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第2話

「ほら、テア。大丈夫だ」  先にゆっくりとした動作でゼクスが食べて見せる。食べてみなさいと、できる限り穏やかな声音で呼びかける。  あの夜、救出したテアを己の屋敷に連れてきた後、しばらくテアは高熱を出して意識が戻らなかった。その間に、人ならざる者――幻獣や異種族を看てくれる医師に診てもらったが、テアが失った双翼は、もう生えて戻ることはないだろうと断言した。医療の心得のある者は、あの現場の中にはいなかったのだろう。翼を失った部分など、まともに治療をされた形跡もなく、膿みかけていた。そのせいで高熱が出て、救い出した後もテアは苦しむ羽目になったのだ。テアの潰れかけていた片方の足も、そのうち歩けるようになるとはいうが、走ることはもう無理だと医師は沈痛な面持ちで告げてきた。  テアは目を覚ましてからも、しばらく茫然としていたが、少しずつゼクスや、テアにつけた侍女たちの話しかけに答えるようになった。やがて上体を起こし、寝台から降りられるようになると、侍女たちがせっせと言葉遣い教え始めた。幼い頃からのものを直すのは難しいかもしれないが、テアは覚えることが嫌いではないらしく、真面目な顔で侍女の話を聞いている姿を見かける時間が少しずつ増えていく。  しかし、中々どうしようもできないのが食事だった。  アストレア族は、果実などを中心とした食事をしていたことを調べ上げ、特に新鮮なものを買ってくるようにと、使用人を毎日買い出しに行かせている。しかし、空腹を覚えた時に誰かが傍にいると、途端にテアは怯えた。部屋の隅に小さく縮こまり、黒い塊になっている。 「テア。ここに置いておくよ。決して何もしない。安心して食べると良い」  毎朝毎晩それを繰り返しても、最初のうちはほとんど食事の量が増えることはなかった。少しでも空腹が満たされると会話をすることもあるが、それまでが遠い。普段週の半分は屋敷にいない主人がずっといることに、使用人たちは大丈夫かと心配してくる。しかし、今の状態で使用人たちに任せられるとも思えなかった。 (これでは、テアを格子のない檻に閉じ込めているのと同じだな)  いつからテアが閉じ込められてきたのかは分からない。テアの様子を見ていて、ずっと似たような生活を送って来たのだろうと察せられるだけだ。ゼクスたちの摘発を事前にどうやって知ったのか、売人たちは持てる物だけを持って逃げて行ってしまったため、テアを捕らえていた者たちに問いただすことも、今はできない。しかし、少なくともテアは食事を与えられる度に、折檻を受けていたのは明らかだった。  食事の時間をあえて外したらどうなるかと考え、夕食にはまだ早い時刻にテアに与えている部屋を訪れた。ノックはしたので、ゼクスが入ってきたのは知っているはずだが、テアは窓枠に縋りついて立ちながら、窓の外を見ていた。 「何か、面白いものでも見えるのか?」  ゼクスの私邸は王都の中でも郊外にあり、隣家からも大分離れた森の中と言っていい。当然、窓の外から見えるのは、生い茂った木々と、その合間に見える空くらいのものだ。何の代わり映えもしない暮れゆく景色を、無言で見ている。ゼクスも一声を発したきり、テアの隣でしばらく無言のまま一緒に見ていたが、不意にテアがゼクスを見上げてきた。 「そこの大きな木に、小さな鳥が巣を作っているんだ。雛鳥が見えて……とても可愛い」 「鳥が? 良く気づいたな」  使用人たちはとっくに気づいていたかもしれないが、ゼクスはそういう自然のことには疎い自覚がある。テアが指さした方を見ると、確かに親鳥がせっせと餌を運び入れているのが見えた。細い枝で編まれた巣の中で、雛鳥たちが大きな口を開いて自分の順番をせがんでいる。 「窓を開けてもいいんだぞ?」 「……今開けちゃったら、親鳥がびっくりしちゃうだろう?!」  窓を開けようとしたゼクスを、テアが服の裾を掴んで慌てて引き止める。テアから近づいてくることは今までなかったので、ゼクスは目を丸くして立ち止まった。テアはといえば、顔を青くしたかと思うと、足を引きずって寝台の蔭へと隠れた。 「……ごめんなさい、掴むつもりはなかったんだ」 「いや、別にそのくらい気にしないさ。さっきは私が考えなしに動いてしまったのだから――注意してもらえる方が嬉しい。