大金を持つということは、その娼婦は「死神」が取り憑いている。
「上客がね、付いたのよ」
「それは……リリア」
「いいのよ、ノア。この星の……ハルモニアの女たちの、宿命だもの」
トトメスは、軍事惑星として最大の特徴は、「ホルス」と呼ばれる強力な戦闘力を有する生物兵器を擁することができる環境にあった。トトメス全体は常に銀の空に覆われて地表では人類が生き延びるには過酷な濃度の毒が満映している。過酷な惑星で育まれ進化してきた原住民の「緑の民」たちは毒を中和する機能が体内に備わっているが、他の惑星からの移住者たちは常に薬を飲み続けなければ体内に毒が溜まっていく。
スラムの娼婦たちの殆どは出稼ぎのようにして他の惑星から連れてこられた娼婦のため、彼女たちはつねに薬を飲み続けていた。だが、薬を飲み続けていても毒に晒された娼婦たちはやがて、客を取ることも出来なくなり容姿も衰えていく。そんな陰りが見え始めた頃、彼女たちは「上客が付いた」と話すのだ。
ノアは切なくなって唇を噛み締める。その様子を見て、リリアは女神のように微笑んで、「唇、赤くなってるよ」という。
「ノア、大切なミュシャを、守ってあげてね」
そう託されたのだと思い、頷いた。影の中から、リリアを見張っているハルモニアの男たちが出てきたからだ。
「大好きだよ、リリア」
伝えると、彼女は黒い腕の囲まれながら、振り絞るように頷いた。
遠ざかっていくリリアの声を背中に、ノアは走り出す。ハングリーフライデーに向かわないと行けない。スバルはきっと、短気だから怒っている。
そう考えようとした瞬間に、目の前が白くなって、すぐに暗くなって何かの力で体が衝撃を受け入れたのだと思った。
「な……」
「敵襲だ!」
「馬鹿な! ここは軍事要塞だぞ! 銀の空を突き抜ける兵器なんかない!」
娼婦を買いに歩いていたぐんじんたちの声に瓦礫が囲う空を見上げる。鉛色の憂鬱な空は、何処までも穏やかに波打っている。その中からふいに、何か生き物が顔を出した。
「ホルスだ!」
トトメスの惑星内でしか生きることができない生き物は、その優美な巨体をくねらせて顔を出した。海棲生物のような軟体、頭部周辺には長い髭が生えており、全体的に白っぽい。かつて地球という小さな星に住んでいた人々はホルスのことを「竜」と呼んだ。
長い髭をそよがせて、黄色い瞳がくるりと動いてノアを身留める。
──怖い。
本能的にそう思い、振り払うように走り出した。ハングリーフライデーに行く道が塞がれている。元々スラムには道があってないようなところがあるので、すぐに壁を蹴って地下への道を向かおうとすると後方に振動が響いた。
後ろを振り返って、瓦礫を突き破ってホルスが顔を覗かせているのが見えた
「目をつけられたんだ」
ホルスは好奇心旺盛で、獰猛だ。彼らはこの星の食物連鎖の頂点に君臨する。空を漂う銀を食い続けて生きる伸びることができたが、特に肉を好んだ。
「きゃー! ホルスよ!」
半裸の女が地下路地の真ん中に現れて悲鳴を上げる。
「動いちゃダメだ! ホルスは、動くものに反応するから!」
最後まで言い終えずに、ホルスが走り出した女目掛けて顔を突っ込んでくる。すぐ隣を、ホルスを覆う粘膜のようなものが通り過ぎて、壁に飛び散りシュウと音を立てて周りを溶かした。
──このまま行くと、地下のメインストリートになる!
