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皇帝の血2
嫌な夢を見た。
夢、というよりは記憶だ。
ニールは大きく息をついて、右目を開けた。
隻眼になってから二十年。
今では当たり前となった欠けた視界に映っている見慣れた軍宿舎の天井に、ニールは「やれやれ」と嘆息する。
しばらくぶりに見た悪夢のせいか、汗ばんでいる肌が気持ち悪い。
シーツをはね除け、のっそりと体を起こす。壁に掛けられているねじ巻き時計をみれば、昼を迎える時刻となっていた。
「随分と、お疲れのご様子ですね」
「休暇中でも、何かと忙しかったからな」
あくびをかみ殺すニールに声を掛けたのは、副官のイリダルだ。
東方の血を引くイリダルは、顔つきも体つきも華奢だが、凜とした態度はどちらが従者かわからなくなる。
「珈琲と紅茶、どちらにします?」
枕元に投げてあった黒革の眼帯を巻きながら、ニールは「紅茶がいい」と返してベッドから出た。
「珍しいな、てっきり寝坊ですねとか、小言をもらうと思ったんだが」
「私を鬼みたいに言わないでほしいですね。さすがに、気遣いぐらいはしますよ。故郷に帰ってみて、大事なことも嫌なことも思いだしたでしょう?」
むっと、不機嫌そうに眉をひそめてくるイリダルに「ありがとう」と苦笑を返す。
「礼には及びませんよ。……で、ユーリ様の形見に、何を選んだんですか? 軍服のポケットには、それらしきものはありませんでしたが?」
「大きなものだから、知り合いに置いてもらえるよう頼んだ」
「知り合い、ですか? ティアニー少佐にお友達がいらっしゃったなんて初耳ですね」
うるさいな、と視線でこれ以上は詮索するなと釘を刺し、テーブルに着く。
昼まで寝こけていた原因は、長い時間を馬車に揺られていたせいだ。
戦地に向かうための荷馬車よりもずっと座り心地が良いとはいえ、気の抜けない相手と狭い空間に押し込められていては、気疲れもする。
「エヴァンジェンス大佐も、ユーリ様の邸宅にいらっしゃったんですか?」
テーブルに置かれたクッキーを取ろうとした指が、思わず滑った。明らかな動揺に、イリダルはしてやったりとほくそ笑んでいた。
「一緒にいたんでしょう? お友達ですものね?」
「うるせぇな。あんな奴、友達なんかじゃない」
エフレム・エヴァンジェンス大佐。
捕虜の尋問などを任されている、諜報部のどぶさらい。
四十二歳とはおもえない整った顔をしている貴族軍人のくせに、不穏でしかない肩書きを持つ男との交流を、当然ながらイリダルはよろしく思っていない。
思春期の息子を持つ母のように、口出しをしてくるイリダルに、ニールは悪いと思いつつも無視をして、無茶をしていた。
「イリダル、お前はエヴァンジェンス大佐がユーリおじさんと知り合いだったって、知っていたのか?」
現在はニールの副官兼従者として隣に立つイリダルだが、もともとは、ユーリ・ティアニーの従者だった。
ユーリによって奴隷商から助けられた恩義を未だに大切にしていて、遺言通りにニールの世話をしてくれている。年下だが、ニールにとっては親代わりのような存在だ。
「ユーリ様のかつての部下だったことは、知っています。が、大佐について回る噂をすべて鵜呑みにするわけにはいきませんが、あまり深くおつきあいすべき人物ではないことだけは言いましたよね?」
陶器製のポットから、とぽとぽと紅茶がカップに注がれてゆく。
とても良い香りだが、楽しめるような状況ではなかった。
ニールは場の雰囲気を変えようと、クッキーを摘まんで貪った。ばりぼりと音を立てて咀嚼するが、効果は今ひとつに終わる。
「ひどい目に遭っても、私は知りませんからね。ティアニー少佐も、もう二十五歳。私ごときに、ああだこうだと、とやかく言われたくもないでしょう。好きにして構いませんが、自己責任でお願いします」
すでに、ひどい目に遭っているとは言えない。
一晩だけでなく、二晩も夜を共にしたなんて知ったら、口でなく拳が飛んできそうだ。
(……取引とはいえ、あんなおっさんと寝るはめになるなんて思いもしなかった……のは、俺の甘さか)
帝国の英雄と呼ばれている元皇子が、どぶさらいと揶揄される男に組み伏せられ、腹の奥に精を注がれていると誰が想像できるだろう。
イリダルも、まさか、男女のような深い関係になっているとは思ってもいないだろう。
(おまけに、二回とも取引とはぜんぜん関係なかった。その場の雰囲気に流されて抱かれたとか……なにやってんだ、俺は)
腹立たしいのは、胸中にあるものが、屈辱だけではないからだろう。
取引と称して散々体をもてあそばれていたとはいえ、体は確かな快楽を覚えていた。
主が去り、廃屋寸前のユーリの邸宅で過ごした一夜を思い出すと、怒りよりも羞恥心にこの世から消え去りたくなる。
ニールの葛藤を見抜いているのかどうかはわからないが、イリダルは呆れた顔のままポットにティーコゼーをかけた。
「世の中は、誠実な人ばかりではありません。全てを疑えとは言いませんが、少しは警戒してくださいね」
「――わかってる」
答えてみたが、どうしてか嘘くささを感じてニールは苦笑を紅茶で隠した。
