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兄から己を抱いても良いと赦 しが出たのは、秋乃 が応虎 との間に第一子を身籠 ったことが告げられた翌日だった。
兄はほんの少し前までこの組の若頭だった。
弱りつつある父に代わり、組の采配 を行うのは近い将来、兄の役目となる筈だった。それを反故 にしたのは三番目の弟・応虎の愚行に他ならなかった。いや、暴 かれた二番目の――俺の、どうしようもない想いの所為であった。
二番目の弟は……俺は、兄を慕っていた。それも性質 の悪い恋情の意味で。純粋な想いであればこうはならなかっただろうに、しかし兄への想いは長年心の底に秘匿 する間に段々と黒い澱 に浸ってしまった。
肉欲と崇拝と恋慕とが織り混ざったまま、それでも俺は兄にとっての「忠実で信のおける従者」として振る舞ってきた。誰よりも有能で兄にとって一番誇れる弟であり続ける事が、恋人などというありふれた陳腐 な関係性よりもずっと尊く、得難 いものだと納得できていた筈だった。
それはあの愚鈍 で生意気な――愚弟 ・応虎の告白によって、あっけなく崩れ去った。人の口から暴露された俺の秘めた想いは、誰の予想もできない結末へと帰結した。
兄は――、兄者は俺を受け入れたのだった。
兄には当時、秋乃という妻がいた。
組の姉御に当たるその女は見目麗しく、気が利き聡明で――不器用で臆病な兄にはとても不釣り合いな人物だった。
しかし兄はその女に愛され、兄もまた女を愛していた。二人は誰の目から見ても……良い夫婦だった。
そんな女を捨ててまで、兄は俺を、弟を取った。
それはあり得ない僥倖 であり、同時に申し訳なさが胸を攫 った。地位も名声も美しい妻も信頼も、清廉な矜恃 すら……兄は、俺を引き受けた代償にそのすべてを失ったのだ。
俺は、すべてを捨ててでも俺を選んでくれた兄に心から敬服した。同時に愚かな選択をしたことを呪いつつ悦 びに震えた。
愛も憎しみも混沌とした俺の胸の内は荒れ狂ったが、頭の中では冷静にこの機会を喪ってはならないと強く意識していた。俺は兄に愛される為、遵守 すべきことを自らに課し、この生活を、関係を守ろうとした。
兄を傷付けるような早計な行いは絶対に禁止しなければならなかったし、異常に潔癖な兄が少しずつ許容していけるような段取りを地道に整えていく必要があった。
その間の、一人で過ごす夜があまりに長く寂しいものだとしても。
兄が自分を選んだということ、この数年願い続けた欲望が叶うかもしれない状況に俺の胸は逸 ったが、話題には触れず――ただ時折、そういう欲が己にはあることを……匂う程度に態度に出した。
兄はその度に表情を固くしていたが、一年が経ち、徐々に慣れてきたのか最近は聞き流すようになっていた。
が、こんな――性急に。
姉御の懐妊 が相当こたえたであろうことは想像に難くない。
祝いの言葉を届けるために母家 に向かう兄のしゃんと伸ばされた背が目に痛く、その姿勢の凛々しさがあまりにも悲しい背中だった。
兄者との間には終 ぞ、子ができることはなかったのだ。
恐らくは自棄 なのだろう。傷付き、それを隠すためにまた自分を傷つけたいだけだ。俺は兄を大事にしたかった。なのにこんな……自傷行為に加担することであんなにも切望した兄の身体を手に入れることができるのか。
皮肉にも程があるな、と零して俺は肺に溜め込んだ紫煙を吐き出す。
しかし気分は悪くない。煙草を灰皿に押しつけて燻 る火を捻り潰した。
機会を逃さないのは俺の主義だ。
栄沢邸の離れに設けられたこの屋敷はこじんまりとしていたが、男二人の暮らしには十分だった。
運び込ませたダイニングテーブルは兄者が選んだものだ。「家の者が来た時、皆が食卓につけるように」と兄が選んだ大きめのテーブル。椅子は六脚。それは意図したのか、兄弟の数と同じだった。
母家から戻り簡単な食事を済ませた後、端の椅子に腰かけたままの兄はぼんやりと机の上に視線を投げかけている。その様子を背後から見つめるが、兄者はこちらには気付いていないようだった。
兄の心を掻き乱すあの女のことを憎いと思う。だが、あの女ではなく選ばれたのは俺なのだ。
「兄者、身体を冷やしますよ」
空調を、と投げ出されていたリモコンのボタンを押してから、そっと近寄って肩に手を添える。
「ああ理衛 か」
気付かなくてすまない、と兄は曖昧 に笑む。そんなことは、と返して俺は兄者の両肩に手を回してこちらを振り向かせる。
「考えごとですか」
敢えて核心を尋ねるのは兄の為だ。早く吐き出して楽になってほしい。あの女のことも母家のことも、全部忘れてほしい。
今夜は祝宴 だが兄は参加を辞退した。「祝う気持ちはあるが俺がいては場に悪いだろう」この言葉にうまく返し、兄をその場に留めておくことができる者は誰もいなかった。逆にそう言われて安堵している者もいたことだろう。
「いや……そうでない、少しぼうっとしていたようだ」
自分の思いを言の葉に乗せ、誰かに伝えることができない不器用で愚直なまでに清廉な兄者。――可哀想に。
「そうですか。………兄者」
ゆるりと顎を持ち上げれば兄はそれを躱 すように顔を揺らすが、俺は逃してはやらなかった。ゆっくりと顔を近づければ兄はそれを嫌がる素振りを見せたが、結局は大人しく唇を重ねた。
ただ優しく押し付けるだけの口付けを二度三度繰り返して、俺は兄を盗み見る。兄の瞼はきつく閉じられており、弾き結ばれ強張った唇は固い。
「兄者……」
鼻と鼻とを触れ合わせながら囁くと兄は小さく息を漏らした。
「理衛……」
ここではと憚 る兄に、ではどこでなら口付けを交わしていいのだと思う。栄沢邸から奥まったこの離れには二人しかいない。ましてや、いま、自分は口付けを交わす以上のことをしようと言うのに。
「もう少し、深いものをしても?」
尋ねるような物言いをしながら返答は待たなかった。口を薄く開いて柔らかいところを擦り合わせる。唾液でぬるりと滑る唇は摩擦もなく溶け合うようで否応なく身体を興奮させる。啜 り合う水音が短く鳴った隙間に舌を滑り込ませ絡ませ合う。兄はくぐもった声を出したがじきに鼻にかかるものに変わる。
舌を絡ませる口付けを嫌がる兄だったが、経験がないわけではなく、ただ俺とこういうことをすることに躊躇 いがあるのだと思う。現に鼻から抜ける小さな声には快楽の色が滲んでいる。俺は兄の薄く長い舌を、この肉厚な舌で押しつぶすのが好きだった。逃げ回る兄の舌が忙しくなく動き回るのが良い。
口を離して息を楽にし、再びゆっくりと唇を交わす。今度は兄も大人しく受け入れて舌先を差し出してくる。丁寧に受け取ってそれを吸ってやると、兄者の身体がビクリと跳ね、掛けたままの椅子が大袈裟に床に擦れた音を出す。
「っ……理衛」
唾液の糸を引きながら顔を離す兄者の顔は紅潮しており、目には興奮の色が浮かんでいる。
「……はい」
想像より低く深い声が出て自分で己の興奮具合に内心自嘲 する。
こんなことでは先が思いやられる。
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