ホルスの地下都市は、ギャングが幅を利かせている。ギャングはマフィアよりも乱暴で残虐的だ。地上では生き延びられなかったり、薬の依存症に陥ってしまった女たちがギャングの食い物にされていた。
メインストリートでは、そんな困窮した女たちが犇いているのだ。
「待って!」
ノアが声を上げると、女の悲鳴を追っかけていたホルスが振り返る。丸い目が楕円形に細められる。少し長く前に出ている突起物はホルスの鼻で、空気の動きを察知して獲物の動きを把握しているのだ。
「僕たちを、殺さないで」
囁くようにホルスに伝えると、ぴたりと動きを止めて化け物はじっと、こちらを見ていた。やがて、ゆっくりと口を開く。
『我らと共に行こう。逝こう、愛児よ。此処にはもう、我らの居場所はない』
不思議な声だった。清らかで、静かで、すっとノアの胸の中に入り込む。その声に圧倒されているうちに、ホルスは静々と姿を晦ました。
その姿が外に出て行くまで凝視していたノアはほっと、息を吐く。
「今のは、なんだったんだろう」
呟いて考える前に誰かが悲鳴を上げた。ホルスの粘膜を浴びた誰かが死んだと聞こえる。この星では当たり前のことなので、息を吐きながらノアは地下都市の中を歩き出した。
ハングリーフライデーへの道を諦めて、結局ノアが辿ったのは、地下都市の奥の奥。原住民しか住むことができない濃度の瘴気の中で今日も沈丁花が花を咲かす。惑星の瘴気を含んだ花たちは、色鮮やかに不可思議な色を纏って揺れていた。
──蘭がまた一晩で咲いては枯れたんだ。人間を食ったんだ。
七色に揺れる大輪の鈴蘭を足場代わりに水場を抜けると、タンポポが綿菓子のようにペールカラーの柔い種をふわふわと飛ばしている。うっかり胞子を付けられたら地下都市の天井に連れて行かれるのだ。上昇気流に足を取られないように植物を抜けて、ようやく少年は声を上げた。
「ミュシャ!」
黄銅色に落ち着いたキノコの中をくり抜いて、たんぽぽの綿毛を注意深く集めてふかふかの寝床に仕立てたノアと恋人の隠れ屋は忘れ去られた女神の唇の先に作られていた。
ぽちゃんと、天井から水滴が落ちて辺りに水門を作る。田園と呼ばれるそこは、植物たちに侵食された、原住民の遺跡後だった。
「ノア?」
振り返ったミュシャは右手で持てるだけ持っていた食料を落としてノアを抱きしめる。片腕だけの包容なのに、リリアよりずっと暖かい。
降り落ちてくる綿帽子のようにふんわりと美しい口付けに、少年は微笑んだ。
「ミュシャのキスは、いつもくすぐったい」
腕の中で身動いで、幸せだと目で訴えてくる相手に、囁く。
「ぼくはまだ、大人のキスを知らないから」
「大人のキスをしようよ」
「ノア、鼻息が顔にかかってこそばゆいよ」
肩を掴んで顔を近づけようとしても、ミュシャは逃げてしまう。美しいミュシャは、性別がなかった。正しくは、「無性体」と言うのだと教えてもらった。
ミュシャとノアは、ずっと恋人同士だった。ずっと二人でスラムの奥地、原住民の残した遺跡の中で、降り注ぐ毒を含んだ綿帽子で埋もれていく田園で暮らしていた。
「ノア、可愛い」
「ミュシャは綺麗だ」
片方が無性体なので、身体をつなぐ方法を知らない幼子たちは、手を繋いで微笑む。
「ハングリーフライデーに行き損ねた」
「大丈夫? 怒られない?」
「わかんない。また、花を持って行くよ」
「うん」
もう一度キスをして、どうしてもミュシャの匂いを嗅いでいたいので、寝床に押し倒して上に乗っかった。
「ノア。ご飯は?」
「今は、ミュシャがいい」
返すと、ミュシャは美しく笑った。
無性体の体は、排泄孔があるばかりだ。ミュシャは原住民の血を濃く引いているので、「緑の民」同様時期が来たら分化する。ただし、その性別がどちらになるのか分からない。
「ノアの赤ちゃんが欲しいから、ぼく女がいいな」
唇を重ねながらミュシャはそんな風に言う。ノアもストリートの少年たちが当たり前のように夢中になっている「セックス」をしてみたかったので、ミュシャが女になればいいと思っていた。
「ノア、ちんちん少し大きくなってるよ」
「ほんと?」
ノアはまだ精通していなかった。だから、ストリートの少年たちの言う「射精」の頭が突き抜けるような感覚も知らない。たまに、性器をミュシャに吸ってもらうけれども、少し大きくなるばかりだ。
「ミュシャが女の子になる前に、僕がちゃんと男にならないとな」
ミュシャに指先で突かれる性器を見下ろしながらそう呟くと、ミュシャは笑った。
「なるよ、大丈夫。ぼくが保証する」
柔らかく性器を擦りながら、甘いキスをくれる。はあと息を漏らしながら、ノアはミュシャの中に入って一つになれればいいのにと思う。
一度排泄孔に指を入れてみたけれど、ミュシャは痛がるばかりで、うまく身体を繋がることには進めそうになかった。
「いつだって、ノアはぼくを救ってくれるもの」
腰を抱きしめながら、ノアはミュシャの左腕の付け根に頭をくっつける。母親が分からない原住民のミュシャは、3歳になった頃ストリートに捨てられていた。原住民の子供は高く売れる。さらに、性奴隷にするためには身体が不自由な方がなにかと重宝するのだと左手を切り落とされていた。性奴隷用の肉体改造の規制は、この惑星では緩い。さらに視力を奪われそうになった時に、ノアがミュシャを救った。
「ノア」
強請るような声が聞こえる。その声に従うように、上着をめくり上げて乳首をミュシャに見せる。嬉しそうにミュシャはノアの乳首を吸いながら性器を弄り出した。
「んっ」
息を詰めながら、ノアは視線の先の世界を見つめる。
「はあ、ミュシャ」
手を伸ばした先にあったのは、植物に飲まれた女神の横顔だった。
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