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皇帝の血 1
帝国の英雄として、常に最前線で剣を振るっているニール・ティアニーが、まだ皇子と呼ばれていた二十年前。
五歳の冬の始めだった。
ニールは、ふわふわの綿と手触りの良い毛足の長い布で出来た、唯一の友達であるクマのぬいぐるみ、ニッキーを抱えて後宮を散歩していた。
中庭にある庭園の木々に茂っていた葉が、はらはらと風もないのにちぎれて飛び、綺麗に掃除された廊下に模様をつけている。
心配性のばあやの目を盗んで寝所を抜け出し、ひっそりと静まりかえった後宮を散歩するのが、ニールの密やかな楽しみだった。
誰の目にもとまらない、静かで神聖な空気の中で一人、靴音を響かせて歩いていると特別な気分になる。
「ねえ、ニッキー。覚えているかな?」
一抱えほどあるクマのぬいぐるみは、五歳の誕生日にもらった。
母と旧知の仲であるという軍人、ユーリから贈られたもので、ニールが初めて他人からもらった贈り物でもあった。
あまりにも嬉しくて、お風呂の時以外はずっと、どこへ行くにも連れ回している。
そのせいで、ニッキーは一年も経っていないのに、あちこちがすり切れていた。
「綺麗なお兄さん、どこにいるのかな?」
ニールは「よいしょ」とニッキーを抱え直し、寝間着のズボンをまさぐった。
大事なものをしまっている宝箱から引っ張り出してきた、手触りの良いハンカチを口に当てる。
ニッキーの毛並みがまだ新品だった頃に出会った、名も知れぬ青年がくれたものだ。
転んで涙ぐんだニールを優しくぬぐってくれたハンカチは、ほっとする優しい香りが残っていた。
「良い香りだね」
たまに後宮ですれ違う、第二皇妃がつけているあまったるい匂いが苦手で、思わず顔をしかめるたび、ニールは恐ろしい顔で睨まれていた。
だからか、香水のたぐいは苦手だったのだが、ハンカチの残り香だけは違っていた。
ニールはすんすんとハンカチを嗅ぎながら、当てもなく、広い後宮をぶらぶらと歩く。
特別な感じのするこの時間帯は、何か、特別なことが起きるような気がしていた。
もしかしたら、もう一度あの青年に出会えやしないだろうか。
淡い期待は、ニールの幼い心をときめかせていた。
「ニッキーも、会いたいよね? ぼくもね、もっとたくさんお話がしたいんだ」
綺麗なお兄さん。
とはいえ、詳細を思い出そうとしても顔はうろ覚えで、名前も素性もニールはわからない。
ただ、ばあやは綺麗なお兄さんが誰であるのか知っているようだったが、訊ねても嫌そうな顔をしてはぐらかしてくるので、諦めていた。
友達はニッキーだけしかいないが、好きな人はいる。
この世に生を受けてから、一度も母と顔を合わせたことのないニールにとって、ばあやは信頼を寄せるべき家族だった。
身の回りの世話をしてくれるメイドたちも、年の離れたお姉さんと慕っているし、なにより、兄のアルファルドはニールが唯一会話の出来る肉親だ。
我が儘を言って、大好きな人たちを困らせたくなかった。
ニールには理由がわからないが、第二皇妃の身辺を固める召使いたちは、ニールとアルファルドに冷たくあたることが多かった。
ばあやは表向き快活にニールの世話をこなしているが、嫌がらせにため息をついている姿を知っている。
「会えないかなぁ。もういちど会って、今度はちゃんとお名前を聞くの」
嗅ぎすぎて匂いが消えてはいけないと、ニールはハンカチをポケットにしまった。
早朝であるために、人の気配はない。
皇帝ヴァルラムの妻子が住まう後宮は、城の奥深くにあり、開放的に見えるが警備は厳重だ。
――厳重でなければならない。
ニッキーをぎゅうっと抱きしめて、ニールは大きく息をつく。
かすかに期待をしているが、同時に、絶対にないだろうとも感じていた。
あの、綺麗なお兄さんに出会えたのは奇跡だったのだ。
本来ならば、近づいただけで殺されかねない場所なのだ。
「そろそろ戻らないと、ばあやに怒られちゃうね」
朝を告げる鳥の声が、後宮に響きだした。
ニールだけの、特別な時間の終わりを告げる鐘の音。
赤く色づいた落ち葉を踏んで、ニールは元来た道を戻ろうと足を止めた。
その時だ。
みんなが寝ているはずの後宮に、足音が響いた。
ニールは驚いて、ニッキーをぎゅっと抱きしめた。
「誰だろう?」
かつん、こつん。
だんだんと近づいてくる足音に、ニールは大きな瞳をさらに大きくさせた。
「お兄さんかな!」
会いに来てくれたのだろうか。
勉強を嫌がるニールに、ばあやは「良い子にしていれば、神様がご褒美をくれますよ」と説いた。
勉強の後にくれるクッキーは嬉しかったが、ニールが望んでいたご褒美はお菓子ではない。
ニールはニッキーを放り出す勢いで、駆けた。
毎晩、寝る前に神様に「お兄さんに会わせてください」とお願いしていたから、きっと、一生懸命、勉強を頑張ったご褒美をくれたにちがいない。
ニールは胸を躍らせ、足音のするほうへと駆けて行った。
吹き抜けから差し込んでくる、目も眩む、鋭い光に目を細める。
「お兄さん?」
眩い、冬の初めの真っ白の朝日を背にして立つ背の高い男。
逆行になっていて顔はわからないが、漂ってくる苦い、煙草の臭いにニールは眉をひそめた。
違う。
あの、綺麗な顔をしたお兄さんじゃあない。
「――だれ?」
心臓が、どきどきする。
はやく逃げなければと思うのに、足がすくんで動けなかった。
人影は、怯えるニールを見下ろして笑った。
笑っているのに、恐怖を覚える奇妙な笑顔だ。
ゆっくりと、今度は足音を立てずに近づいてくる男の手には、果物の皮をむくときに、ばあやが出してくるナイフに似たものが握られている。
「危ないから、触ってはいけませんよ」と、怖い顔をしてばあやがニールに言い聞かせていたもの。
ギラギラと光る太陽を思わせる短剣がひゅっと乾いた音を立てて振り上げられ……ニールは、左目の光を失った。
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