イリダルはニールの自虐に見て見ぬ振りをして、「式典の準備がありますので」と一言だけ残して、ニールの私室から出て行った。
「そういや、俺は勲章をもらうために帝都に戻ってきていたんだよなぁ」
一週間かそこらの休暇と思っていたが、式典の日取りがなかなか決まらず、軍人として生きると決めた人生の中で、初めてゆっくりとした時間を過ごしていた。
ニールは紅茶を飲み干すと、イリダルが戻ってこないのを扉越しに確認した。耳を澄ませても、人の気配はない。
そっと椅子から立ちあがって、滅多に開けないクローゼットの扉に手をかける。
予備の軍服と部屋着、形の古い普段着が二、三着。およそ、帝国の英雄とも元皇子ともおもえない簡素な中身。
使われないまま放置され、革が痛んだ靴の隣に一抱えほどの、鍵が掛かる箱が置かれている。
首から提げた革紐をシャツの中から引っ張り出して、小さな鍵を錠に差し込んだ。
かちっ、と心ともない軽い音を立てて施錠が外れる。
まだ、後宮にいたころに使っていた宝箱の、おもちゃのような華奢な取っ手を摘まんで抽斗を開けると、中には一枚の写真が入っていた。
エフレムからもらった、兄の写真。
遠征の途中で姿をくらまし、死亡者として処理されていた兄アルファルドは、今もどこかで生きている、その証拠になるものだ。
エフレム・エヴァンジェンスの悪い噂は、イリダルに言われなくとも知っていた。
わかった上で、ニールはエフレムに近づいた。
エフレムに接触することでしか、兄の生死と行方を知る術がなかった。
情報を得る代わりに、体を差し出したのは――それだけ、切羽詰まっていたのだ。
「いまでこそ、俺は英雄なんて呼ばれちゃいるが、このままずっと……戦場で生きていれば、いつ死ぬかわからない」
だからこそ、式典のためのわずかな休暇で兄の行方を突き止めたいと願った。
アルファルドが戦場で姿を消したのは、生きるためだったのだとニールは思っている。
同じように戦場に立ったからこそ、痛感している事実があった。
ニールは眼帯を巻いた左目を、そっとなぞった。
眼窩に義眼がはまっているので、触った違和感は思うほどにない。
眼帯からはみ出るほどの大きな裂傷がなければ、人相も少しは良かっただろうか。
二十年前、ニールは後宮に忍び込んだ暴漢によって、左目と大事にしていた友人を失った。
命まで失わずに済んだのは、暴漢から身を挺して守ってくれた人がいたからだ。
(……あれは、誰だったんだろう。兄さんかな?)
悲鳴を聞いてかけつけてきたばあやは、ニールを助けてくれたのは守衛だと言っていたが、本当かどうかは分からない。のちのち、守衛に問いかけても「すみません」と謝罪の言葉が返ってくるばかりだった。
左目を失った痛みと絶望感に、記憶は曖昧となっていて、あのとき助けてくれた人をしっかりと右目でみているのに、どうしても思い出せないでいた。
悪夢に出てくるのは、暴漢のぼんやりとした姿と左目をえぐった物珍しい金色の短剣だけ。
暴漢は取り押さえられることなく逃げおおせ、第四皇子が左目を失ったのにもかかわらず、事件はうやむやのままに終わった。
多くが第二皇妃を疑っていたが、不用意に口に出せば、飛ぶのは己の首だと、声を大きくして言える者は少なかった。
ニールは写真を元通りにしまって、再び椅子に座った。
冷めないようにとポットにかぶせられたティーコゼーを取って、紅茶を注ぐ。
蛮族の出身ながらも、国を傾けるほどの美しさを持つ母、アマリエは、皇帝の寵愛を一身に受けていた。
一族の敵である皇帝をアマリエがどう思っているのかはわからないが、彼女の美貌に周囲も驚くほどに傾倒している皇帝に、第二皇妃が恐怖を覚えていないとは言い切れない。
年を重ねても衰えない美しさで、皇帝を傀儡にしているのではと考えたのかもしれない。
このまま、後宮にいれば命の危険もある。そう、判断したユーリ・ティアニーが、己の養子としてニールを引き取って、育てることになったのだ。
ニールは公の場で、皇位継承権を手放している。
今現在の立場は、ユーリの息子であり、姓もティアニーを名乗っている。
帝国の軍人であり、英雄だ。
だのに、今も命を脅かされ続けているのはたしかだ。
ニールが英雄となったのは、不可抗力だった。狙ったように最前線に送られ、結果、生き残り続けて勲章をもらうまでになった。
アルファルドもニールと同じように、戦場で命を落とすよう仕向けられていたに違いない。
ニールは生き残り、アルファルドは逃げた。
「……生きているって、知れただけでいい。そう、思っていりゃあいいのに、やっぱりオレは、兄さんに会いたい」
軍宿舎の、手狭な個室。
ニールは窓際に置いてある、埃をかぶったクマのぬいぐるみを見やる。
小さい頃は、両手で引きずるようにして抱えていたぬいぐるみも、いまは片手で振り回せる。
返り血をかぶったニッキーの代わりに、ばあやが用意してくれた、そっくりそのままのクマのぬいぐるみ。
「兄さんしか、残っていないんだ」
今はどこにいるかわからないばあやの思い出でもある、名もないクマのぬいぐるみは、薄暗い帝都をつぶらな瞳で見つめていた。
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