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第2話
神々の末裔にあたるオリュンポス王家が統べる国にこそ正義があるのだと、銀河惑星が主張して何世紀もの刻が経った。
オリュンポス銀河の果て、最後の楽園と謳われた惑星ヴァルキリーの春が芽吹く頃。咲き荒れる花々が巨大な鳥籠を成形するヴァルハラ宮殿の中庭、銀河一の美姫と謳われたアルロディテ・フォン・ヴァルキリーが眠りについている。
「そうして、人々はトロイメライ一世の奇跡に縋るのでした」
創生神話を絵本にしたものを、侍女はアフロディテに読んで聞かせる。宮殿の周りは薄いドームで覆われており、天候が崩れることはない。美しい光に包まれて、花が咲き誇る中庭に置かれた寝台に横たわったアフロディテが動くことはない。彼女は空を見つめ、両手両足の膨らみが抜け落ち声を発することも、そのブルーグリーンの瞳を瞬くこともない。
「アフロディテお嬢さま。今日坊っちゃまが戻っておいでですよ」
豊かな金色の髪をゆっくりと手で梳いてやりながら、侍女は目元を拭って宮殿の中に戻っていった。主人を迎えるためだ。
直接宇宙港に繋がっている巨大な宇宙エレベーターからリムジンが出されて、その中に人影を見つけ、彼女は手を振った。
「坊っちゃま!」
ヴァルキリー家の乳母でもある侍女マルタは功を挙げて帰ってきた当主を喜んで迎え入れた。惑星を領とする公爵家の当主であるヴィンセント・フォン・ヴァルキリーはその才覚により幼少のころよりオリュンポス王家の末裔が暮らす宮殿惑星に招かれてそこから養育された産まれながらの貴族だった。また、この惑星の者たちにとっては誇りだった。
前当主の失墜もあるが、それ以上に何世紀も前から軍神ヴァルキリーの末裔として王家に仕えていたヴァルキリー家には優れた軍人を輩出した。
「ようやく軍神の名を継ぐに値する者が産まれたのだ」
そう祝福されて育ったヴィンセントを誰も彼もが信用し、期待し、彼の展望に夢想した。
マルタを除いては。
「坊っちゃま、お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま」
戦場からそのまま帰ったため、軍服にマントが翻る。彼の背中からマントを取り外してやると、その冷えたアイスブルーの瞳は周辺を見渡した。
広大なヴァルキリー領の中にいて、驚く程侍従が少ないのはヴァルキリー家には大きな問題が存在しているからだ。
──坊っちゃまの瞳にも、奥様と同じ、淫蕩の色がある。
密かにマルタは囁いて、その美しい青年の横顔を見つめた。
身長は高く、顔は小さい。陶器のように白く美しい肌は内側から輝くようで、しなやかで見事な筋肉が彩っている。鼻は高く唇は薄い。瞳は冴え冴えとしたアイスブルーで、プラチナブロンドがその冷たい印象の美形にはよく似合っていた。
「マルタ、ディディーは」
「ええ、今日も中庭に」
暫しの無言の後、彼は服装を改めもせずに中庭に向かう。その背中を、マルタが覚えているどれよりも広い。
十年前、あの背中は小さくアフロディテは小鹿のように中庭を跳ねていた。
『マルタ! 見て! 私とお兄様、こうすると私の方が背が高いのよ!』
前当主が政治的に失墜していても、マルタにとって美しい兄妹が領地の中ですこやかに育っていくことは喜びだった。
『ねえ、マルタ! 聞こえる?』
甘い声がマルタを呼ぶ。その声につられるようにマルタも中庭に歩いて行く。そっと柱の陰から覗いた中庭の寝台の上に、青年は腰をかけていた。軍神ヴァルキリーの氷将軍と言われた青年がとても柔らかい表情で美しい眠り姫を見つめている。それからゆっくりと、宝物に対するように口付けた。
『ねえ、マルタ。わたくしね、お兄様と結婚するのよ』
柔らかいに声に誘われてたまらず、マルタは両手で顔を覆った。
銀河惑星軍ギガントを指揮するトロイメライ二世が愛妾を失ったのは、十年前に遡る。公爵家の令嬢として生を受けながら、トロイメライ二世の愛称ベロニカ・フォン・ヴァルキリーが愛妾風情に成り下がった理由を、彼女の嫡男として産まれたヴィンセントは理解していた。
──母上は、貴族の女だった。
公爵家として生まれると言うことは、重責が伴うものであると言うことを彼女は理解していなかった。享楽を愛し、不貞を好み、身分の低い男に足を開くことを夜の嗜みだと教えられていた。
「彼女もまた、贄に過ぎない」
呟くと、副官のアレスが振り返った。
「ヴィンセント様?」
顎の前で組んでいた両手を崩し、ヴィンセントは微笑んだ。
「いいや、すまない」
銀河惑星軍の今回の遠征は、長い間戦争が続いている惑星同盟連合軍デメテルの中で、長年不在だった軍事惑星の主導者が立ったことに関係がある。
「この度の遠征では、長年我が軍が補給惑星として使用していたハトシェプストを強奪されたことによる、補給路の奪還にあります」
「アポロン将軍は何をしていたんだ?」
