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第55話
ある日のことであった。
『春臣が女の子とおいたしているよ』
そう、誠太から電話が掛かってきたのは。
―馬鹿馬鹿しい。誠太は俺と春臣の仲を知らないからそんなことを言うんだ。
「そんな冗談に騙されないし」
そう思いつつも、手に握る紙に書いてあるのは春臣が女と一緒にいると言われたホテル名とその住所だった。
誠太の戯言など信じていなかった。しかし、買い出しに行った春臣と連絡が取れなくなってしばらく経つ。時間は深夜を回るも春臣が帰ってくる気配は見られなかった。
先程帰ってきた京太も春臣の所在はわからず、どこかで事故にあったのだろうかと千晶は心配で眠ることもできずにいた。
そんな中かかってきた悪友の電話。それは胸をモヤモヤとさせるのにうってつけのものであった。
「春臣は俺のこと好きだって言ってくれたんだ...」
その言葉は自分自身に言ったのか。
安心したくてかける電話も通じることはなく、不安を煽るかのように溜まっていく着信履歴。
手にしたメモを千晶はもう一度見つめると、意を決したように立ち上がり玄関から外へと向かった。
―春臣は何かに巻き込まれたんだ。俺が助けてやらないと...そして帰ったらちゃんと2人で晩ご飯を食べるんだ。
「春臣も戻ってこなかったし味噌なかったから別のもの作ったけど、文句は言わせないからな」
嫌な考えは頭から追い出す。折角得た幸せを千晶は手放したくはなかった。ただただ、この微睡みのような幸せを少しでも長く味わっていたかった。...ただそれだけ。
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タクシーを使ってメモに書いてあるホテルの近くまできた千晶は車を降りるなりあたりを見渡す。
その視線はただ1人の人物を探していた。時刻は3時を過ぎたあたり。こんなところに来たところで春臣を見つけられるとは思っていなかった。否、思いたくはなかった。
それでも探してしまうのはやはり、自分の中で膨らむ不安があるからか。
「春臣...戻ってきて俺のことを抱きしめてよ」
路地の壁にもたれかかりズルズルとしゃがみ込んだ。本人を前にして言えない言葉も今ならスラスラと言える。
いや、今日なら本人を目の前にしても言える。そんな気がした。
早くこの不安を掻き消していつものように好きだと言って抱きしめて欲しい。俺だけの優しい眼差しを向けられたい。
そうしてどのくらいの時間が経ったのだろうか。
気がつけば日が昇り始めたのかあたりは徐々に明るくなっていく。そうして、ホテルから出てくる2組の男女に目がいった。
「あれ...違う、よね」
2人ともマスクをしており女の方は帽子もかぶっているため誰かはわからなかった。しかし、随分とお盛んだったのか女は腰を気遣うようにして歩いていた。そしてそれを見送る男の方は...———— 遠くから見てもわかる程、愛おしい男のシルエットで。
「嘘、だよね...俺のこと、好きだって」
いつになく覇気のない声が自分の口から溢れでる。だが、一歩、また一歩と近づけばそれは確証へと変わっていった。
「千晶...っ、」
目の前の男はこちらを見て驚愕しているのか目を大きく開いた。マスク越しに聞こえる声はやはり、愛おしいあの男のもの。
―あぁ、あぁ、あぁ、そうか。俺は、やっぱり騙されていたのか。
それは幸せを得るために気づかないフリをしていた事実。考えないようにしていたこと。
ツゥ、と涙が頬を流れる。
それでも、この男を信じたかった。愛しいからこそ信じていたかった。自己中だと思われてもいい、自分の気持ちに素直になって身を委ねたかったのだ。
しかし、それらは全てなんとも呆気なく裏切られ打ち捨てられる。
所詮は自分も春臣の駒のうちの一つに過ぎなかったのだ。
「春臣...あんたを殺してやりたいよ」
溢れるほどの愛情は現実を目の当たりにして全て憎しみへと変わる。
やはり、自分はこの男を憎むことしかできないのだ。この男が本当の意味で愛してくれないのと同じように。
そうして千晶は再び人形に戻った。
もう春臣に期待などしない、なにも求めない。そのかわり...————
「全部奪ってやる...地位も名声も、尊厳さえも」
春臣に背を向け歩く千晶は歪んだ笑みを浮かべる。しかし、涙は止まることなく頬を濡らし続けた。
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