ほら、テアのごはんも持ってきたんだ」  寝台の蔭から、ゼクスを窺い見ていたテアは叱られないと分かると、「本当にごめん」と重ねて言って、這いながら出てきた。中々距離は縮まらないが、綺麗に切り分けられた果実を一つフォークで刺し、テアへと差し出してみると、テアが目を丸くしてから困り顔になった。ゼクスが膝をつき、自分と同じ視線の高さになっていることにも動揺しているらしい。 「俺、雛鳥じゃないよ?」 「分かっている。このままフォークを受け取ればいい。自分で食べてみろ」  震える手がゼクスからフォークを受け取ると、ちらちらとテアがゼクスを見てくる。ゼクスはふと思い立ち、歌を歌い始めた。テアと初めて会った時に歌った、数少ないゼクスが歌えるものだ。フォークを片方の手で持ったまま、テアがあっけに取られた顔をして、それから大きく笑い零した。 「……なあ。面白くて、食べられないよ」 「私は何もしない、という表現のつもりだったのだが……食べられないのは、困るな」  ぴたりと止めた後、ゼクスはその場で胡坐をかいたまま、思案を始めた。真剣に考えているゼクスの口に、瑞々しい感触が広がる。テアが、フォークに刺さった果実を、ゼクスの口に押し当てていた。それをそのまま咀嚼して飲み込むと、テアはまだ手を震わせてはいたが、果実のなくなったフォークとゼクスとを興味深そうに見比べていた。 「なかなか、美味いな。次から次と、食べたくなる」  素直な感想を述べると、テアが首を傾げてから皿へと視線を向ける。次はこれかな、と独り言ちてから、先ほどとは別な果物を――それも、一口で食べるには大きいものをゼクスへと差し出してきた。それを食べようと口を開いた瞬間に、果物はテアの口へと消えていった。 「本当だ、うまい」  もぐもぐと口を動かし、頑張って大きな塊を飲み込もうとしているテアだが、じわりと溢れた果汁が口の端を汚した。ゼクスがその唇へと手を伸ばすと、途端にテアが緊張したが、ゼクスの指がただ果汁を拭っていっただけだと知って目を瞬かせる。口いっぱいに頬張っていたものを嚥下してから、テアは腰を引き気味に「怒らないのか?」と尋ねてきた。 「今、私が怒る要素なんてあったのか?」 「……ゼクスに、食べ物を渡さなかった。汚い食べ方をしてしまって……ゼクスの指を、汚してしまった」  ごめんなさい、と言い置いてからテアが近づいてきて、ゼクスの方が驚く。驚いている間に、先ほどテアの唇を拭ったゼクスの指を、飼い犬か何かのようにテアが舐めた。柔らかな黒髪が、その動きに合わせて流れていく。 「テア、そんなことをしなくて良いんだ。手を拭けばいいだけだから」  慌ててゼクスがテアの両の肩に触れると、テアもまた、ひどく驚いた顔をする。 「……でも……じゃあ、俺は何をすれば……」 「そうだな。私と一緒に、この果物を食べて欲しい。残ったままの皿を下げたら、朝早くから市場に買い出しに行った使用人たちが哀しむからな……だが、私は普段から果物はそれほど食さない。残ったら困るんだ」  冗談めかしてゼクスが返すと、テアの顔つきが変わった。「頑張る」と言い置いてから、せっせと口に運び始めた。 「……本当に、美味しくて……これ、全部食べても、怒らない……?」  ゼクスや使用人のためにと食べ始めたテアが、食べ進める途中で下を俯き、そう問いかけてきた。今、ゼクスがテアのために持ってきた皿の果物の量など、本来食べさせたい量のいくらにも満たない。しかし、全てを食べたら怒られると、テアは刷り込まれているのだ。 「食べたいだけ食べて、足りなかったら言えば良い。使用人たちも喜ぶだろう。やっと自分たちが報われる日が来たことに」  うん、と頷いたテアはしかし、ゼクスを見上げることはなかった。動きは段々鈍くなっていき、嗚咽を漏らし始める。ゼクスは悩みに悩んで、俯いているテアの柔らかな髪に手のひらを置いた。予想通りテアの肩が大きく震えたが、優しく撫でているうちにその震えも小さくなっていく。 「テアが好きな時に食べたり、お腹いっぱいに食べることを、私は絶対に罰したりはしない。我が神に誓う。少しずつで良いから、食べることに喜びを感じてくれたら嬉しい」 「……よろこび……?」  ようやく、濡れた青の瞳がゼクスを見上げてきた。テアが目を瞬かせると、ぽろっと涙が零れ落ちていく。驚くくらい美しいその薄い青に、ゼクスはあえて笑いかけた。

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