アーサーと名乗る軍事惑星の主導者が他の同盟惑星を誘導し、数ヶ月前にトロイメライ二世の従兄弟に当たる将軍アポロンとの戦場において勝利した。ハトシェプストだけではなく補給惑星ワープ路を掌握したのだ。
「アポロン将軍は、功を急いだのでしょう」
王位継承権が低く、皇太子が産まれた今、トロイメライ領に入ることも貴族たちが住う宮殿惑星に出入りすることも出来ない。産まれながらの道楽貴族であったアポロンが将軍職を得られたのは、彼が王の血族だからだ。
「彼の副官は傑物だと聞いていたが」
「メデューサは心の読めない女です。アポロンの失脚を画策したのは彼女かもしれません」
「くだらん。下民の考えそうなことだな。だが……ハトシェプストは我が軍が誇る軍事惑星トトメスへの補給の要。子供の駄々でワープ路まで奪われてはな」
一息ついて、ヴィンセントが副官に指示を出すと、彼は素早く部下に指示を出して行く。ヴィンセントは装甲艦コルベットの指令官として目の前に広がる宇宙を眺めた。
──アフロディテ、お前のヴィヴィーはこの宇宙を掌握する。
ヴィンセントの双子の妹は、運命の恋人だった。二人でこの世に産まれ落ちた時、手を繋いでいたという。
美しいアフロディテ。ヴィンセントの最愛の人。彼女が柔らかく笑う声がもう一度聞きたかった。
「ヴィンセント様、準備が調いました」
「ああ」
指揮官として立ち上がり、左右に展開された自軍に宣言する。
「これより、ハトシェプスト奪還へ向け、出立する。我らにヴァルキリーの祝福を賜わんことを」
機動力の速い左右展開していた駆逐艦数隻がワープ港に消えていくのをヴィンセントは見つめた。
ハトシェプト奪還への航路を短縮するため、一度軍事惑星トトメスで陣を張ることになった。
「トトメスか」
機動力を有する作戦なので、悠長なことを言っている暇はない。ヴィンセントにとって最前を副官が提案するのを、頷く。
「トトメスに何かご不満でも?」
「いいや? あのホルスという生物には興味があったからな」
アレスの含んだ笑みに気づき、「ヴァルキリー家にも、似たようなものが居る」と付け加えた。
「軍神ヴァルキリーの加護、ですか」
「くだらん話だ」
手を払うような仕草にアレスは笑みを深める。
──そういう貴方こそ、化物の名で呼ばれていることを、知らない。
アレスは寝物語に恋人に伝えたことがあった。
「あの方は、戦術の天才であるがそれと同時に、己の才能を熟知してらっしゃるのだ。人は彼の方を、化物という。かつてヴァルキリーが呼んだラグナロクの再来であると」
「ラグナロク? 一度世界を滅ぼした化物の名前? だって、あれは架空のお話でしょう?」
「いいや、存在するんだ。神々をも滅ぼした伝説の怪物が」
アレスは視線の先の上官を見つめる。冴えた美貌に表情は無く、彼はいつも戦場の最前線に立って獲物を探している。幼い頃から宮殿惑星の政にももまれた為、彼は政治の動きも熟知していた。
その横顔を見つめるたびに、アレスはこの軍神がどこに立つのだろうと考える。伯爵家の嫡男として生まれ、軍部に属した途端頭角を示しそのわかさで将軍まで上り詰めた。美貌と人脈を持ち、申し分のない後ろ盾もある。王家の覚えも良く、彼は年相応の振る舞いをする。
──一つ懸念があるとすれば、今後の婚姻についてだが。
アレスは出会った頃の、彼の行いを思い出す。貧乏貴族出のアレスは軍で生き残るしか実家を養う方法が無かった。
それでも、生まれながらの高貴な者たちは弱気を挫かせる。学業で優秀な成績を修めれば嫌がらせを受けて、制裁という名前の上級生からレイプを受けそうになった。
『お前たちは、獣なのだ』
母親の不貞によって彼もまた同級生から遠巻きにされていたヴィンセントがアレスを犯そうとした上級生に決闘の手袋を叩きつけてそう宣言した。
「およそ人の倫理から外れた、獣なのだ。理由を私が教えてやろう」
高らかに宣言したヴィンセントが卑怯にも三人がかりで襲ってきた上級生を決闘で負かして、そして彼は伝説になった。
あの日から、ヴィンセントはアレスにとって、誇り高きギガントの氷の獅子だ。彼の背中を追い、何れ彼が支配する世界を見てみたいと願った。
──けれどいずれ……。
何れ、時が来れば彼の真価が問われるのだろうと視線を外した。
「ヴィンセント様、寄港願いが出されております。トトメスからです」
「トトメスが? この有事に?」
「何でも、ホルスの動きが活発化しており、それは近年起きなかったことだと」
「ほう」
「ヴァルキリーの加護をお持ちの閣下に是非に寄港をと」
何の躊躇いもなく男が「話を聞こう」と頷きやがて純白の装甲艦コルベッドがトトメスのワープ港に入る頃、一匹のホルスが顔を出し、銀の炎を撒き散らした後、ゆっくりとまた銀の海へと戻って行った。
「此度の戦、荒れるな」
僅かなヴィンセントの囁きも、ホルスの炎に飲まれた。
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